Moment
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ガシャン、というでかい音が聴こえて集中して睨み付けていたパソコンの画面から目を離す。何の音だ?何かが割れたような。音は何処から。
音の出処を探して自室兼仕事部屋から出てリビングに向かうと、その真ん中で座り込んでいる同居人の姿。彼の近くにはおそらくさっきの音の元凶であろう、グラスが割れて散乱している。あれは確か彼のお気に入りの…。
いや、それよりも怪我をしていないかだけでも確認しないと。
「──、」
彼の名前を呼んで近寄るにつれて、異変が明らかになっていく。その眼は虚ろで、目の前のオレの姿はおろか、このリビングの光景すら見えていないように思えた。
嗚呼、彼はまた。
「……大丈夫だよ」
彼の身体を抱き寄せて背中を擦りながら、声を掛ける。オレの声はきっと今の彼には届いていない。今の彼は此処ではない何処か遠くに居る。割れたグラスで切ったであろう彼の手から零れている赤色も、今の彼には映っていない。きっと、痛みすらも。
「ソファーに座ろうか」
ソファーに誘導して彼を座らせる。そして彼の傷の具合を見る。嗚呼、結構ざっくりといってしまっている。破片を咄嗟に掴んだのだろうか。とにかく消毒してやらないと。
救急箱を取るのに棚に向かう時、横目で見えた食卓の上に置かれたパンフレット。何冊かあるそれらにはおそらく彼が行きたい場所であろうページに付箋が貼られている。絶景の名所だったり、美味しいと評判のレストランだったり。付箋を貼り付けている時の彼の表情が目に浮かんで、思わずくすりと笑えた。
出来ることなら全て連れて行ってやりたい。
彼の手の傷の手当を一通り終わらせ、横に座って彼を自分の肩に凭れさせて、怪我をしていない方の手をそっと握る。
「…、ぁ…」
ふと、彼が小さく声を出した。
「…俺、…また、……ごめ、ん……」
「謝らなくていい」
「で、も……」
「大丈夫だから」
「…っ、」
正気に戻った、と言うのが正しいのかは分からない。彼は大粒の涙をぼろぼろと零す。何度も、何度も「ごめん」と震えた声で繰り返しながら。
彼は数年前にその心に癒えない傷を負った。自分にとっての大切な存在を、たった一年の内に全て喪った。そうして傷付いた彼にトドメを刺したのは、他でもない血の繋がった家族だったという。
彼が自分と暮らす上で知っておいて欲しい、と当時書いていた日記を読ませてくれた事で、オレは彼の傷を知った。綴られた文字は所々滲んでいたり、ページもくしゃりとシワが着いていたり。何枚か千切り取られた跡があったり。ただ一言、「たすけて」と書かれたページには血痕みたいなシミがあったり。
彼は色んな事を教えてくれた。日記の事もそうだが、彼の身体のことも。
「落ち着いたか?」
「…ん、ごめんね、仕事してたよね」
「それは気にしなくていい」
「…でも、」
「何かあったら呼べっつっただろ。その為に在宅にしてんだから」
「……うん」
いつ何時、彼の心身に何があっても良いように。その為だけにオレは家で出来る仕事を捜して就いた。四六時中とまではいかないが、出来る限りの時間 彼を傍で支えてやるには そうするしかないと思ったから。そう、してやりたいと思ったから。
「ね、今度さ、検査結果が良かったら行きたいとこあんの」
「パンフレットのやつか?」
「うん、白糸の滝ってとこ」
すっかり落ち着いたのか、さっきまでの泣き顔はどこへやら。食卓にあったパンフレットを持ってきて、ここはどうで、とかを説明してくれる彼の顔はきらきらとしていて可愛い。
「ねぇ聞いてる?」
「あぁすまん、で?何がなんだって?」
「聞いてないじゃんかよ」
「悪かったって」
「だから、ここは……──」
願わくば、この先もずっとオレの隣で笑っていて欲しい。その為ならばオレは何でもしよう。彼の為ならばオレは何にでも成ろう。
愛しているから。
fin.
