あなたと異星交流

 汐奈は未だ状況が飲み込めていなかった。

 汐奈は、自分の部屋が好きだ。部屋には自分の好きなものしか存在しない。部屋の2辺の壁が本棚で、もう一辺が机とクローゼット、残りがベッドとちょっとした収納棚。ベッドやカーテンは中華風の刺繍の施された布でできていて、本棚では親友たちが背表紙を向けて汐奈たちを見つめ、ベッドの上のパンダの親子のぬいぐるみがかわいらしく座っている。いわば自分のための要塞であり秘密基地のようなものだ。そこに自分以外の誰か-なぜか弟がいることはたまにあるが-しかもずっと憧れてきたひとがいるのだろうか。嬉しさより恐怖に戦慄する。夢なら覚めて欲しい。いや、やっぱ覚めないで。
「あの...汐奈さん?」
 ここでまさかの名前呼び!いや自分がよばせたあるけどな!?しかも身長差のせいで自然に造られた上目遣い!
 だめだ。多分今日死ぬ。
 ことは20分ほど前に遡る。

 夏には木の影となり冬は暖かい日ざしが差す。今は冬に入りたてで、眠くなるようなオレンジの光が包む部屋は少し床に上履きが擦れただけでその音が響く。汐奈たちの通う学校図書館はそういうところだった。汐奈は、図書室が好きだ。本の中身が好きだし、それが詰まった背表紙たちにじっと見つめられるのも自分に選んでもらうのを待っているようでたまらない。そこに先輩がやって来た。汐奈は彼女がよく小説の棚をうろうろしていることを知っていたが、今日は違った。服飾の棚にいたのだ。1冊引き抜いては戻し、また取っては戻すことを繰り返していた。誰でもカンタンおなおし、お裁縫入門、棒針編みキソのキソ、ニットのお洗濯...エトセトラ、エトセトラ。汐奈はその本の内容とこの間の記憶を照らし合わせた。手芸の本、黒いセーター....そして、先週見た汚れた純白のカーディガン。そうやって考えながら先輩のことを見詰めていたら、先輩の視線がこっちに向いてしまった。そして視線がぶつかり合う。視線が合った時、彼女は汐奈のことを知っている人のような顔で見た。汐奈は慌てた。用があると思われた、と思った。
 しかし、同時に汐奈はその瞬間とんでもない自信に包まれた。彼女の手に取った本。私は彼女を笑顔にできるんじゃないか。
「こんにちは。あの時ぶりですね」
 思ったよりすんなり声は出たが、硬くてなんだか胡散臭い雰囲気になってしまった。以前のこともあってか先輩は訝しげで警戒するような視線を汐奈に向けた。
「私、ニットの穴とか、塞げるんです」
「....」
「あ、私2年2組の藻野黒汐奈って言って、汐奈って呼んで欲しいんですけど....先輩のこの間の白いニットも、汚れたところを切って継ぎ足せば元通りにできますよ」
 先輩は黙ったままだったが、興味ありげに眉を動かした。ここぞ、とばかりに汐奈は先輩がさっき戻した「ニットお直し上級者編」を取り出した。
「このページみたいに」
 そこには虫に食われたニットをまるで元通りのように治している写真だった。
 汐奈はむずむずする先輩の唇が開くのをじっと待った。背中に冬の光があたってほのかに暖かい。
「洗わないんですか?」
 縋るような目でみつめられ、頼られている、と思った。緊張のなかに自然な喜びが現れて汐奈は笑顔で答えた。
「はい!一緒に来てください!」

