窮鼠

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「こんにちは」

背後から柔らかな声を掛けられ、地面に落としていた視線を持ち上げ声の方を振り向くと、そこに立っていたのは自分よりも小柄な男。ゆるふわとした髪が風にそよいでいるその男は声質の通りの柔らかい笑みを浮かべながらこちらを見ている。

「どうも……」
「いかがされましたか?」

日中は殆ど人気が無い閑散とした住宅街。道路は乗用車2台がぎりぎりすれ違える程度の幅しかない。周辺には飲食店も無ければスーパーも、コンビニすらも無い。そんな街の一角。

なるべく不躾にならないように、声を掛けて来た男に視線を走らせる。年の頃は30くらいか?見た目では判断が付きにくい。服装は丈の長い黒っぽいアウター、襟元が大きく開いたインナー。黒のチノパンに紺色にも黒にも見えるスニーカー。手荷物はない。シンプルで落ち着いている、と言えば聞こえはいい。だが身に付けている物のどれもがありきたりのものばかりで、特徴がない。強いて言うならば顎にある黒子だろうか。

近隣住民だろうか。

この近辺に住んでいる訳ではない為、当然見覚えなどない。仮にこの男が近隣住民だとして、自宅周辺をうろつく者を怪しんで声を掛けてきたと仮定しても、なんら不思議なことではない。客観的に見れば、見知らぬ人間が平日の真っ昼間から近所を徘徊しているなど、不審極まりないだろう。

相変わらず柔らかい笑みを浮かべたままの男からは、あからさまな警戒の色は伺えない。だが、万が一。目を付けられたりトラブルに発展するような事態は避けたい。

「すみません、実はこの辺りで物を落としてしまって」
「もしかして、落としたのはこれですか?」

男は右手に何かを掲げながら首をわずかに傾げる。貼り付けたような笑顔の横で、タグのついた鍵がチャリと音を立てて揺れた。

「あっ、あぁ……それ、自分のです。ありがとうございます。どこにありましたか?」

男の顔からすっと笑みが消えた。

「殺人事件現場です。二丁目で起きた」

男の言葉に心臓が一気に煩くなった。殺人事件、この近くで。思わずごくりと生唾を飲み込む。一瞬さまよった視線を男に戻すと元の柔らかい笑顔に戻っている。その表情と差し向けられた言葉とのミスマッチに、ざわりと鳥肌が立つような不快感が全身を駆け巡っていく。

「殺人事件現場……?なんで……」
「"なんで"?」

こちらの声に被せるように男が復唱する。男の瞳が返答を促してこちらをじぃと見詰めてくる。

「いや……、この近くですか?怖いな……どうしてそんな所にあったんでしょう?私が殺人現場で落とすはずがないので、誰かが持っていったんでしょうか……」
「あぁ、すみません間違えました。すぐそこの、排水溝の近くに落ちていましたよ」

男は続ける。

「"殺人現場で落とすはずがない"、ですか。どうしてそう言い切れるんでしょうか」
「えぇ?だってそんな所行ってませんから。行ってない場所で落とすなんて、有り得ないでしょう?」
「場所を知っているんですか?自分は二丁目、としか言っていませんが」
「ニュースで見たので」
「おかしいですね、記者提供はまだのはずです。それに、ニュースでは詳細な番地までは報道されないと思いますけど」
「あ、いやSNSだったかも。とにかく何かで見たんです。近所だし、結構騒ぎになっていたので、それで」

とにかく会話を早く終わらせたい。その一心で捲し立てるように言葉を紡いでいく。一貫して落ち着いている目の前の男とは対照的に、じわじわと確実に焦りが押し寄せてくる。

「ふふ、"騒ぎになっていた"。よくご存知で。まるで現場を見てきたかのようだ」
「あの、さっきから何なんですか?急いでるんで早くそれ渡してくれませんか」

なおも続く問答に痺れを切らして、鍵を受け取る為の左手をずいと男に差し出す。男はその手に視線を落とすと、笑みを深めて手のうちの鍵を握り込んだ。

「すみません、名乗っていませんでしたね。警視庁第四機動捜査隊の香坂(コウサカ)と申します。模部さんですよね?そんなに急いでどこに行かれるんです?」
「どこだっていいだろ、アンタには関係ない」
「模部さんに話を伺いたいのですが」
「警察に話すようなことなんてない」
「へぇ、心当たりが無いと?殺人事件が起きた現場に、鍵が落ちていたと申し上げたはずですが」
「嘘を言うな!有り得ない!オレを嵌めようったって無駄だ!」

声を張り上げて香坂と名乗った男を睨み付ける。童顔で優しげな、一見警察官であるとは到底見抜けない風貌の彼は模部の声に怯む様子など一切なく、やはり笑顔のまま何かに納得したように数回、頷いてみせた。

「成程、貴方の口振りで確信しました。現場を離れた時には確かに持っていた。だけどその後何処かで落としてしまった」

何か言わなければならないのに、模部の口からは続く言葉が出てこない。真っ直ぐ射抜いてくる香坂の視線から逃げるように逸らす。

「どうしました?何か、言いたい事は?」
「っ、違う。オレは関係ない、何も知らない」
「違わねぇだろ、嘘の匂いしてるよお前。イチ、コイツでビンゴだよ」

背後、ほど近くから発せられた声に心臓が跳ね上がる。模部はひゅ、と息を飲んで弾かれるようにその場から跳び退いた。いつの間に、手を伸ばせば届く距離にまで接近を許していたのか。振り向くと、然程身長は高くないにしろ、服の上からでも分かるほどに筋肉質な男が、感情の読めない表情で静かに立っていた。

