#08 8月31日
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side.セナガキ
午後6時50分。
『死神』の仕事は昨日で終わった。
セナガキももうお役御免。変装道具をハンガーにかけて、ワードローブにしまう。
もうくせ毛も黒スーツも着ることはないだろうと思うと、急に名残惜しくなってくる。
『死神』になってから4年間、ずっとセナガキだった。
コビーとの時間のほとんどは、セナガキとして過ごしていたから。
いつものように窓枠に座って、今日は暮れていく夕日を眺める。
こんな日は煙草が吸いたくなる。
煙を吸っては吐くを繰り返していると、持ってはいけない感情を吐き出せる気がする。
4歳から海軍にいたけれど、結局変装以外でロシーが着ていたあの『正義』のコートに袖を通すことはなかった。
ずっとずっと憧れていた、強くてかっこよくて優しい海兵さんにはついになれなかった。
でも、世界一『正義』のコートが似合う人に出会えた。
『ロシーさん』
あの黙祷会の日。
偽名でも、呼ばれた瞬間、血管の中を逆流していた血液が元に戻ろうとしているような、
自分が心のある人間だったことを思い出したような、そんな気がしたのを、覚えている。
私が人間に戻った瞬間。
「コビー…」
呟くように名前を呼んでみると、心の中でいろんな感情が渦巻く。
彼に出会うまで、自分が壊れていると思ったことも、仕事が辛いと感じたこともなかった。
あの日から、あの光が忘れられなくて、
希望を見たいと縋ってしまうもんで、
私には必要ない感情を切り捨てたくて、煙草がやめられなくなっていたけれど。
今は、煙草を吸うたびに、君を思い出せるんじゃないかって、そう思っている。
これからまた暗闇に足を浸けることになっても、水面に浮かぶあの光を忘れたくないから。
…太陽みたいな人だった。
もう一度だけでいいから、会いたい。
コビーのあの笑顔が見たい…。
「セナガキさん」
ふと声が聞こえた。
窓の下からコビーが飛び上がる。
驚いて足を窓枠から降ろすと、空いたところに着地して、部屋の中に入ってきた。
「…!?」
「すみません、やっぱり来ちゃいました」
えへへ、と照れ笑いするコビーが、そこにいた。
「コビー…」
「セナガキさん…ガープさんに聞きました。明日から長期任務なんですよね?」
「行き先はどこですか?」
「いつ頃戻ってきますか?」
「何をしに行くんですか?」
色々と矢継ぎ早にきいてくる。
どうして来ちゃったの。バカ。
「すみません、あなたに会いたくて」
コビーが照れくさそうに言う。
いつかあげたあのバンダナをずっとつけてくれてることにふと気が付いて、愛おしくなる。
愛おしい、なんて、君に会うまで、知らなかったよ。
「今日はセナガキさんに渡したいものがあるんです」
そう言ってコビーは上着のポケットをごそごそさぐって、紺色の小さなケースを取り出して、私の前で開けた。
「僕と結婚してください」
ケースの中に入っていたのは、シンプルなデザインだけど、どう見ても高い指輪。
『K』の文字が内側に彫られているのが見えた。
言葉が出ない。
「すみません、僕、あなたと別れるなんてできません。僕にはもう、セナガキさんしかいないんです…あなたが帰ってくる頃には、立派な海軍大将になってみせますから…あなたの帰りを待たせてくれませんか」
「馬鹿…」
やっと言葉が出た時には、涙がぼろぼろこぼれていた。
「こんなの…受け取れないよ…」
「受け取ってください…あなたのために選んだんです…他の人に贈るなんて、できませんよ…」
「馬鹿…本当に馬鹿…」
「ごめんなさい、僕、馬鹿なんです…」
そう言ってコビーにふわっと抱きしめられた。
緊張なのか恐怖なのか、コビーから小さく震えが伝わってくる。
