魘夢をかき消して

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ここは何処だろう。閉じていた瞼をこじ開けて見えたのは見知らぬ場所。殺風景な部屋。何も無い。ただ、見慣れた後ろ姿だけがあった。

「──っ」

彼の名前を呼んで駆け寄る。ここが何処だか分からないとしても彼がいるというだけで、安心する。彼とならば何処だって構わない。

でも何かが違う。

いつもなら俺の声に振り返って「なんだ?」と返してくれるのに。柔らかい微笑みで、温かい声で。なのに、今目の前に佇んでいる彼は、そうじゃない。彼が纏う空気は酷く鋭利で、冷たい。こんな彼は知らない。

「お前に言っておきたい事がある」
「な、に…?」

俺の方を見向きもせず放たれた言葉は、俺の心を抉るのに充分過ぎるほど、鋭い刃だった。

「オレはお前が嫌いだよ」

何かの冗談だと思いたい。そんな筈はないと。昨日だってふたりで評判のレストランに行って、ふたりで晩酌を酌み交わして、そして深く愛し合って。

「っ、…ど、して…?俺、なにかした?お前が嫌がること、なにかしたの?直すから、謝るから、……ッ」

縋り付くように伸ばした手は、渇いた音と共に弾かれる。行き場を失った震える手は宙を少し漂って、すとんと下に降りた。涙で彼の姿がぼやけていく。なんで、どうして。今までそんな素振り一切なかったのに。

「ね、ぇ…」
「うるせぇな、そういうところが面倒臭くて嫌いなんだよ」
「……っ」
「だからもうお前とは今日限りで終わり」

彼の本心に気付かずに浮かれていただけだったんだ。彼がくれる言葉も温もりも、愛もぜんぶ嘘だったんだ。知りたくなかった。知らないままでいたかった。

「じゃ、そういうことだから」

嫌だ。待って。行かないでくれ。俺を独りにしないでくれ。去っていこうとする彼の名前を呼び叫ぶしか出来なかった。


───…


「──!!」

ソファーでうたた寝をしていた彼が突然オレの名前を叫びながら飛び起きた。ビックリして手に持っていたマグカップの中身を危うく零しかけたことを、文句でも言ってやろうかと思ったが、彼の姿を見た瞬間にそんな感情は消え去った。

泣いている。ボロボロと大粒の涙を零している。

「──?」

目の前まで行き、彼の名前を呼ぶと虚ろだったその眼がオレの姿を捉えた。

「……ぁ、…え、…じゃ、いまの、はゆめ……」

オレの名前を叫んで飛び起きたくらいだ。良い夢ではないのは確かだ。夢の中のオレは彼に一体何をしたのか。

「どんな夢だったか、話せるか?」
「っ、だいじょぶ、ごめん、煩くした、よね」

どう見たって大丈夫には見えない。無意識なのか意図的なのか分からないが彼と目が合わない。オレを見てはいるがその視線はオレの目ではなく、オレの胸辺りで彷徨っている。

「本当に?」
「ん、大丈夫、ごめん」
「……なら、なんでオレの目を見ないんだ?」
「…っ、だっ、て…おまえ、が…」
「オレが、何だって?」
「わか、れ…るって…」
「は?んなワケねぇだろ」
「っ、おれ、のこと、め…わく、って……ッ」
「……」
「ずっと、きらいだっ、たって……ッ」

幼い子供のように泣きじゃくる彼をぎゅ、と強く抱き締める。夢で彼が作り出したオレの幻が、彼を苦しめていた。魘されていたのはオレのせいだった。

なら、その誤解はしっかりと現実のオレが解いてやらないと。

「──、こっち見ろ」

彼の頬を両手で挟んでしっかりと目を合わせる。涙で濡れた彼の目はゆらゆらと揺れて泳いでいる。まるで親に叱られ恐怖に怯える子供のように。

「いいか?それは単なる夢だ。全部、悪い夢。オレはお前と別れるつもりはないし、お前を迷惑とも嫌いとも思っちゃいない」
「……嘘、じゃない?」
「嗚呼、嘘じゃねぇよ」
「んへ……」

迷子になっていた子供が、帰る場所を見付けたかのような。そんな安堵しきった柔らかい微笑みを浮かべて、オレの肩にぽす、と頭を預ける彼。小さな声で「よかった」と呟きながら、また涙を零す。でも今度は恐怖からのそれではない。

一頻り泣いた彼はゆっくりオレから離れると、ずずっと鼻を啜りあげる。こんなくっしゃくしゃに泣いてる彼を見られるのはオレだけの特権なんだろうな、なんて。

「もう大丈夫か?」
「うん、大丈夫」

彼はにっこりと微笑んでそう答えた。

「よし、なら風呂入るぞ」
「うん、…うん?」
「悪い夢も涙も全部、洗い流してやるから」
「ふふ、じゃお願いしちゃおっかな」

ほら、やっぱりお前には笑顔が似合うよ。


fin.


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