あなたと異星交流
天使が腕の中に落ちてきたのは、十一月のことだった。
初めに落ちてきたのは赤く染まった天使の羽の端っこで、次は手触りのよさそうなピンク色の布きれ。最後に落ちてきたのが天使で、たおやかになびく金の糸から溢れる光の粉と、真っ白な上衣を汚す鮮やかな赤に目を奪われたのだ。
通っていた公立の小学校の同級生のほとんどが通うことになっていた公立の中学校ではなく、このキリスト教系の私立の中高一貫校に通い始めてからはや一年半たつ。入学当初は膝丈のスカートにブラウスまできちんと着て、おかっぱに近いようなボブカットであった。それが今は太ももが露わになる短いスカートに、大胆に襟足を剃り上げたツーブロックになっている。そしてセーラー襟のついた上着の下は、チャイナボタンのついた詰襟の黒いシャツ。因みにこのシャツは一般人からかなり目を引くらしく、新しく同じクラスになった人などから「なんでそのシャツなの?」と聞かれたことも一度や二度ではない。汐奈の答えはいつでも「前世は十九世紀の中国人だった」である。
そんなふうにこの学校に慣れきっている汐奈も、保健室を訪れるのは初めてだ。
「とんとん。こんにちわー」と口で言って扉を開ける。養護教諭は不在のようで、一人だけ奥に座っていた保健委員らしき生徒が、ギョッとした顔でこちらを見ていた。汐奈はその表情の意味がわからなかったが、その生徒が駆け寄って生きて先輩の腕に目をやったので、この鮮やかな赤のせいなのだと気づく。
先輩が三階から屋上につながる階段から落ちてきた時は、本当にびっくりした。それを受け止めたのは自分なわけだが、なぜ受け止められたかというと、偶然そこにいたわけではない。放課後の掃除当番の延長でクラスメイトの吉田や森川とだべっていたら、先輩たち数人が廊下に見えたのでつい追いかけてしまっていた。三階と屋上をつなぐ階段で先輩を見失い、しばらくウロウロしたあと引き返そうとしたら、落ちてきたのだ。そのあと先輩の着ていたブカブカの白いニットが裂けて、赤いものがべったり張り付いているのがを見えて姫抱きにしてここまで来てしまった。先輩は最初は腕の中でやめてください、とか放してくださいとか言いながら暴れていたが、今は諦めたように大人しくしている。
濃紺のリボンをした保健委員は私たちに椅子に座るように促した。
「せんぱい、どうしてそうなっちゃたんですか、」
保健委員は焦った口調で言いながら真っ白なニットの前に並んだ真っ白なボタンを外していく。先輩は、
「えっと、」
と小さい声で告げただけで、小さな唇をきつく結んで押し黙ってしまった。
「せんぱぁい・・・」
と言って保健委員が目をやったのは今度は汐奈だ。
「残念ながら、私も知らねえアルよ。あと私も二年だからタメアル」
と、苦笑しながら返すと、
「あ、アル。萌野黒さんでしょ」
と言って保健委員は別の意味で苦笑していた。
「うん。そっちは二組の・・・」
「「あ」」
言い終わらないうちに、保健委員の声が重なった。ニットを脱がされてブラウスの袖を捲られた先輩の腕には刃物で切られた傷なんかなくて、かわりに少し腫れていた。
「えっと・・・」
保健委員は自分の横にガーゼと包帯しか用意していなかったから、慌てて部屋の隅の冷蔵庫の氷を取りに行った。
向かい合った汐奈と先輩の間に、沈黙が流れる。
「お待たせしましたぁ」
保健委員は氷の入った袋を先輩に手渡す。先輩は下を向いたまま受け取った。
(折角先輩と話せるチャンス、モノにしないとダメあるか)
汐奈は椅子にかけてある真っ白なニットを指差す。
「あの、先輩、これ、絵の具ですかね。」
先輩は口を開かない。