「嘘の匂い?冷や汗とかそういう?……すみませんね、鼻が効くのが居て。お話、聞かせていただけますよね?」
「ぜーんぶ話してスッキリしようぜ」

前方には香坂と名乗った男、後方には屈強そうな男。一般家屋が建ち並ぶこの道路において、退路を塞がれたことに気が付いた。彼らに捕まらずにここを脱出するには、妨害を突破して傍を通り抜けるか、両手から迫る彼らを振り切って他人の家の中、あるいは上を横断するか。

そんなことが果たして可能だろうか。

黙り込んでしまった模部に、二人はそれ以上言葉を掛けることはしなかった。近付いても来ない。だが、模部の次の行動に全神経を注いでいるのが嫌でも分かり、動くに動けない。少しでも動こうものなら瞬く間に噛み付かれる。そんな緊張感。


じりじりとした膠着、緊張の糸を切ったのは香坂だった。模部を捉えていた目が、ふと興味を失ったように別の何処かに視線を移した。その隙を逃してはならない、と模部は香坂に突進し、走る勢いそのままに香坂の顔面を殴り飛ばした。

「っ、」

模部の拳をまともに食らった香坂は弾かれ、そのまま後ろに倒れ込んだ。香坂の手から放り出された鍵を引っ掴み、足を縺れさせながらも必死に走り出す。

「陽(ハル)さん!」

香坂が声を張り上げた。そう認識した瞬間、背中に衝撃が走った。ぐっと息が詰まり、身体がつんのめる。そして地面が物凄いスピードで目前に迫り、気が付けば這いつくばるような姿で道路のど真ん中に倒れ込んでいた。

飛び蹴りされたのだと、脳が遅れて信号を出した。

「うちのイチに何してくれてんだお前」

背中に乗った足にぐっと力が込められ、地を這うような低音が耳を打つ。肺を潰される恐怖に、引き攣った悲鳴が模部の喉から漏れ出す。

「陽さん!」
「なんで止めるんだよ」
「その先は不当な行為だよ。足下ろして」
「……やだよ、だってコイツ」
「大丈夫だから。俺の言うこと利いてよ」
「……」

数段柔らかい声色で話す香坂の呼び掛けで、模部を押さえ付けていた足の力が僅かな緩む。陽と呼ばれた男は無言で手錠を取り出すと、淡々と模部の罪状を声にしながらその手首に掛けた。

「くそ、……あと少しで……」
「あと少し?何言ってんの。アンタはもう逃げられないよ」

先までの柔らかい笑顔など嘘のように、冷たい表情を浮かべた香坂は、口元に滲む血を手の甲で雑に拭いながら続ける。

「よく見なよその鍵。アンタが罪状増やしてまで奪い取ったそれは本当にアンタが探してたやつかな」

その言葉に模部は鍵を握り締めたままだった拳をゆっくりと開いて視線を落とした。一本一本、指を順に剥ぐように開いた手の平の中にあったのは、楕円形のタグがついた鍵。タグには白いテプラが貼り付けられ、ゴシック体で「警務備品2」と書かれていた。

模部が失くした鍵ではなかった。

よく見れば失くしたそれとは、タグの色も形状も、鍵の形すら違う。普通ならまず間違えない。そう断言出来るほど、探していたものとは似ても似つかないものだった。

模部は自身の手から離れ地面に落ちたそれを呆然と見詰めながら、気付かぬ内に自分が致命的な程に冷静さを失っていたことを自覚した。

「……はは、……」
「署までご同行を」
「……」
「ほら、立て。やった事全部、話せよ」

陽にぐいと引っ立てられ、よろよろとよろめきながらも立ち上がる。

「はっ、やった事全部って……。証拠無いだろ、オレは何もやってない」

鼻で笑う模部に二人の刑事は少しの間見詰め合う。そしてまるで互いに示し合わせたように模部に同時に顔を向けた。そして一歩前に出た香坂が、くるりと向きを変え恐ろしい程に満面の笑みを浮かべながら話し始めた。

「凶器は処分した、見付からないから大丈夫だろうって?なにか勘違いしてるみたいだから言うけど、アンタの犯行を裏付ける証拠はいくらでもあるんだよ」

そして続けて陽が模部の横で淡々と話し始める。その表情は柔らかい笑顔ではあるが、目の奥は一切笑っていない。

「例えば。刺傷ひとつで犯人の人物像、被害者との関係、利き手、身長は推測出来る。今回はさしずめ恋愛の縺れ……いや、一方的な逆恨みか?それともただの"勘違い"か」
「っ、違う!オレは!……オレは!!」
「おっと、暴れるなよ。手元が狂ってお前"で"地面の汚れ掃除しなきゃならなくなるだろ」
「陽さん」
「……」

言葉に秘められた狂気に模部は思わず生唾を飲み込んだ。本当にこの2人は警察官なのかと疑う。そんな模部の様子を知ってか知らずか、香坂が一歩近寄って言う。

「アンタが襲った被害者、目が覚めたそうですよ。証言も取れたようです」
「良かったな、殺人犯にならなくて」

右側から背中に回った陽の手が、模部の左肩を痛い程に強く掴んだ。


強い日差しが降り注ぐ晴天。全てを諦めて俯く模部の視界の先で、自身の足元から伸びる影がゆらりと大きく揺れていた。




fin.
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