第一章:魔物化現象

 診療所はいつもに増して静かだった。

 昨日、雪の大荒れを知らせる鳥たちが低空に姿を現していたからだろう。
 患者たちは昨日のうちにこぞって来院し、一時は待合の椅子が足りなくなるほど混雑していた。
 
「こんなになるとは思わなかったな」
 
 ドアの前の雪を一生懸命持ち上げて、アディン・ピウスは大きなため息を吐く。

 物心ついた時からこの診療所にいたアディンは、こんな具合で面倒な雑用を押し付けられながら、ここの医師と共に生活をしていた。
 将来は手伝いではなく、施術を行える医師として――できることならこの診療所を存続させるために、絶賛勉強中の身である。
 とは言っても、雪国かつ田舎であり貴重な診療所として活躍しているここは、毎日それなりに忙しい。

 そんな診療所は、なぜか街の外れに位置しており、面倒な買い出しに行かされることもしばしばあった。
 つまり、勉強に集中するために部屋に篭るなんて機会は、滅多に訪れないのである。
 アディンは暇さえあれば診察室の隅に立ち、医師の手先を目に焼き付けるようにしていた。

 雪は皆の読み通り、昨日の日没からだんだんと殴るような強さになり、今現在、ドアが開かない程にぎゅうぎゅうに積もりきっていた。
 実は今朝は、時々見る気分の悪い夢にもうなされ、目覚めも良くない。
 そんな気分なのに診療所ここの医師・レフアーはアディンの積雪の報告に「寒いわけだな」と一言だけ感想を漏らし、昨日消え失せた分の休息を取り戻すかのごとく自室に寝に篭ってしまった。
 もう昼だというのに。勝手な人だとアディンはまたため息を吐いたが、今度は聞かれていたようだ。

「お疲れのところ、ごめんなさい」

 高く壁のようになった雪の向こうからいきなり声がして、アディンは思わず持っていたスコップをがちゃりと落とした。
 つい今まで足音一つ聞こえない静寂をしみじみと味わっていたから、その声がより一層、油断していた心臓を刺したのだろう。
 透き通るような女性の声だった。
 
 アディンが声の元に恐る恐る向かうと、そこには黒いスーツを身に纏った美しい女性が、ぴっと背筋を真っ直ぐにしてこちらを見ていた。
 長いまつ毛と、桃色の長髪が印象的だ。
 
「こ、こんにちは」
 
 軽く会釈してから、アディンは自身が汗だくなのに気づいて慌てて距離を取る。
 彼女も小さく礼をして、後退ったアディンを不思議そうに眺める。
 
 じいっと二秒程、目が合った。

「こんにちは。少し聞きたいことがあって」
「あっ、あの、よかったら中で聞きます。上着とか無くて大丈夫でしたか?」

 女性の薄いスーツ姿を見ていると、雪かきで発熱した体がみるみる冷めていく気がした。
 彼女に比べて厚い生地のシャツにしっかりとした上着を羽織っているアディンは(加えて立派に帽子まで揃えていたものだから)彼女のその格好が信じられなかったのだ。
 
「確かに寒いかも」

 言われてみればといった顔で女性は腕をさする。
 確かにって、いやいや、涼しい顔してまるで感情がこもっていない。
 アディンは程よく距離を保ったまま、彼女を建物内に招き入れた。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 どうせ患者は来ないと思って温めていなかった待合室は、完全に冷え切ってしまっていた。
 これじゃあ外と大して変わらないじゃないか!と、アディンは女性と待合室を交互に見やる。
 
「すみません!すぐにストーブ焚くので椅子に座っていてください」

 女性は差し出された椅子に、音を立てずに腰を下ろす。

「あまり気を遣わなくても大丈夫よ」
「いえ!医師も今から起こしてくるので、少しお待たせしてしまうと思いますから」
「えっ。いや、私お医者さまにかかりに来たわけではないの―――」

 言いながら彼女が立ちかけたその時、外の扉が勢いよく開いた。


「やだぁ〜先越されちゃった!」


 顔まですっぽりと覆ったフードの中から、全身真っ黒な身なりとは相反する、幼げな声がした。

「もう、雪で道が埋もれちゃってたから、ここまで来るのも一苦労だったわぁ。お姉さん、一体どうやって来たのかしらぁ?」

 つま先に溜まった雪を床にトントンとして落としながら、彼女は唯一見える口元で笑顔を示す。
 声をかけられたスーツの女性は黙っていたが、アディンはまさかまた来客があるとは思わず、その横であたふたと不要な足踏みをしてしまう。

「あの、雪道大変でしたよね……!すぐ温まると思うので、あなたもよかったらその辺の椅子座ってください」


「ありがと、アディン・ピウスくん」

 名前を呼ばれて、ストーブに向かいかけた視線は瞬時に引き戻された。
 記憶が正しければ、ここ数年、こんなに若い女性が診療所を訪れたことはない。

「探したわよぅ。私は、そうね……ツェルちゃんと呼んで」

 彼女――ツェルは明るく笑ってから、女性の方を見やる。

「ねぇ、私アディンくんのお迎えに来たの。順番破って悪いけど私が連れてくわね」

「迎え?」

 アディンと女性の声が重なった。

 ツェルは雪を吸って重たくなった服の裾を、不服そうに持ち上げてみせる。

「そう。どーしてもアディンくんに用があるから、遥々こんな雪国まで来たってわけよぅ」
「ちょっと待って。先に彼と話をしようとしていたのは私よ」

 さっきまで静かだった女性が立ち上がり、強い口調でかき消すと、明らかにツェルの口角がすとんと下がった。
 と同時に、
「話合う気ないから」
 そう言うと、彼女は黒ずくめの服のどこかからいきなり銃を抜き出した。
 そして躊躇いもなく、その口を女性に向ける。


 瞬間、
 視界にはこちらに駆け寄るスーツの彼女。

 耳には銃声。

 手には握られた温かい感触があり、
 次いで、ぐるんと目眩のような気持ちの悪い感覚がアディンを襲った。


 なにが起こったのかなんて考える余裕もないまま、
 目の前が、雪のように真っ白になった。
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