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刀懐道中懐刀


 気が滅入るような山を抜けてしまえば、ふもとは一面の花畑だった。いっぱいの白い花。すぐ近くをよく観察すると、色は同じ白でもいくつかの種類が咲いている。

「すごい……。きれいな所だね。なんだか、私たち以外にも人が増えてきた」
「ああ。山さえ越えりゃ、あとは楽なもんだよ」
「薬研、本当にずっとおんぶして歩き通しだったね……」
「なに、たいしたことない」
「ううん、ありがとう」

 一陣の強い風が吹いて、白い花びらたちが青い空へ巻き上がる。その光景を、山道を抜けてすぐのところで、薬研と一緒に見上げた。

「……おろさないの?」
「……ああ」

 私をおんぶしたまま足を止めていた薬研に、そっと尋ねる。特別花が好きと聞いたことはないけれど、さすがの薬研も見とれていたらしい。遅れて返事がある。それは、生返事のような響きで、動くのはずっとあとだった。

「大将。少し花見でもしていかないか。順調だったから、そのくらいの余裕はある」

 私を地面に降ろして、そのまま旅装束の裾を直してくれる。薬研がせっかく山一つ分甘やかしてくれたのに、明るいところで見た自分の姿は、よれて葉や土で汚れていた。

「いいの? たぶん、出発してから七日目だよ、今日」

 汚れを払いながら答える。薬研は、すうと一呼吸置いた。

「……大丈夫だ。遅れたりしない」

 こちらに手を伸ばして、私の髪に触れる。花びらが一枚ついていたらしい。それを除くと、そのまま下りて私の手を握る。菫色の瞳が私をじっと見ていて、何かを期待して待っているのだと感じた。
 薬研の今の気持ちを、できるだけ想像する。もし薬研が逆に私の立場だったら、彼はどうするだろう。きっと、微笑む。そう思って微笑みかけると、薬研はやっと、その場から動きだした。きれいだな。薬研が噛みしめるように呟く。
 私たちは見つけた大きめの石に腰かけて、薬研が勧めるまま、お茶を飲み、草餅を食べた。


 ずっと休んではいられない。ゆるやかな花畑の斜面を下って行くと、あたりはつるりと角の丸い石で埋まる、河原に差し掛かる。大きな川だ。対岸に知り合いがいたとして、わかるかどうかぎりぎりの、大きな川が流れている。川上の橋近くも川下の方も、あちこちで着物姿の子供が駆けていた。

「渡るぞ、大将」

 薬研が、一歩先に進み出て振り返る。

「……あそこに橋が……って、だめか。やっぱり」
「ああ、俺たちはこっちだ」

 薬研が指さすのは、このまま直進して川を突き抜けるルートだ。今まで道なりに進み続けてきて、その延長線上の道。


 川上にあるのは、罪のない人だけが渡れる橋。立派な橋なのに、渡れる人のなんと少ないことか。激流に押しやられる人は、失礼だけど何らかの殺生に関わっていそうな雰囲気が濃い。私が渡るべきところは、浅瀬というにはしっかり脚の浸かるところだった。女なら水に足をとられて流されたっておかしくない深さだけれど、先にざぶざぶと入っていった薬研が振り返って、私に両手を差し出す。

 ダンスでもするみたい。私も両手を差し出して、薬研の掌にゆだねる。薬研は川の流れなんてなんでもないようで、碇みたいにその場に立って、私が流されないように一緒に渡ってくれるようだった。
 薬研の手はたしかに私の手を取っている。別に引っ張りこんだりもしない。私が自分で進むのを、待ってくれている。ここを渡ることに不満も未練もない。でも、ひとつのわだかまりは胸にあった。

 私は、生きようとしなかった。自分を傷つけたわけではないけれど、避けられたことを避けなかった。薬研は、それをよしとしない刀だ。それなのに手助けしてくれるのは、国の命令だから? 私のことを、本当はどう思っているんだろう。それをはっきりさせたかった。


「……私にがっかりしてない? 嫌いになってない?」
「なるわけない。……好きだよ」
「……ふふ、嬉しいけど……、私がどういう風に好きだったか、知ってるくせにそう言っちゃう?」
「知ってる。……よく知ってる」

 その間はなに? 知ってるって本当に? 本当は、勝手に折れて本丸から消えた私に失望したんじゃないの?
 ざあざあと川の流れる音のなか、薬研と見つめ合う。


「病死、討死、大往生に自死……。みんな等しく天命だ。あんたを責める言葉なんて、なまくらの俺には、持ち合わせがない」

 かつて「したくても、させないよ」と言った唇を開いて、朗々と語りだす。その姿は神々しい。同時に、彼を身近に感じると、少し物悲しかった。


「あんたが何を愛そうが、去ろうが、本丸で一番心を預けた俺がこの任を賜ると決まっていた。今一度刃を研いで、この俺っちがどこまでも、お供仕る」


 私の刀としての最後の務め。その立場から、あらためて私に頭を垂れる。それでも、顔をあげた表情は、まったくもっていつもの薬研だった。美人なのに親しみやすい。心から、薬研個人が私を好ましく思っているのだと感じられる。

「さぁ。離すな、大将。川べりを蹴ってみな。冷たくないさ、大丈夫だ……」
「怖いよ……」
「何も怖かない。俺がいる」

 全てを許すような優しい瞳、微笑み。足元の心許なさもあって、彼のところへ飛びこむように足を進める。それを受けとめた薬研は、よろけない。水流で重心のゆらいだ私を強く引き寄せ、その場で、しかと抱きしめた。苦しい。肺の中の空気が詰まりそうなほど、ぎゅうと締められる。流されないように、じゃない。ずっとそうしていたら川を渡れないのに、薬研はいつまでも、私のからだを抱き締めていた。
 私も薬研も、こんなに胸は熱いのに、もう生者ではない。いくら水にまとわりつかれても、体温は下がらない。

「……ねぇ。川を渡って終わりじゃなさそうだよね。まだ、私たちの旅って続くの?」

 私を包んでさなぎにでもなりそうな薬研の背を、ぽんぽんと叩く。ちょっとだけ勇気を出して、そのまま薬研を抱き返す。やっと薬研の方から、笑った気配がした。

「ああ。厳密に俺じゃあないが、俺たちは何度もこの道を通って、その果てまで行ったんだ。任せてくれ、大将」

 私の魂に寄り添ってくれる、最愛の刀。この先に不安なんてひとつもない。どこまでも、彼と行ける。
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