「洗ったら落ちますかね、これ。」
袖の赤くなった部分に触れると、べたりとした感触で汐奈の指に張り付いた。
「あの、まだ乾いてないんで、希望あると思いますよ。ニットだから、あんまりゴシゴシはやれないですけど、」
先輩の顔をじっと見つめて返事を待つが、目さえ合うことがない。
「えーと、洗ってみますね、私。」
ニットを手に取って勝手口から外に出る。扉を開けた瞬間冬の初めの空気が流れ込んできて、汐奈は無意識に身震いした。出たところすぐにある水道に歩み寄り、ひんやりとした蛇口に触れたところで心臓がどきりと跳ねた。
先輩の細い指が、空いた方の手首にちょんと触れている。そのままするりと指は動いて、汐奈の手首をとらえてしまう。
「先輩、」
汐奈はゆっくり体ごと振り向いて、俯いた先輩の髪の生え際を見つめた。
汐奈の身長が百六十五センチを超えているのに対して、先輩は百五十センチほどなのだろうか。体が小さければ腰も細く、簡単に攫えてしまいそうだった。
先輩がゆっくり顔を上げるのを息をつめて見つめた。日本の中学生には珍しいブロンドの髪が頭の動きに合わせて顔の横からこぼれ落ちてゆく。
とうとう深い藍色の瞳が、汐奈の平凡な黒い瞳とかち合った。触れた先輩の指は少し震えている。薄い唇はゆっくりひらいて、気持ちを伝えた。
「あの、結構です。」
「え」
先輩の声はひどく小さい。でもその言い方がなんだか強くて、汐奈は黙ってしまう。先輩の声はなんだか西洋の宮殿とかの重い扉が閉まるみたいな音を彷彿させた。もちろんそんな音知らないのだが。それから先輩がそそくさと保健室を去っていくのを、呆然として見つめた。
しばらく静かな空気が流れて、沈黙を破ったのは保健委員だった。
「・・・あのひと、部活の先輩?」
「いや、名前も知らねーアル」
初めに落ちてきたのは赤く染まった天使の羽の端っこで、次は手触りのよさそうなピンク色の布きれ。最後に落ちてきたのが天使で、たおやかになびく金の糸から溢れる光の粉と、真っ白な上衣を汚す鮮やかな赤に目を奪われたのだ。
通っていた公立の小学校の同級生のほとんどが通うことになっていた公立の中学校ではなく、このキリスト教系の私立の中高一貫校に通い始めてからはや一年半たつ。入学当初は膝丈のスカートにブラウスまできちんと着て、おかっぱに近いようなボブカットであった。それが今は太ももが露わになる短いスカートに、大胆に襟足を剃り上げたツーブロックになっている。そしてセーラー襟のついた上着の下は、チャイナボタンのついた詰襟の黒いシャツ。因みにこのシャツは一般人からかなり目を引くらしく、新しく同じクラスになった人などから「なんでそのシャツなの?」と聞かれたことも一度や二度ではない。汐奈の答えはいつでも「前世は十九世紀の中国人だった」である。
そんなふうにこの学校に慣れきっている汐奈も、保健室を訪れるのは初めてだ。
「とんとん。こんにちわー」と口で言って扉を開ける。養護教諭は不在のようで、一人だけ奥に座っていた保健委員らしき生徒が、ギョッとした顔でこちらを見ていた。汐奈はその表情の意味がわからなかったが、その生徒が駆け寄って生きて先輩の腕に目をやったので、この鮮やかな赤のせいなのだと気づく。
先輩が三階から屋上につながる階段から落ちてきた時は、本当にびっくりした。それを受け止めたのは自分なわけだが、なぜ受け止められたかというと、偶然そこにいたわけではない。放課後の掃除当番の延長でクラスメイトの吉田や森川とだべっていたら、先輩たち数人が廊下に見えたのでつい追いかけてしまっていた。三階と屋上をつなぐ階段で先輩を見失い、しばらくウロウロしたあと引き返そうとしたら、落ちてきたのだ。そのあと先輩の着ていたブカブカの白いニットが裂けて、赤いものがべったり張り付いているのがを見えて姫抱きにしてここまで来てしまった。先輩は最初は腕の中でやめてください、とか放してくださいとか言いながら暴れていたが、今は諦めたように大人しくしている。