ガシャン、というでかい音が聴こえて集中して睨み付けていたパソコンの画面から目を離す。何の音だ?何かが割れたような。音は何処から。
音の出処を探して自室兼仕事部屋から出てリビングに向かうと、その真ん中で座り込んでいる同居人の姿。彼の近くにはおそらくさっきの音の元凶であろう、グラスが割れて散乱している。あれは確か彼のお気に入りの…。
いや、それよりも怪我をしていないかだけでも確認しないと。
「──、」
彼の名前を呼んで近寄るにつれて、異変が明らかになっていく。その眼は虚ろで、目の前のオレの姿はおろか、このリビングの光景すら見えていないように思えた。
嗚呼、彼はまた。
「……大丈夫だよ」
彼の身体を抱き寄せて背中を擦りながら、声を掛ける。オレの声はきっと今の彼には届いていない。今の彼は此処ではない何処か遠くに居る。割れたグラスで切ったであろう彼の手から零れている赤色も、今の彼には映っていない。きっと、痛みすらも。
「ソファーに座ろうか」
ソファーに誘導して彼を座らせる。そして彼の傷の具合を見る。嗚呼、結構ざっくりといってしまっている。破片を咄嗟に掴んだのだろうか。とにかく消毒してやらないと。
救急箱を取るのに棚に向かう時、横目で見えた食卓の上に置かれたパンフレット。何冊かあるそれらにはおそらく彼が行きたい場所であろうページに付箋が貼られている。絶景の名所だったり、美味しいと評判のレストランだったり。付箋を貼り付けている時の彼の表情が目に浮かんで、思わずくすりと笑えた。
出来ることなら全て連れて行ってやりたい。
彼の手の傷の手当を一通り終わらせ、横に座って彼を自分の肩に凭れさせて、怪我をしていない方の手をそっと握る。
「…、ぁ…」
ふと、彼が小さく声を出した。
「…俺、…また、……ごめ、ん……」
「謝らなくていい」
「で、も……」
「大丈夫だから」
「…っ、」
正気に戻った、と言うのが正しいのかは分からない。彼は大粒の涙をぼろぼろと零す。何度も、何度も「ごめん」と震えた声で繰り返しながら。
彼は数年前にその心に癒えない傷を負った。自分にとっての大切な存在を、たった一年の内に全て喪った。そうして傷付いた彼にトドメを刺したのは、他でもない血の繋がった家族だったという。
彼が自分と暮らす上で知っておいて欲しい、と当時書いていた日記を読ませてくれた事で、オレは彼の傷を知った。綴られた文字は所々滲んでいたり、ページもくしゃりとシワが着いていたり。何枚か千切り取られた跡があったり。ただ一言、「たすけて」と書かれたページには血痕みたいなシミがあったり。
彼は色んな事を教えてくれた。日記の事もそうだが、彼の身体のことも。
「落ち着いたか?」
「…ん、ごめんね、仕事してたよね」
「それは気にしなくていい」
「…でも、」
「何かあったら呼べっつっただろ。その為に在宅にしてんだから」
「……うん」
いつ何時、彼の心身に何があっても良いように。その為だけにオレは家で出来る仕事を捜して就いた。四六時中とまではいかないが、出来る限りの時間 彼を傍で支えてやるには そうするしかないと思ったから。そう、してやりたいと思ったから。
「ね、今度さ、検査結果が良かったら行きたいとこあんの」
「パンフレットのやつか?」
「うん、白糸の滝ってとこ」
すっかり落ち着いたのか、さっきまでの泣き顔はどこへやら。食卓にあったパンフレットを持ってきて、ここはどうで、とかを説明してくれる彼の顔はきらきらとしていて可愛い。
「ねぇ聞いてる?」
「あぁすまん、で?何がなんだって?」
「聞いてないじゃんかよ」
「悪かったって」
「だから、ここは……──」
願わくば、この先もずっとオレの隣で笑っていて欲しい。その為ならばオレは何でもしよう。彼の為ならばオレは何にでも成ろう。
愛しているから。
fin.
