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「未亡人」(にっかり青江)

 その家に昔ひとが住んでいたかどうか、私にはわからない。家のすぐ近所というわけではないから付き合いもなく、わざわざ家族に尋ねることもなかった。背の高い生垣に囲まれた大きな平屋で、門はいつも閉まっていた。小学校の通学路だったので、毎日なんとなく、生垣のすきまからのぞく家をぼーっと眺めていた覚えがある。

 仕事を辞めて「ひとまず実家に戻ってこい」と言われた私は、夏休みみたいな毎日を過ごしていた。お盆には親戚がたくさん来るし、暑いし、祖父母も休ませてあげてほしい。炎天下に求職活動しなくてもいいじゃない。母の説得に、こんな風に暮らすのも最後かもしれないと頷いたのだ。

 駅とは反対方向のこの道を歩くのは、ほとんど小学生以来だった。ファミリーマートに行くにはこっちのほうが近いので、大人になってから通るようになった。
 子供のとき途方もなく高く思えた生垣は、今も私の目の高さより高い。褪せた水色と錆の門は変わらず閉まっている。生垣、虫食いの葉、縁側のある日本家屋。確信できる根拠はないのに、やはり空き家なんじゃないかと思う。この家はいつも、空気が静かに足元を漂っているような、無人感があった。しかし、荒れている様子もない。

 なんでこんなに関心を向けているのかと聞かれたら、それもわからない。生垣でよく見えないから、くらいしか言えない。かなり広い敷地だから、生垣沿いの道はしばらく続く。そこで、記憶と違う物が見えた。
 生垣の内側、敷地の隅に黄色い花の頭がいくつも飛び出している。ひまわりの花が、この家の庭に植えられていた。すごく背の高い、立派なひまわりだ。小学生の頃は、たぶん夏も植わっていなかったと思う。誰かが種を放りこんだのか、家主がいるのか。


 その辺りをじっと見ていると、敷地内から重たげな水の音が聞こえた。雨や下水なんかではなくて、人が立てる物音だ。ばしゃばしゃと続いていて、蛇口に繋がっているだろうとわかる。生垣の向こうからだった。
 人が住んでたんだ。初めての発見に、もう少し興味がわく。歩く速さを落として、生垣の向こうの人影を探す。ホースが庭を這う音がして、誰かが立ちあがった。

 私と同じくらいか、少し高い背の……女性だ。予想に反して、若そうに見える。
 つい足が止まった。なかなか姿が全て見えない彼女のことが、やけに気になってしまう。パンツをはいているからか、すらりとして、中性的な印象がある。俯く顔に長い髪がかかっているのに、暑そうに見えない。現実味のないような、美人だった。

 髪をはらって前を見た彼女の目が、私と合った気がした。
 立ち止まって見つめてしまっていたので、心臓が跳ねた。でも、会釈するには生垣は厚すぎる。面識もないから、気付かなかったことにした方が、無難に思える。私はコンビニの袋を鳴らして、そそくさとその場を離れることにした。



「あの家? たしか、何年か前におばあさんが亡くなって、それから空き家だったと思うけど」

 例の生垣の家のことを母に聞けば、そんな返事が返ってきた。わからない。そう締めくくられたので、母の話に信憑性はそこまで無いのかもしれない。それでも少し背筋に冷たいものを感じたのは、あの場所の空き家じみた雰囲気と、あの女性が理由だろう。

 良く言えば、絵になっていたのだ。ずっと空き家だと思っていた家に、若くてきれいで、雰囲気のある女性が静かに立っていた。幽霊映画の冒頭みたいだ。失礼極まりないことを言うけれど、未亡人とか女幽霊とか、憂いのある美人にはつきものだ。
 庭に水をまいている人がいたと言うと、母は「ご家族の人が家を管理してるんじゃない」とごく普通の反応をしてくれた。あんなはっきり見える幽霊いないよね、という気持ちと、あのときの空気が混ざり合わない。


 ファミリーマートにわざわざ行く理由は、コンビニ限定のアイスにはまっているからだった。昼に買ったアイスはすぐに食べてしまって、夕飯のあとにまた恋しくなった。
 二個目はさすがにダメでしょ。まっとうな私がそう考える。でも、食べるならご飯から時間置かないほうがいいって聞くから……。ダメな方の私が、神妙な顔で言う。一人で背中を押してしまって、私はまたサンダルに足を突っ込んだ。

