よづめ
¨
ふと、最近爪を切った記憶が無いなと思った。昼飯にコンビニで買ったおにぎりを持つ手を眺めて、前に爪を切ったのはいつだったか、と記憶を辿る。
「……ん?」
「どした?」
思わず零れた声に隣で同じように昼飯であるカップラーメンを啜る彼の反応に、咄嗟に「いや、なんでもねェ」と返して、もう一度自分の爪を確認する。やっぱりそうだ。爪が伸びていない。少なくとも2週間は切っていない筈。だがオレの爪は以前に切り揃えた時から、僅かに伸びてはいるが邪魔になる程ではない長さ。だから切っていない事を忘れていたのか、と納得はしたがどうにも不自然な状況だ。
「手がどうかしたの?」
「ん、嗚呼……」
オレの方をじっと見ていた彼が問う。別に隠すことでもないか。と、オレは彼に手を見せる。
「最近爪切ってねェなって思ってたんだが、ほら、あんま伸びてねェンだよ」
「……」
「ンだよ」
彼のぽかんとした表情。そりゃそうなる。オレも彼に同じ事言われたら多分何言ってんだコイツ、と思う。その程度の事なんだと自分に納得させて、手を引っ込めた。
「いつから切ってないの?」
「2週間、くらい?」
「……2週間?」
オレの返答に彼の眉間に皺が寄る。さっき見せた爪の状態を思い起こしているんだろうか。
「深爪でもした?」
「いや、普通に切った」
彼がオレの手を取ってまじまじと眺める。そして更に眉間に皺を寄せていく。
「2週間放置でこの長さのままなわけない」
「……だよなァ」
「なんでだ……?」
あんまり深刻な顔をしないで欲しい。こっちまで暗くなる。そんなオレに気付いたのか、彼は慌てたように口を開いた。
「あ、あれじゃない?もしかして栄養とか睡眠とか足りてないとか?最近顔色悪い時あるし」
「え?」
そんな自覚は一切無かった。体調は普段通りな筈。自分の額に手を当ててみても特に熱さはない。
「偶にね、今日も少し蒼白い気がする」
「別に大丈夫だけどな」
「ちゃんと食べて寝なよ」
それはこっちのセリフだ、とは言わなかった。この人は自分の事より他人を優先する。だから言ったところであまり聞く耳を持っちゃくれない。
夜。
背筋を氷が滑り落ちていくような感覚に飛び起きる。いや、飛び起きようとして叶わなかった。手足が全く動かない。動くのは首だけ。なんだ?どういうことだ?
隣には寝息を立てている彼の姿。手を伸ばせば届く距離に居るのに、彼を抱き寄せてその体温で安心したいのに、それも叶わない。
ふと、足元で何かが動いた、気がした。出来る限り足元に目を向けてじっと目を懲らす。何かいる。が、それを蹴飛ばすことも叶わない。
──ぱちん……ぎっ…ぱちっ……きぃ……
小さな音が聞こえてくる。何の音かは分からない。だが右足に何かが触れている。その感触は確かにある。なんだ、何がいるんだ。やがて、足元にいる何かがごそりと動いて感触は左足に移った。そしてまた小さな音。
──ぱちっ……ぎぃ…ぱちん……
蹴飛ばせないのであれば、と声を出そうとしたがオレの喉からは風が通り抜けるような僅かな音だけが出された。
今オレは金縛りに遭っている。それは理解した。だが身体だけが眠っている、とかの理由ではなく足元の気配が原因なのは明確だ。考えている間にも小さな音は続いている。何かが弾けたような音が。
不意に足元の何かがゆらりと動いた。真っ暗な部屋の中ではその姿はよく見えないが、その身に纏っている白い布はよく見える。ソイツは布団から出して腹辺りに置いていたオレの手を取って指先に何かを押し当てる。
──ぱちっ……
響いた音でソイツが何をしているかを理解した。理解したと同時に恐ろしさに自然と息が上がる。爪を切られている。意味が分からない。ソイツが手に持っているのは小さなペンチの様なもの。多分、爪切り鋏だ。それをオレの指先に押し当てて、爪を切っている。
「……ッ」
