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00鐘 序章

 満月の日の夜。雲をかき分け北へ向かう飛空船ひくうせん
その甲板には人影があった。

 その者は両手を胸元に添え、儚げな表情を浮かべつつどこか遠くを見据えている。

「お嬢さん、そんなところにいると風邪をひいてしまうよ?」

 船の巡回をしていた操縦士の男が声をかけ、手に持つ懐中電灯の光をお嬢さんと呼ぶものを照らす。

 甲板に立つ者は、地面まで届きそうなほど長いブルーグリーンの髪で、船全体を包み込む月の光が彼女の髪を透き通らせている。
それは息を呑むほど美しかった。

 ゆったりとした動きで操縦士の方へ振り返った。
長い髪は大きく揺らし、まるで全身が空気に溶け込んでいるように見えた。

「はい。大丈夫です……」

 ソプラノの澄んだ綺麗な声。
落ち着きはあるがその声調はどこか寂しそうであった。

 男は彼女の姿を観察する。
海のようなアクアマリンブルーの瞳。
そして肩から足までを包むベージュの絹は複雑な幾何学模様が描かれていた。

ーーこのアマ……まさか……!

「お嬢さん、なぜエスメラルダに行く?」

 男の目は疑心に変わっていた。
この女性の正体がアレであれば、これから向かうエスメラルダ王国にとって“癌”そのものであったからだ。

 男の心情を察したのか、女性はそっと瞼を閉じる。
再び瞼が開かれたとき、その瞳は微かに揺らいで見えたが、決意に満ち溢れていた。

「……会わねばならない者がいるのです。会って……伝えなければ……ハッ!」

 女性が大切なことを伝えようとしたその時だった。
突如、船全体が荒波に呑まれた時のように大きく揺れ始めたのだ。
船の揺れは予想を超えており、とても人が立てる程では無かった。
案の定、二人もバランスを崩して倒れこみ、体全身が打ち付けられ激痛が走る。

 次に襲うのは下から突き上げるような振動。
体の痛みと小刻みに揺れる船のせいで立ち上がることができない。

 船内にけたたましいアラート音が響き渡る。
ユリの花を模したスピーカーから抑揚の無い無機質なアナウンスが始まる。

『ビービービービー。緊急事態発生。緊急事態発生。操縦不能。操縦士ノ指示ニ従イ、タダチニ避難シテクダサイ』

 繰り返すアナウンスが聞こえた時、操縦士の頭の中は一気に冷静になれた。
痛みに堪えながらも周囲にある太い柱へしがみつき、無我夢中に女性に向かって叫ぶ。

「お嬢さ……ん……何かに……捕まって!」

 しかし、女性の反応はない。
船の振動に合わせて力の抜けた体が揺らされるばかりであった。

 その目は瞑っていた。どうやら意識を失っているようだ。

「お……起きろよ……。何寝てンだよっ……!!」

 叫ぶ。

「俺、知ってンだよ……。浮世絵離れした……女が……」

 叫ぶ。

「裏切ってる……ってのを!」

 叫ぶ。ーーだが、船が堪えられなかった。

 女性の真下が勢いよく割れる。
木製の床はバキバキ割れ、女性は重力に身を任せ、暗闇の中へ吸い込まれていく。

「あっ……あ、あぁ……っ!」

 元々彼女とは距離もあり、捕らえるなんてことは不可能であるのは、操縦士の頭の中でもわかっていた。
でも、彼女に向かって右手が延ばし何もないくうを何度も掴んでは離しを繰り返す。

「お嬢……さん……お嬢さーんっ!」

 真っ逆さまに落ちていく彼女の姿を見て叫ぶことしか出来なかった。

* * *

 ーーあらゆる力の根源、星石ジェムで溢れるこの世界。
人々は生命いのちの恵みに感謝し、幸福に満ちた生活を送っていた。

 ただ……人々は“幸福と安全を約束された世界”に甘え過ぎていた。

「知らないことは恐ろしいことですのよ?」

 暗闇に包まれたとある書斎の中でクスクスと笑う女性の声。その者が指を鳴らした時、とある一角にランプが灯される。

 揺れる灯火は木製の机上にある20cm程の水晶を映し出す。
細長い指が水晶に触れた時、中央に黒い影が渦巻き始める。次第にそれは“翠”、“渦”、“乱”の三つの文字を形成する。

「面白いことが起こりそうね」

 クスクスと笑い続ける。
女性の周辺から次第に“闇”が濃くなっていった。
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