第一章:魔物化現象
――医師・レフアーは博学な人であった。
聞けばなんでも答えてくれたし、アディンがどんな怪我をしようと体調を崩そうと、動じることなく「こうすればいい」と治す方法を説いたものだ。
そんな彼に、アディンは赤ん坊の時に拾われたらしい。
アディンという名は、古代語で『優しいもの』という意味なのだと、幼少時代に教えてもらったこともある。
彼は決して自身を父とは呼ばせなかった。絶対にレフアーさんと呼べと。
小さい頃は父と呼べなくて寂しかったし、時が経つにつれて適当言う人だからな、と流していたところがあったが、一度理由を語られたことがある。
「お前の眼は特別だ。同じ眼を持つ本当の家族や仲間が、いつか見つけてくれるかもしれないからな」
だから父と呼ぶのは、実の父親にしてやって欲しいと言う。
(でも、有名なはずの『祓い師』って人のことは聞いたことなかったな)
ころりと転がってそんなことを思い出していると、だんだん目が冴えてきた。
レフアーはあえて、隠していたのかもしれない。
時々王都まで出張にも行くような人だ。有名人を知らない可能性は、低い。
モヤモヤとそんなことを考えていると、
「おはよーございます!」
視界が覆われ、アディンは目をまん丸にして飛び起きた。
その様子を面白おかしく覗き込んでいるバノットの瞳は、相変わらず赤黒い。
「お、おはようございます。あれ、今、夕方?」
ええと、いつから寝たんだっけと記憶を辿って、朝方からこの家に厄介になっていたのだったと思い出す。
テフィラーは遥か前に仮眠から目を覚まし、街の様子を見に行ったらしい。日が沈んでもアディンが寝ているようだったら起こしてあげてと、頼んでくれていた。
「お兄さんお名前は?」
はっとして、アディンは反射的に姿勢を正す。
「名乗るの遅くなってごめん!僕はアディンって言います」
「バノットはバノット!」
彼女は大きな声で自己紹介を返すと、すくっと立ち上がり、奥の部屋から麻袋を取り出してきた。
「これ、お腹すいたら食べるよーにってママが」
パンが数個と芋が無造作に入っていた。アディンは慌てて首を振る。
「これはバノットのものだから、もらえないよ」
「でもアディンお兄さん、お腹、ぐーって」
正直な腹に赤面し丸くなるアディンに、バノットは押し付けるようにパンを渡す。
その手がうっすら腫れているのが見えて、アディンは咄嗟に、パンではなく腕を掴んだ。
「ひゃ!」
「ご、ごめん!ちょっと見せて!」
アディンが手の腫れを確かめているのがわかると、バノットは「ぶつけちゃったの」と呟く。
「いつ頃?どこにぶつけちゃったのかな」
「……昨日かなぁ、その前かな?お庭のお芋引っこ抜いた時に、柵にぶつけちゃったの」
「だからちょっと擦り傷になってるんだね」
アディンは日に当てて伸ばしていたコートから小さな救急箱を取り出すと、消毒薬と包帯でテキパキと処置を施した。
深さは……広がりは……と確認するアディンを、バノットはじっと眺めている。
このくらいのことなら任せても問題ないと、普段からレフアーの代わりに受けることを許されている仕事の一つだ。
「曲げたりしたら痛かったでしょ?どうかな、平気になった?」
「うん!!平気だー!」
感激した様子で腕を振り回してみせるバノットをなだめ、アディンは胸を撫で下ろす。
「アディンお兄さんすごいね!お医者さまだったんだ」
医者ほどすごくはないよと、アディンは首を横に振る。それでもお医者さまだと、バノットは嬉しそうにアディンに礼を言った。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
素朴なパンでも腹を満たせる幸せをしっかりと噛み締めたところで、アディンは一旦、テフィラーを探しにいくことにし家を出た。
外の風が冷たく感じる時間になったので少し心配になったのだが、そういえば雪の中を薄いスーツで歩いていたことを思い出す。
アディンの服装だと、ここの気候はまだ少し暑さを感じる。
鍵を閉めてこもっているせいなのか、どの家も一見しただけでは、人がいるのかいないのかわからないような静けさだ。
状況がわかっていても、それが不気味なのには変わりはない。
ふいに目先に風になびく桃色の髪が映り込んで、アディンは呼びかける。
「テフィラー」
背後から呼ばれたからか、彼女はびくりと肩を上げてから振り返った。
「あら、おはよう。体調は大丈夫?」
「うん、起こすように頼んでくれてありがとう。なにかこの街で発見できた?」
「ええ」と、テフィラーは手元の手帳を内ポケットにしまうと、街の石碑を指さした。
よく磨かれたそれには、ゲブラー都3−2地区と書かれている。