引き攣ったような声がオレの喉から僅かに漏れた。その声に反応してかソイツがこちらに顔を向けた。暗がりに目が慣れている筈なのに、ソイツの表情は全くと言っていい程見えない。隣で眠る彼の寝顔は見えるのに。
「…め…しょう……つ…ましょう……」
ソイツがぼそぼそと何かを言っている。が、声が小さ過ぎてうまく聞き取れない。ソイツの頭が近付いてくる。顔を背けて目をぎゅっと強く瞑るしか今のオレには出来ない。
「つめましょうか」
不意にはっきりと聞こえた声に反射的に目を見開いた。開いてしまった。ソイツの顔が目の前にある。顔、と言っていいのかも分からない。なにせソイツの頭には口しかない。表情が見えないんじゃない。表情を作るだけの部位がそもそも存在していなかった。
「つめましょうか」
ソイツが再び問い掛けてくる。つめるってなんだ。一体何を。それを問おうにもオレの口から漏れるのは声ではなく、吐き出された息だけ。
「詰めましょうか。詰めましょうよ。詰めましょう」
ピリ、とした痛みが指先に走った。爪切り鋏が親指に押し当てられている。ぐぐ、とソイツが力を加える度に痛みが走る。
「詰めましょう。詰めましょうか」
繰り返される言葉と指先の痛みに頭の中が真っ白になっていく。詰めるとは何だ。痛い。爪を切られて。夜に。痛い。爪を。
そういえばいつだったか、夜に爪を切ると親の死に目に会えなくなる、と聞いた事がある。迷信のひとつだ。元々は夜間の灯りが乏しい時代の教訓のようなもので、手元がよく見えない暗闇で爪を切ると手元が狂って怪我をしてしまうからだ、と。そして、『夜爪』は『世詰め』とも書く。世を詰める。つまり早死にする。だから親の死に目に会えないのだ、と。
「詰めましょう!詰めましょうか!詰めましょうね!」
オレの頭の中を覗きでもしたのか、途端にソイツの声が大きくなった。狂気的に繰り返されるその言葉に喜びのようなものすら感じ取れる。ダメだ。否定しなくては。そう頭で分かっていても声が出ない。指先に走る痛みと恐怖とで息の仕方すら分からなくなる。早く、早く否定しなくては。断らなくては。ぎゅ、と瞑った目から涙が落ちたその時だった。
「断わる!!!」
雷鳴のような怒号が響き渡った。はっとして目を開けると隣で眠っていた彼が息を荒らげながら起き上がっていた。そして軽く咳込んだ後、
「ダメだ!!断わる!!詰めるな!!!」
彼のあまりの勢いに気圧されたのかソイツがオレの手を離した。咄嗟に手を引いたことで、オレも動けるようになったことに気付いた。弾けるように布団を蹴飛ばして彼の背中に隠れるようにして縋り付く。
「勝手な事吐かしてんじゃねぇぞ!誰の許可取ってコイツを連れて行こうってんだコラ!ぁあ!?」
彼の剣幕にソイツは怯えるでもなく鋏を鳴らす。錆び付いた金属が ぎっ、と擦れては、閉じられて きん、と高い音を出す。その音に幾分か冷静になったのかどうなのか知らないが、さっきよりは落ち着いた声色で、
「大体そんな小さな鋏でコイツの命の綱を切れるわけないだろ。俺が握ってんだから。御前の出る幕は無ぇの。分かったらとっとと失せろ」
彼がそう言うとソイツはどこかへと消えていった。
「いつ起きたンだ?」
家中の明かりという明かりを付けて居間のソファーにふたり並んで座る。彼が淹れてくれた温かいカフェオレが身に染み渡る。
「……アレが喋り始めた時。でも直ぐに動けなかった」
「しょうがねェよ、オレも動けなかったし」
「でももっと早く動けてたら」
少し血が滲んでいるオレの指先を見て、分かりやすく落ち込んでいる彼。この人はホントに自責思考が強い。そんな彼に言い聞かせるように伝える。
「オレは御前のお陰で助かったンだよ。有難うな」
彼は不満気な表情を見せるが、やがてゆっくりと息を吐いて「…どういたしまして」と小さく笑った。
彼が居てくれて本当に助かった。彼が居なければ今頃オレはきっと。
──ぎっ……きぃ……
fin.