「ねえ、セナガキさん…任務…辞退できませんか…?」
いつもの元気なコビーからは想像もつかないほど、か細い声。
「ごめんなさい…」
「少し遅らせることは」
「できないよ…」
「セナガキさん…」
抱きしめる力が強くなった。
「行かないで…」
耳元で、切なくなるような涙声に、ズキッと心が痛んで、私は何も言えなくなってしまった。
コビーは本当に敏い。
センゴクさんもガープさんもおしゃべりだけど…誰がコビーに言ったとしても行き先だけは絶対に隠すはずなのに。
口裏を合わせたはずなのに、気づいてる。
私が、もう帰ってこないってこと…。
「ごめんなさい…仕事なのは分かっているのですが…」
「離れたくない………」
「好きなんです…僕…セナガキさんのことが…」
こんなことを言ってくれるのに、私はコビーを置いていかなきゃいけないなんて。
「好き…」
「好きです…」
「だから………行かないで………」
こういう時どうしたらいいのか分からない。
「大丈夫だって、ちゃんと帰ってくるから」
「…行っちゃダメだ…!」
いつもみたいに安心させようとして言ったのに、コビーの瞳から大粒の涙がぼろぼろこぼれ落ちる。
演技は得意なはずなのに。
心配かけたくないのに。
泣かせたくないのに。
こんな時に限って、どうしてバレバレの嘘しかつけないんだろう。
「…私が行かないと、海軍全体に危害が及ぶんだよ」
「嫌だ…!セナガキさん…ここにいて…」
「コビー…」
私だって…離れたくないよ…。
でも逃げられないんだよ…助けてよ…。
コビーを前にするだけでこんなに決意が揺らいでしまうなんて…だめだだめだ。
覚悟を決めろ。
海軍を守るため…コビーを守るためだ…。
ロシーみたいに、誰かのために命を捧げられるなら、それが私の本望だ。
『正義』を背負えないなら、せめてそんなふうに生きたい。
「…セナガキさん…っ!」
コビーの手が頭の後ろに回ったと思うと、そっと唇が重なった。
唇が離れて、少し見つめ合う。
『僕は、海軍将校になるんです!』
そう言って誰よりも真剣に稽古に励んでいた君は、本当に、かっこいい。
ビビりだし、気が弱いところもあるけど、私はそんなコビーが大好きだ。
人殺しや暗殺に駆り出されてばかりで心を失いかけていた私が、こんなに人を好きになるなんて、思ってもいなかった。
私も、好きだよ、コビー…。
大好きだったよ…。
もう一度、コビーの顔が近づく。
舌が入り込んで、口の中で絡み合う。
「…っ」
私はコビーの肩を押し返す。
情に流されてはいけない。
私はもう、恋人ではいられないのだから。
コビーが前を向けるように。
引き止められなかったことを後悔しないように。
これが…恋人として私にできる最後のこと…。
「コビー…君は…前だけ見るんだよ」
「…っ」
「誰に頼ってもいい。泣いたっていい。立ち止まってもいい。
どれほど犠牲を払うことになっても、大切なものを失っても、受け止めきれないものと出会うことになっても…振り返らないで」
「セナガキさん…!」
「なにしおらしくなってんの、海軍大将になるんでしょ?」
「…セナガキさん…!!」
「ツバメ」
「え…」
「私の本当の名前…ツバメって言うの」
「もうそう呼ぶ人は一人もいなくなっちゃったけど…ロシナンテ中佐につけてもらった名前なの…世界中飛び回る渡り鳥なのに、海軍本部の軒先にだけ年中住んでいる鳥の名前」
「…」
「…ねえ、ツバメって呼んで」
「…ツバメさん」
「ありがとう…」
今度は私から口づけた。
「…海軍大将になってね…」
「はい」
「絶対…約束だよ…」
コビー…ごめんね。
今までありがとう。
愛してるよ。
伝えたくても、どれももう言えない言葉だった。
「僕も…愛しています…」
コビーは私の気持ちを読んだのか、そう言うと、泣きながら私を抱きかかえて、ベッドに降ろした。
end.