 まとめ買いはしない。大量に買っても実家の冷凍庫はしまうところが無いし、買いに行くのを面倒に思えばダイエットになるかもしれない。それでも、欲望が勝てば結局お財布を持って出てしまうのだから、説得力は皆無だ。

 ふと昼間の生垣の家のことを思い出して、道をひとつ変えてみる。あの家に灯りがついてなかったら、ちょっと幽霊説に傾いてしまう気がして、情報を増やしたくなかった。


 日差しがなくなっても、湿気だけでどこか暑苦しい夜だ。風は少しだけ、汗ばんだ体を冷やしてくれる。コンビニに入れば、強めの冷房ですごく爽快な気分になるだろう。
 自動ドアまであと少し、足を速める私の前に、入れ違いで出てくるひとがいた。
 無意識に俯いていた視線を上げる。焦げ茶の下駄に、骨張った足首。細身の男性だ、と思って顔を上げると、長い髪が冷たい風に乗ってなびいた。
 髪の長い男の人、珍しいな。もう一瞬目が追って、胸になにかが引っかかる。長髪でも違和感のないきれいな顔立ちは、女性にも見えた。……女性に、見える。途端に、彼に抱いた既視感の正体に繋がった。
 生垣の家にいた、幽霊みたいな美人だ。男性だったんだ。二つの驚きが、私の喉を少しひきつらせる。声になるかならないかのそれは、彼の気をこちらへ引いてしまった。
 今度は生垣もなく、確かにしっかりと目が合う。……面識がないというつもりでいて、いいだろうか。
 幽霊屋敷の主は、私と目が合うと足を止め、表情をわずかに変えた。その理由は、私と同じかもしれない。やばい、昼間じろじろ見てたのバレた。その焦りで頭がいっぱいになった。

「……きみ」
「えっと、昼間に、家の庭の所で会いましたよね……。会ったって言っていいか、わからないですけど」

 声は低くて、やっぱり彼は男性なんだと納得する。声のかけられ方もあって、焦りが空回り、昼間の話も自分からしてしまう。
 コンビニの入口で立ち止まって微妙な空気になって、無言ですり抜けるチャンスも逃した。それにしても喋りすぎていることからも、私の慌て具合がよくわかる。

「ああ。あれ、君だったんだ」

 彼の方は「誰かがいた」くらいにしか気が付いていなかったようだ。不審者と思われるくらいなら、田舎の距離感で接してくる人間だと思われた方がいい。ご近所用の笑顔を向けて、聞かれてもいないことを弁解する。

「すみません……昔からずっと、誰が住んでるのか気になってて……」
「このあたりが地元なんだね」

 彼がコンビニの入口脇に背を向けて、表情をやわらかく笑みに変える。そこで話を続けるような空気だったので、彼の前ではいと頷く。微笑んだまま無言で見つめ続けられると、少し居心地が悪かった。
 私にも原因があるのでちょっと厚かましいけれど、偶然声をかけたらナンパに移行してしまうことって、無くはない。きれいな人だけど、ファッションで髪を伸ばす男の人って、堅い職業の大人ではないだろうし。……いや、自認が女性の可能性もあるけど……。
 しばらくの無言に意味はあったのか、席を立つみたいに、その人が一歩踏み出す。

「あの家、ずっと住んでたよ。僕が越してきたのは、先月だけど」
「そうなんですね」

 空き家だったことはないという意味だろう。母の記憶は、やはりいいかげんだったのだ。それから、自身を「僕」と呼んだので、たぶん男性で合ってる。
 私の方に顔を向けて、やはり彼はにこにこしている。含みたっぷりの間が不思議で、私はなぜかまた、昼間抱いた彼への感情を思い出していた。未亡人みたいな、幽霊みたいな……。現実味のない気配が、彼にはある。

「またね」
「……あ、はい」

 別れは彼から、あっさりと告げられた。ただし、再会が決まっているような口ぶりで。
 さらさらのハーフアップの髪をなびかせて、彼は暗い路地に帰っていく。もちろん買い物はしたようで、手に提げた牛乳らしきものが生活感を醸し出している。道路でからころと木の音が響いた。

 そういえば、あの人下駄だったな。下駄でファミマに牛乳買いに来る幽霊なんて、たぶんいない。
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