ふと、最近爪を切った記憶が無いなと思った。昼飯にコンビニで買ったおにぎりを持つ手を眺めて、前に爪を切ったのはいつだったか、と記憶を辿る。
「……ん?」
「どした?」
思わず零れた声に隣で同じように昼飯であるカップラーメンを啜る彼の反応に、咄嗟に「いや、なんでもねェ」と返して、もう一度自分の爪を確認する。やっぱりそうだ。爪が伸びていない。少なくとも2週間は切っていない筈。だがオレの爪は以前に切り揃えた時から、僅かに伸びてはいるが邪魔になる程ではない長さ。だから切っていない事を忘れていたのか、と納得はしたがどうにも不自然な状況だ。
「手がどうかしたの?」
「ん、嗚呼……」
オレの方をじっと見ていた彼が問う。別に隠すことでもないか。と、オレは彼に手を見せる。
「最近爪切ってねェなって思ってたんだが、ほら、あんま伸びてねェンだよ」
「……」
「ンだよ」
彼のぽかんとした表情。そりゃそうなる。オレも彼に同じ事言われたら多分何言ってんだコイツ、と思う。その程度の事なんだと自分に納得させて、手を引っ込めた。
「いつから切ってないの?」
「2週間、くらい?」
「……2週間?」
オレの返答に彼の眉間に皺が寄る。さっき見せた爪の状態を思い起こしているんだろうか。
「深爪でもした?」
「いや、普通に切った」
彼がオレの手を取ってまじまじと眺める。そして更に眉間に皺を寄せていく。
「2週間放置でこの長さのままなわけない」
「……だよなァ」
「なんでだ……?」
あんまり深刻な顔をしないで欲しい。こっちまで暗くなる。そんなオレに気付いたのか、彼は慌てたように口を開いた。
「あ、あれじゃない?もしかして栄養とか睡眠とか足りてないとか?最近顔色悪い時あるし」
「え?」
そんな自覚は一切無かった。体調は普段通りな筈。自分の額に手を当ててみても特に熱さはない。
「偶にね、今日も少し蒼白い気がする」
「別に大丈夫だけどな」
「ちゃんと食べて寝なよ」
それはこっちのセリフだ、とは言わなかった。この人は自分の事より他人を優先する。だから言ったところであまり聞く耳を持っちゃくれない。
夜。
背筋を氷が滑り落ちていくような感覚に飛び起きる。いや、飛び起きようとして叶わなかった。手足が全く動かない。動くのは首だけ。なんだ?どういうことだ?
隣には寝息を立てている彼の姿。手を伸ばせば届く距離に居るのに、彼を抱き寄せてその体温で安心したいのに、それも叶わない。
ふと、足元で何かが動いた、気がした。出来る限り足元に目を向けてじっと目を懲らす。何かいる。が、それを蹴飛ばすことも叶わない。
──ぱちん……ぎっ…ぱちっ……きぃ……
小さな音が聞こえてくる。何の音かは分からない。だが右足に何かが触れている。その感触は確かにある。なんだ、何がいるんだ。やがて、足元にいる何かがごそりと動いて感触は左足に移った。そしてまた小さな音。
──ぱちっ……ぎぃ…ぱちん……
蹴飛ばせないのであれば、と声を出そうとしたがオレの喉からは風が通り抜けるような僅かな音だけが出された。
今オレは金縛りに遭っている。それは理解した。だが身体だけが眠っている、とかの理由ではなく足元の気配が原因なのは明確だ。考えている間にも小さな音は続いている。何かが弾けたような音が。
不意に足元の何かがゆらりと動いた。真っ暗な部屋の中ではその姿はよく見えないが、その身に纏っている白い布はよく見える。ソイツは布団から出して腹辺りに置いていたオレの手を取って指先に何かを押し当てる。
──ぱちっ……
響いた音でソイツが何をしているかを理解した。理解したと同時に恐ろしさに自然と息が上がる。爪を切られている。意味が分からない。ソイツが手に持っているのは小さなペンチの様なもの。多分、爪切り鋏だ。それをオレの指先に押し当てて、爪を切っている。
「……ッ」