 汐奈の家は学校から徒歩5分である。初めこそ浮かれて歩いたが、よくよく考えたら図書室を出て汐奈の家に着くまでに先輩とは一言も言葉を交わしていなかった。汐奈が一方的にこっちとかあっちとか言うことはあったが、先輩は口どころか表情も動かさずにただただ汐奈の後ろをついてきた。そんなところにもグッと来たというのはここだけの話である。しかし、汐奈の家についてからは違った。汐奈は自分の右斜め後ろから息を呑む気配を感じた。
「着きましたよ」
「...ここなんですね」
 そこにあったのはガラスの扉だった。目の前に立っても自動で開いたりせず、プラスチック製のハンドルが胸のあたりに鎮座している。その先にあるのはカラフルな布、布、布。そしてワンピースを着たマネキンと、よくわからない小物の棚だった。少し上を見上げれば「ものくろ裁縫店」と古臭い明朝体で書かれた看板が見える。汐奈は慣れた手つきで扉を開けつつも、後ろの先輩の表情を盗み見た。
(うわ...先輩のこんな顔初めて見たある..!)
 いつ見かけても伏せられがちな瞼が持ち上げられ、まつ毛が上を向き露わになった瞳が興味ありげにあっちこっち動いていた。黒に近いと思っていた藍色の瞳が、光を反射してこんなに明るい青に見えるなんて初めて知った。
「こっちです」
 汐奈は先輩の珍しい表情をずっと眺めていたい気持ちをぐっと堪え、彼女を店の奥へと通した。布や小物の棚を抜けて東側の角へ辿り着くとそこには狭い作業部屋がある。引き戸はいつも開け放たれていて、汐奈の父がよくご依頼主さんをここに通して細かい相談などをする部屋である。壁の金属製の棚にはこれでもかというくらいの道具やら何やらが詰め込まれていて、真ん中のテーブルもミシンをはじめとした大きな電動の道具で埋め尽くされていて、とても圧迫感がある。
「うち、見ての通り裁縫屋で...私も父から簡単な洋服の修補とかを教わってて..さっきも言った通り、セーターの汚れとかもなかったことにできるんです。先輩のカーディガン、貸してもらえますか?」
 ここまで言って汐奈ははっとした。そういえば先輩が何も言わないから連れ出して来てしまったが、そういえば先輩が例のカーディガンを今持っているかの確認をしていない。普通に考えたら着ることができないカーディガンを持ってくるはずがなかった。ああ、気まずい。この後どうしよう。先輩は黙っていて、何を考えているかやっぱりわからない。ところが。
「...はい」
 先輩は小さな声を発した。グレーのリュックサックを下ろして、ファスナーに手をかけている。
「あ、あるんですね。良かったあ...!」
 汐奈はほっとした。だがなぜそんなものを今持っているのかとても気になるのは当然である。汐奈は訊いてみようかと思ったが、そこまで踏み込む勇気がなかった。そうしているうちに折じわのついたカーディガンが先輩のかばんから出てきたので、汐奈は昨日から入れっぱなしだったのだろうと思った。先輩にも少しずぼらな一面があるのだろうか。カーディガンを受け取ってテーブルの少し隙間の空いたところに広げて、テーブルの下に置かれた籠から先輩のカーディガンのものとそっくりな太さと色の毛糸を選んだ。ホワイトは種類がたくさんあるので助かった。成分も毛とアクリルが五分五分で先輩のものと近い。
「失礼しますね」
「...はい」
 汐奈は緊張しながら先日の絵の具のような赤に鋏をいれて切り取っていく。丁寧に切り落としたら周りの糸を少し解いて、編み目を棒針ですくっていく。そこに先ほど選んだ毛糸を通して、切ったり解いたりした部分を編み足していく。先輩は固唾を呑んでその光景を見守っていた。緊張で肩から指先までに過剰に力がはいってなんだか動かしづらい。その中でもひとめひとめ、丁寧に編んでいく。先輩はその様子を見つめている。そのとき。
「なにしてるの?」
 思わぬ...いやここにいれば当然いる人物が緊張を破った。
「お母さん」
「お友達?」
「ま、まあ...」
 汐奈は曖昧に答えた。先輩はまだ汐奈の指先を見つめている。そんな先輩に視線を移して汐奈の母は言った。
「こんなところで立ってないで汐奈の部屋に行ったら?お菓子出すわよ」
***
 こうして冒頭のシーンへと戻るのである。
 母に勧められた通りに汐奈の部屋へ行くと、いくらか緊張が落ち着いたが、先輩がここにいるという事実に気持ちが向いて今度は興奮してきた。汐奈の母親が用意したスーパーで買ったっぽいのマドレーヌをもくもくと食べる姿は汐奈の大事にしているパンダのぬいぐるみよりも愛らしい。しかし緊張が解けて来たおかげで、汐奈と萌奈美はやっと必要でない会話をすることができた。まずは
「先輩って本好きなんですか?」
 と尋ねてみた。先輩はよく図書室にいるし、いまもマドレーヌを呑み込みながら汐奈の本棚の背表紙を滑る視線が止まらない。
「...はい」
「そこにあるの適当に読んでいいですよ」
「...はい」
「なんなら借りていってもいいです」
「....じゃあ...編み物の本はありますか?」
「!」
 汐奈は驚いた。実はこの修補も自分でやりたかっただろうか?
「...見てたらやってみたくて」
「そうなんですね」
 違ったようだ。良かった。汐奈は息を吸った。
「編み物だったら私が教えますよ
私も父から教わったから、本は読んでないんです」
 もちろん汐奈の父の店には編み物の指南書も売っている。でも、仲良くなるのが怖いと思っていたのをすっかり忘れて汐奈は次会う約束を作ろうとしていた。
「...ほんとですか」
「はい」
 汐奈は力強く頷いた。
「編み物楽しいですよ。使えるし、プレゼントとかにもなりますし」
「...プレゼント」
 その言葉をゆっくり反芻した先輩を汐奈は見つめた。汐奈はまた見たことのない表情を見てしまった。誰かを思い出しているような、愛しむような...。知らずに胸がつきりと痛む。
「渡したい人、いるんですか?」
 汐奈は緊張して先輩の言葉を待った。手が汗でぬるついて、少し棒針が滑る。
「...このカーディガンを、くれた人に。」
 このカーディガンをくれた人はどうやら大事な人のようだった。
(...ああ、それで。)
 そのとき先輩と大切な人の思い出が詰まったカーディガンがその時ほとんど元通りになった。
「きっと渡せますよ」
 汐奈はカーディガンを先輩に返した。先輩は早速黒いセーターを脱いでまっ白いカーディガンを見に纏い、嬉しそうに微笑んだ。その表情だけで。その本日三回目の初めて見る表情だけで、要塞のようだと思っていた部屋が急に楽園のように華やいだ気がした。目の前では白い衣服に身を包んだ天使は自分のせいで凶悪なほどに嬉しそうに微笑んでいた。その衣服に、汐奈でないだれかの影を滲ませながら。
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