紫煙は蒼穹に揺蕩う

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「あれ、お前煙草吸ってたっけ」

彼からふわりと漂う煙草の匂い。以前まではしていなかったから、禁煙していたのか匂いに気を付けていたのか。ただその窶れ具合は誰がどう見ても一目瞭然だ。

「……匂い、きついか?」

彼の言葉は質量を帯びて地に落ちていく。手渡した仕事の資料を持つ手が震えているようにさえ見えた。

「いや、大丈夫だけど……」
「悪いな、手を煩わせて」

声に明確に棘がある。だがその棘は誰かを刺す為のものではなく、自分を刺すそれだ。彼はまだあの日のあの頃に居る。

「あんまり言いたかねェけど、吸い過ぎンなよ」
「……」

彼からの返事は無い。資料に書かれている文字を凝視しているだけだ。そりゃそうだ。そこにあるのは彼が全てを失くしたと言っても過言では無い事件の詳細だ。被害者である若い男は彼にとって、大事に大事にしていた存在。彼が守りたくて、でも間に合わなくて守れなくて。

オレの視線に気が付いたのか、彼はよそよそしく会釈をしてこの場から立ち去った。向かったのはおそらく、喫煙所だろう。



──……



資料として渡された紙面には、あの日の詳細。俺が知らないあの人の行動。俺が知っているあの人の行動。その全てが事細かに書かれていた。何度も何度も文字を目でなぞって反芻していくに連れて、漠然とした苛立ちが募って頭痛が悪化していく。

──何故、どうして。

そんな問いに答えてくれる人はもう居ない。

喫煙所代わりになっている屋上。そこに置かれているベンチに腰掛け震える手で煙草に火を灯して、大きく吸い込んで煙と共に胸の内に抱えた感情をふうと吐き出す。

「おーい」

暫く項垂れていると、頭上から声が降ってきた。手に持っていた煙草は燃え尽き、長くなった灰の部分が少しの衝撃で崩れ落ちてしまう状態。声に顔を上げると同期の姿。

「やぁっと気付いた。ずっと呼んでたのに」
「……悪い、俺に何か用か?」
「どうしてるかなって、ただそれだけ。煙草、吸ってなかったよね?」

そうだったか。そうだったのかもしれない。少なくとも皆の前では。

「なんで吸い始めたの?」
「……なんで、だろうな」

俺の身体はいつからニコチンで動くようになったのか。最初に吸い始めた切っ掛けなんて単純なことだったような気がする。好奇心、憧れ。

「大丈夫?」
「……何が?」
「その、あんまり大丈夫そうには見えなくてさ」

大丈夫かどうかなんて、自分でも分かりやしない。たとえ大丈夫じゃないとしても動かなくちゃ、走らなくちゃならない。

「死に急がないでね」

おどけたような素振りをしてそう言ったソイツは、俺を屋上にひとり残して去っていった。

生き急ぐと死に急ぐとはどう違うのだろう。ふと残された言葉の意味に疑問を覚えた。似たような言葉だけど、本質としては真逆なのかもしれない。

俺が煙草をまた吸い始めたのは、誰かの声を聴いていたくて何気なく付けたTVで、煙草の依存性や危険性を放送していたからだ。こうやって無為に現世での懲役をこなすくらいなら、いっそ好き放題やってやろうと。

久しぶりに吸った煙草の味は酷く苦くて、こんな物を嗜む人間はどうかしている、だなんて若い頃の自分を含めて理解に苦しんだ。だけど今やその感覚は遠い昔の事のよう。

命がよくあるゲームのHPだとして。その数字を確実に減らしていくように吸い込む煙は、俺をどこか現実から離れた所に遠ざけてくれるようにさえ錯覚する。

早く、この命が燃え尽きてしまえばいいのに。

そんな事を考えながら俺はまた次の煙草に火を灯す。



fin.
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