濃紺のリボンをした保健委員は私たちに椅子に座るように促した。
「せんぱい、どうしてそうなっちゃたんですか、」
保健委員は焦った口調で言いながら真っ白なニットの前に並んだ真っ白なボタンを外していく。先輩は、
「えっと、」
と小さい声で告げただけで、小さな唇をきつく結んで押し黙ってしまった。
「せんぱぁい・・・」
と言って保健委員が目をやったのは今度は汐奈だ。
「残念ながら、私も知らねえアルよ。あと私も二年だからタメアル」
と、苦笑しながら返すと、
「あ、アル。萌野黒さんでしょ」
と言って保健委員は別の意味で苦笑していた。
「うん。そっちは二組の・・・」
「「あ」」
言い終わらないうちに、保健委員の声が重なった。ニットを脱がされてブラウスの袖を捲られた先輩の腕には刃物で切られた傷なんかなくて、かわりに少し腫れていた。
「えっと・・・」
保健委員は自分の横にガーゼと包帯しか用意していなかったから、慌てて部屋の隅の冷蔵庫の氷を取りに行った。
向かい合った汐奈と先輩の間に、沈黙が流れる。
「お待たせしましたぁ」
保健委員は氷の入った袋を先輩に手渡す。先輩は下を向いたまま受け取った。
(折角先輩と話せるチャンス、モノにしないとダメあるか)
汐奈は椅子にかけてある真っ白なニットを指差す。
「あの、先輩、これ、絵の具ですかね。」
先輩は口を開かない。
「洗ったら落ちますかね、これ。」
袖の赤くなった部分に触れると、べたりとした感触で汐奈の指に張り付いた。
「あの、まだ乾いてないんで、希望あると思いますよ。ニットだから、あんまりゴシゴシはやれないですけど、」
先輩の顔をじっと見つめて返事を待つが、目さえ合うことがない。
「えーと、洗ってみますね、私。」
ニットを手に取って勝手口から外に出る。扉を開けた瞬間冬の初めの空気が流れ込んできて、汐奈は無意識に身震いした。出たところすぐにある水道に歩み寄り、ひんやりとした蛇口に触れたところで心臓がどきりと跳ねた。
先輩の細い指が、空いた方の手首にちょんと触れている。そのままするりと指は動いて、汐奈の手首をとらえてしまう。
「先輩、」
汐奈はゆっくり体ごと振り向いて、俯いた先輩の髪の生え際を見つめた。
汐奈の身長が百六十五センチを超えているのに対して、先輩は百五十センチほどなのだろうか。体が小さければ腰も細く、簡単に攫えてしまいそうだった。
先輩がゆっくり顔を上げるのを息をつめて見つめた。日本の中学生には珍しいブロンドの髪が頭の動きに合わせて顔の横からこぼれ落ちてゆく。
とうとう深い藍色の瞳が、汐奈の平凡な黒い瞳とかち合った。触れた先輩の指は少し震えている。薄い唇はゆっくりひらいて、気持ちを伝えた。
「あの、結構です。」
「え」
先輩の声はひどく小さい。でもその言い方がなんだか強くて、汐奈は黙ってしまう。先輩の声はなんだか西洋の宮殿とかの重い扉が閉まるみたいな音を彷彿させた。もちろんそんな音知らないのだが。それから先輩がそそくさと保健室を去っていくのを、呆然として見つめた。
しばらく静かな空気が流れて、沈黙を破ったのは保健委員だった。
「・・・あのひと、部活の先輩?」
「いや、名前も知らねーアル」
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