ゲブラー都は、南方の都市。元いた雪国の都市・ネツァクから数都先の、遠く離れた土地だった。
本当にまるっと転移してるなんて。
「これだけ気候も違うわけだね……」
「しかもここ3番街だから、ゲブラー都の中でも田舎の方のようだわ。交通の発達している都心まで行くのには、かなり時間がかかりそうね」
自身のいたネツァク都の都心すらまともに行った記憶のないアディンは、もうテフィラーの一言一句に不安を重ねる他なかった。
「レフアーさん、心配してるだろうな……。僕、ろくに外出歩いてなかったし。手紙屋でもあると助かるんだけど」
都心に行けばあるでしょうけどねと、テフィラーも困った様子でため息を吐く。
それを横目で見ていたアディンは、ふと思い出したかのようにテフィラーに問うた。
「そういえば、テフィラーが診療所に来た用事はなんだったの」
「えっ」
言われて、彼女も思い出した様子で口元に手を当てる。
「ああ、ええと……ただ道を聞きたかっただけよ。ネツァク都には商談で来ていたのだけれど、あの吹雪だったでしょう?だから迷ってしまって」
「そ、そうだったんだ!ごめん、患者さまかと思って、わざわざ中にまで入ってきてもらっちゃって」
「いえ、寒かったし、ありがたいお気遣いだった。感謝するわ」
にこりとする彼女の笑顔には、どこか強さが垣間見えて、美しい。
たまたま一緒に飛ばされたのがしっかりしている人だったのは、不幸中の幸いと言えよう。
「さてと。バノットのところに帰りましょうか」
そうだねと、二人は彼女の家に踵を巡らす。
しかし、家に帰るとドアが開かなかった。きちんと鍵がかかってしまっており、応答がない限り、入ることはできなそうだ。
「もしかして寝ちゃったかな……」
窓を叩いてバノットの名を呼んでみても気づいてもらえないので、困ってしまった。
「アディン、ちょっと来て!向こうに人だかりが見える」
テフィラーに呼ばれてその視線の先を伺うと、確かに、今までどこに身を潜めていたんだろうかという数の人だかりができていた。
「もしかしたら、祓い師が来ているのかもしれないわ。バノットも向こうに行ってるのかも」
灯りが焚かれてぼんやりと明るくなっているその場所に、二人は向かってみることにした。
イェソド都の祓い師。
僕と同じ紫の眼の人……。
期待と、知らないものに近づくことへの不安から、心臓が早鐘を打つのがわかる。アディンは大きく深呼吸した。
聞けばなんでも答えてくれたし、アディンがどんな怪我をしようと体調を崩そうと、動じることなく「こうすればいい」と治す方法を説いたものだ。
そんな彼に、アディンは赤ん坊の時に拾われたらしい。
アディンという名は、古代語で『優しいもの』という意味なのだと、幼少時代に教えてもらったこともある。
彼は決して自身を父とは呼ばせなかった。絶対にレフアーさんと呼べと。
小さい頃は父と呼べなくて寂しかったし、時が経つにつれて適当言う人だからな、と流していたところがあったが、一度理由を語られたことがある。
「お前の眼は特別だ。同じ眼を持つ本当の家族や仲間が、いつか見つけてくれるかもしれないからな」
だから父と呼ぶのは、実の父親にしてやって欲しいと言う。
(でも、有名なはずの『祓い師』って人のことは聞いたことなかったな)
ころりと転がってそんなことを思い出していると、だんだん目が冴えてきた。
レフアーはあえて、隠していたのかもしれない。
時々王都まで出張にも行くような人だ。有名人を知らない可能性は、低い。
モヤモヤとそんなことを考えていると、
「おはよーございます!」
視界が覆われ、アディンは目をまん丸にして飛び起きた。
その様子を面白おかしく覗き込んでいるバノットの瞳は、相変わらず赤黒い。
「お、おはようございます。あれ、今、夕方?」
ええと、いつから寝たんだっけと記憶を辿って、朝方からこの家に厄介になっていたのだったと思い出す。
テフィラーは遥か前に仮眠から目を覚まし、街の様子を見に行ったらしい。日が沈んでもアディンが寝ているようだったら起こしてあげてと、頼んでくれていた。
「お兄さんお名前は?」
はっとして、アディンは反射的に姿勢を正す。
「名乗るの遅くなってごめん!僕はアディンって言います」
「バノットはバノット!」
彼女は大きな声で自己紹介を返すと、すくっと立ち上がり、奥の部屋から麻袋を取り出してきた。
「これ、お腹すいたら食べるよーにってママが」
パンが数個と芋が無造作に入っていた。アディンは慌てて首を振る。
「これはバノットのものだから、もらえないよ」
「でもアディンお兄さん、お腹、ぐーって」
正直な腹に赤面し丸くなるアディンに、バノットは押し付けるようにパンを渡す。
その手がうっすら腫れているのが見えて、アディンは咄嗟に、パンではなく腕を掴んだ。