引き攣ったような声がオレの喉から僅かに漏れた。その声に反応してかソイツがこちらに顔を向けた。暗がりに目が慣れている筈なのに、ソイツの表情は全くと言っていい程見えない。隣で眠る彼の寝顔は見えるのに。
「…め…しょう……つ…ましょう……」
ソイツがぼそぼそと何かを言っている。が、声が小さ過ぎてうまく聞き取れない。ソイツの頭が近付いてくる。顔を背けて目をぎゅっと強く瞑るしか今のオレには出来ない。
「つめましょうか」
不意にはっきりと聞こえた声に反射的に目を見開いた。開いてしまった。ソイツの顔が目の前にある。顔、と言っていいのかも分からない。なにせソイツの頭には口しかない。表情が見えないんじゃない。表情を作るだけの部位がそもそも存在していなかった。
「つめましょうか」
ソイツが再び問い掛けてくる。つめるってなんだ。一体何を。それを問おうにもオレの口から漏れるのは声ではなく、吐き出された息だけ。
「詰めましょうか。詰めましょうよ。詰めましょう」
ピリ、とした痛みが指先に走った。爪切り鋏が親指に押し当てられている。ぐぐ、とソイツが力を加える度に痛みが走る。
「詰めましょう。詰めましょうか」
繰り返される言葉と指先の痛みに頭の中が真っ白になっていく。詰めるとは何だ。痛い。爪を切られて。夜に。痛い。爪を。
そういえばいつだったか、夜に爪を切ると親の死に目に会えなくなる、と聞いた事がある。迷信のひとつだ。元々は夜間の灯りが乏しい時代の教訓のようなもので、手元がよく見えない暗闇で爪を切ると手元が狂って怪我をしてしまうからだ、と。そして、『夜爪』は『世詰め』とも書く。世を詰める。つまり早死にする。だから親の死に目に会えないのだ、と。
「詰めましょう!詰めましょうか!詰めましょうね!」
オレの頭の中を覗きでもしたのか、途端にソイツの声が大きくなった。狂気的に繰り返されるその言葉に喜びのようなものすら感じ取れる。ダメだ。否定しなくては。そう頭で分かっていても声が出ない。指先に走る痛みと恐怖とで息の仕方すら分からなくなる。早く、早く否定しなくては。断らなくては。ぎゅ、と瞑った目から涙が落ちたその時だった。
「断わる!!!」
雷鳴のような怒号が響き渡った。はっとして目を開けると隣で眠っていた彼が息を荒らげながら起き上がっていた。そして軽く咳込んだ後、
「ダメだ!!断わる!!詰めるな!!!」
彼のあまりの勢いに気圧されたのかソイツがオレの手を離した。咄嗟に手を引いたことで、オレも動けるようになったことに気付いた。弾けるように布団を蹴飛ばして彼の背中に隠れるようにして縋り付く。
「勝手な事吐かしてんじゃねぇぞ!誰の許可取ってコイツを連れて行こうってんだコラ!ぁあ!?」
彼の剣幕にソイツは怯えるでもなく鋏を鳴らす。錆び付いた金属が ぎっ、と擦れては、閉じられて きん、と高い音を出す。その音に幾分か冷静になったのかどうなのか知らないが、さっきよりは落ち着いた声色で、
「大体そんな小さな鋏でコイツの命の綱を切れるわけないだろ。俺が握ってんだから。御前の出る幕は無ぇの。分かったらとっとと失せろ」
彼がそう言うとソイツはどこかへと消えていった。
「いつ起きたンだ?」
家中の明かりという明かりを付けて居間のソファーにふたり並んで座る。彼が淹れてくれた温かいカフェオレが身に染み渡る。
「……アレが喋り始めた時。でも直ぐに動けなかった」
「しょうがねェよ、オレも動けなかったし」
「でももっと早く動けてたら」
少し血が滲んでいるオレの指先を見て、分かりやすく落ち込んでいる彼。この人はホントに自責思考が強い。そんな彼に言い聞かせるように伝える。
「オレは御前のお陰で助かったンだよ。有難うな」
彼は不満気な表情を見せるが、やがてゆっくりと息を吐いて「…どういたしまして」と小さく笑った。
彼が居てくれて本当に助かった。彼が居なければ今頃オレはきっと。
──ぎっ……きぃ……
fin.
