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「未亡人」(にっかり青江)

 また話そうよと言われても、私と青江さんの生活に、ちゃんとした接点はなかった。彼の家の前をたまに通るだけ。名前だって、私が郵便受けを見ただけで、名乗られても名乗ってもいない。こんな消極的な友達未満、どうしようもない。それでも私は、よく青江さんのことを思い出した。
 母にももう少し、あの家と青江さんのことを話した。おばあさんの家に先月越してきた青年。どうも、私は彼と昔会っているかもしれないこと。
 にやにや顔で「かっこいいの?」と聞かれて、ぞんざいに「美人だよ」と返し話を終えた。彼のおばあさんが亡くなっているなんて思い違いをしている人の記憶を、頼るんじゃなかった。

 夏のあいだ無職が決まっている私はともかく、平日の昼間に見かける彼は何の仕事をしているんだろうか。髪が長いから、公務員や会社員感はない。ショップ店員とか……美容師も似合う。まさか学生で、今は夏休みなんだろうか。さすがに相手が学生となると、こっちに向けられている関心はかわさなくちゃいけない気がする。そういうことに考えが行く時点で、私はきっと意識しているんだろうけど。
 いくら気にしたところで、歩いて数分の家に住んでいるだけの人と縁はない。ただ「また偶然会いたい」という受け身な期待はあって、私はよく町内会の用事に顔を出した。暑いから、私が代わりに行くことには母も大喜びだ。近所の用水路の掃除に、地域のお祭のバザー準備。年上の女性たちと親しくなるばかりだった。

 最後に会ってから二週間。七月の終わりに、彼と再会した。
 町内の神社で行われる夏祭りを明日に控えて、男性も加わり本部のテントややぐらを組んでいる日だった。髪を一つに結っているものの、どこか男性らしい腕をした後ろ姿を見つけたのだ。首にかけたタオルで汗を拭っている。落ち着いた頃合いを見て、そっと彼に近寄った。

「青江さん」

 声が届く間合いで呼びかける。設営中の風景を眺めていた彼は、少し目を見開いて私のほうを見る。たったの二週間ぶりなのに、少し痩せたんじゃないかと思った。

「……その名前、僕言ったっけ」
「すみません、あの日表札を見て」
「ああ、なるほど」

 青江さんは、やっと微笑みかけてくれた。後ろでは気の早いことに、小学生が作った行灯に明かりがつけられ始めている。
 勝手に名前を呼ぶの気持ち悪かったかな、と反省していると、彼の反応の理由が伝えられた。

「あれね、ペンネームだよ。本名は違うんだ。編集部と連絡とるのに楽だから、表札も青江にしちゃった」

 公共のもの以外は青江で届くよ、とさらりとすごいことを言う。いきなりペンネームを呼ばれたから、余計に驚いたんだろう。目の前の現実味のない人は、やっぱり特殊な仕事をしているらしい。「青江待人まちひと」というのが省略のないペンネームだそうだ。

「編集部……ペンネーム、って何か書いていらっしゃるんですか?」
「一応作家だよ。有名ではないと思うけど」

 小説家とか絵本作家とか、そういうものですか? と尋ねると、前者だと教えてくれた。普通に暮らしていたら、知り合うことのなさそうな職業だ。フィクションで見るようなイメージしかない。とりあえず、青江さんにはそれが似合った。

「普通、名前聞くよね。うっかりしてたよ。……聞いていいんだよね」

 私に確認している風ではなく、本当にうっかりしていたなぁと噛みしめるような言い方だった。不思議に思って思わず見つめていて、気がつく。彼は、目の色が片方だけわずかに明るい茶色だ。

「君は、なんていう名前なの」

 苗字を答えると、うんと頷いてそのまま続きを促される。下の名前も伝えた。彼は漢字にまで興味を持ってやけに感心するので、さすが作家だなぁと思ってしまった。

「青江さんの本名は、なんていうんですか」

 お互いを呼べるようになったとはいえ、私が知っているのはペンネームだ。自然な流れで聞いたつもりが、彼は逡巡して、目を伏せる。


「……青江って呼んで。教えてもいいけど、こっちのほうがしっくりくるんだ」
「職業病ってやつですか」
「そうかな」

 教えてもいいらしいけど、教えてはもらえなかったな。少し壁を感じたような気になったけれど、もしかすると本名が好きではない人なのかもしれない。拒絶ではないということの根拠にするには雑だが、彼は引き続き笑顔で、積極的に関わろうとしてくる。「また、うちに来てくれたら良かったのに」なんてことも言う。

「うーん。用事らしい用事もないのに家にお邪魔するのも、変じゃないですか?」
「変かな」
「ちょっと、変かもって思います」

 子供の頃は、ゲーム機持ってすぐクラスメイトの家に行けたのにね。青江さんがそう言うので、思わず子供の頃の彼を想像した。
 駅まで行けばカフェくらいあるけど、そこで待ち合わせたら本当にデートみたいになってしまう。青江さんオススメの自宅訪問だって、この間の流れでお邪魔した感じがギリギリのラインだった。もう一度会いたい、話したい気持ちは、確かに私にもあったけど。
 どうしたら会って話せるかを二人で考える、これってとても妙な関係だ。お互い恋愛感情がすごくあるという感じでもないのに、すごく惹かれている、気はする。彼のことが知りたい、その自覚はあった。

「どういうものを、書いてるんですか?」

 話題を少し変えるつもりで、彼の仕事について尋ねる。帰って作家名で検索すれば彼の著書とあらすじは見られるだろうけど、それとこれは別だ。
 薄暗くなってきた境内で、前夜祭か設営お疲れ様会か、おじさまたちが缶ビールで乾杯する声がした。私もそろそろ、家で夕飯の時間だ。

「……そうだねぇ。それにしようか」
「え?」

 青江さんの答えがいまいち繋がらなくて、首を傾げる。常に微笑んでいる気もするけれど、「それ」を思いついた彼は嬉しそうだった。

「家に来る用事。時間のある日に、僕の本を読みに来てよ。僕はその間、仕事をしてるから」

 彼の家に行って、そこにある著書を読んでいい。それが、作品への質問の答えだった。
 青江さんは、ポケットからスマートフォンを取り出し、私に小首を傾げてみせる。連絡先の交換をしてくれるってことなら、本を読みに来てというのも、わりと本気なんだろう。

「……いいんですか?」
「休み時間に、君のことを教えて」

 相変わらず、ちょっと恥ずかしいことを言う人だ。これ、用もないのに家に行くのと、どう違うだろう。友達や恋人と言えるほどにはお互いを知らないのに、一緒に過ごすための言い訳を作ったわけだ。
 私が実家にいられるのは、きっとあとひと月くらい。ずっと抱いていた焦りが、私の背中を押す。
 「行きたいです」と返事をすると、彼はあの女性的な微笑みで、待ってるよと念押した。
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