「ひゃ!」
「ご、ごめん!ちょっと見せて!」
アディンが手の腫れを確かめているのがわかると、バノットは「ぶつけちゃったの」と呟く。
「いつ頃?どこにぶつけちゃったのかな」
「……昨日かなぁ、その前かな?お庭のお芋引っこ抜いた時に、柵にぶつけちゃったの」
「だからちょっと擦り傷になってるんだね」
アディンは日に当てて伸ばしていたコートから小さな救急箱を取り出すと、消毒薬と包帯でテキパキと処置を施した。
深さは……広がりは……と確認するアディンを、バノットはじっと眺めている。
このくらいのことなら任せても問題ないと、普段からレフアーの代わりに受けることを許されている仕事の一つだ。
「曲げたりしたら痛かったでしょ?どうかな、平気になった?」
「うん!!平気だー!」
感激した様子で腕を振り回してみせるバノットをなだめ、アディンは胸を撫で下ろす。
「アディンお兄さんすごいね!お医者さまだったんだ」
医者ほどすごくはないよと、アディンは首を横に振る。それでもお医者さまだと、バノットは嬉しそうにアディンに礼を言った。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
素朴なパンでも腹を満たせる幸せをしっかりと噛み締めたところで、アディンは一旦、テフィラーを探しにいくことにし家を出た。
外の風が冷たく感じる時間になったので少し心配になったのだが、そういえば雪の中を薄いスーツで歩いていたことを思い出す。
アディンの服装だと、ここの気候はまだ少し暑さを感じる。
鍵を閉めてこもっているせいなのか、どの家も一見しただけでは、人がいるのかいないのかわからないような静けさだ。
状況がわかっていても、それが不気味なのには変わりはない。
ふいに目先に風になびく桃色の髪が映り込んで、アディンは呼びかける。
「テフィラー」
背後から呼ばれたからか、彼女はびくりと肩を上げてから振り返った。
「あら、おはよう。体調は大丈夫?」
「うん、起こすように頼んでくれてありがとう。なにかこの街で発見できた?」
「ええ」と、テフィラーは手元の手帳を内ポケットにしまうと、街の石碑を指さした。
よく磨かれたそれには、ゲブラー都3−2地区と書かれている。
ゲブラー都は、南方の都市。元いた雪国の都市・ネツァクから数都先の、遠く離れた土地だった。
本当にまるっと転移してるなんて。
「これだけ気候も違うわけだね……」
「しかもここ3番街だから、ゲブラー都の中でも田舎の方のようだわ。交通の発達している都心まで行くのには、かなり時間がかかりそうね」
自身のいたネツァク都の都心すらまともに行った記憶のないアディンは、もうテフィラーの一言一句に不安を重ねる他なかった。
「レフアーさん、心配してるだろうな……。僕、ろくに外出歩いてなかったし。手紙屋でもあると助かるんだけど」
都心に行けばあるでしょうけどねと、テフィラーも困った様子でため息を吐く。
それを横目で見ていたアディンは、ふと思い出したかのようにテフィラーに問うた。
「そういえば、テフィラーが診療所に来た用事はなんだったの」
「えっ」
言われて、彼女も思い出した様子で口元に手を当てる。
「ああ、ええと……ただ道を聞きたかっただけよ。ネツァク都には商談で来ていたのだけれど、あの吹雪だったでしょう?だから迷ってしまって」
「そ、そうだったんだ!ごめん、患者さまかと思って、わざわざ中にまで入ってきてもらっちゃって」
「いえ、寒かったし、ありがたいお気遣いだった。感謝するわ」
にこりとする彼女の笑顔には、どこか強さが垣間見えて、美しい。
たまたま一緒に飛ばされたのがしっかりしている人だったのは、不幸中の幸いと言えよう。
「さてと。バノットのところに帰りましょうか」
そうだねと、二人は彼女の家に踵を巡らす。
しかし、家に帰るとドアが開かなかった。きちんと鍵がかかってしまっており、応答がない限り、入ることはできなそうだ。
「もしかして寝ちゃったかな……」
窓を叩いてバノットの名を呼んでみても気づいてもらえないので、困ってしまった。
「アディン、ちょっと来て!向こうに人だかりが見える」
テフィラーに呼ばれてその視線の先を伺うと、確かに、今までどこに身を潜めていたんだろうかという数の人だかりができていた。
「もしかしたら、祓い師が来ているのかもしれないわ。バノットも向こうに行ってるのかも」
灯りが焚かれてぼんやりと明るくなっているその場所に、二人は向かってみることにした。
イェソド都の祓い師。
僕と同じ紫の眼の人……。
期待と、知らないものに近づくことへの不安から、心臓が早鐘を打つのがわかる。アディンは大きく深呼吸した。