ジョジョの奇妙な冒険(短編)
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混濁
生臭い潮風に撫でられた真っ黒な水面に、彼女の中で肥大化した天使が流れてゆく。空条承太郎は、清潔な泡に戻っていく彼女を見つめながら、しばらくの間月光に打たれていた。
両腕に残る軽い痺れが、彼に衰えを思い知らせる。あの頃は、気を失った人間のひとりやふたり抱きかかえたところで、痛くも痒くもなかった。まるで物語の主人公のように、全てが上手くいったのだ。母親の命も助かった。海洋学で博士号を取得した。真実の愛にも恵まれた。ただ、全てを完璧に維持することが難しくなった。ほんの少しの偏りから目に見えて歪んだ生活は、やがて凡人らしく綻んだ。残ったのは博士としての地位と、忌々しい好奇心と、孤独だけだった。だからこそ、失った若さを取り戻すために、優秀な彼女に惹かれたのかもしれない。空条承太郎は、大学生の彼女に手をかけた。
「博士、見てほしいものがあるんです」
彼女は承太郎の研究室に手伝いのため訪れていた。とにかく知的好奇心が旺盛で、根性があって、そのために研究成果も相当なものだった。在学中に学会でも認められるような論文を次々発表し、ただ才能に溢れていた。
しかし、人生においては研究以外のことを切り捨てている節があった。当然友人なんて居るわけもなく、研究のために睡眠を削ったり、食事を疎かにすることもしばしば。そんな彼女が唯一楽しそうに話せる相手こそ、承太郎だった。
「このプランクトンなんですけど、性質を調べるために生息地の水質を調査して……」
承太郎は手渡された資料には目もくれず、彼女の目の下の隈をじっと見てきた。
「きみ、昨日は寝たのか」
「あ、はは、バレちゃいました? 夢中になっちゃって、つい……」
承太郎は彼女を気にかけずにはいられなかった。ひとりの学生として、自分の後輩としてもそうだが、とにかく研究一筋なところ、そのために孤独を強いられているところが、どうしようもなく愛おしかった。もっと歳が近かったら、自分の良き理解者として彼女が居てくれたら、と考える度に、自分が嫌になった。
「私のこと、そうやって心配してくれるのは博士だけですよ」
そうやって、彼女が眉を下げて笑う度、承太郎の心の奥はどす黒い感情でいっぱいになったりした。彼女の笑顔に嫌でも恋人を重ねてしまって、外したはずの薬指の指輪が彼女を締め付けるようで。彼女を崇拝すれば本物の天使が彼女を恨むだろうし、娘のような感情を抱く度に家族が彼女を睨む気がして、とにかく自分の感情に折り合いが付けられなくなりつつあった、ある日の夜。
「寂しいんですよね。……秘密にしますよ。承太郎さん」
彼女は承太郎の一線を、その背中に生えた翼を軽く羽ばたかせて、簡単に側まで踏み越えてきた。彼女の情が汚らわしい欲を全て塗り潰して、神様からも家族からも見えなくしてくれて、誰も触れていないキャンバスが白さを保ち続けるように、白いキャンバスが誰にも触れられていないことを暗に示すかのように、罪を全て包み込んだ。ただ、それも長くは続かなかった。
孤独は彼女の内臓を食い荒らし、抜け殻のように空っぽになった彼女を憑坐に変えてしまった。白が何色にでも染まるかのように、承太郎の内面の穢らしい部分を、綺麗に写し出した。
真っ黒になる寸前に、承太郎は彼女を殺した。遺体を両腕に抱えて、波打ち際にそっと下ろした。絵の具が水に溶けるように、彼女を乗っ取った幻影が、頭部の裂け目から水面にゆらゆらと這い出て消えていく。六十年が巡るのは、一瞬のことだろう。
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