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一応、知らせておくけれど

 かんかん、と障子の枠を何かで小突く音がする。私が持ち込んだドアノックにあたる習慣は、本丸に比較的浸透していた。

「大将、入るぞ」

 この時間、私は執務中なので誰かが訪ねていけないということはほぼない。季節によっては、戸を開け放しているくらいだ。
 薬研は形式上ノックをして声をかけ、答えを待たずに部屋へ入ってきた。片手にはクリップボードを持っている。内番服姿の彼は、一度眼鏡のブリッジに触れて、レンズ越しに私を見下ろす。
 ちなみに今日の近侍は、薬研ではない。薬研はほぼ固定近侍なので、週に一回オフ日を作るようにしている。

「薬研! どうしたの?」
「大将、そろそろ特別任務に備えて、遠征で玉鋼を集めた方がいいんじゃねぇか」

 会えると思っていなかった相手の登場に大喜びの私に対して、薬研は真面目な顔をしてクリップボードをこちらに向ける。留まっている紙類は、今現在の資材量とその推移の簡単なグラフだった。世話焼きというか仕事好きというか、見た目そのままのインテリ感もこうして備えているのが、薬研というひとだ。
 薬研の綺麗な瞳はグラフと数字だけを映している。それをこっそりと盗み見てから、私も数字を確認した。

「俺たちの手入れに、投石特上狙いの刀装作り……うちの資材が枯れるとは思えないが、玉鋼はいつも頭一つ他に足らねぇからな。念の為」
「薬研って……堅実で、よく気が付いて、本当に頼りになる……」

 思ったことをついこぼすと、薬研のほうは一つ息を吐いて、ほんの少し肩をすくめた。

「ちぃっとばかし、大将が抜けてるもんでなぁ。自然とそうなる」
「かっこいい! 好き!」
「……はいはい、ありがとな。遠征先は天下泰平、西上作戦、新入り達で鳥羽・伏見でいいか」
「うん、いつもので。オフにまでありがとう。愛してる!」

 薬研のほうへ近づき気味の私の頭を、黒手袋の手がぽんと抑える。最後に見たのは呆れたような一瞥。心からの嫌悪でこそないが、挨拶代わりの告白に、良くない意味で思うところがありそうなのは明らかだった。


 私には好きな人がいる。
 正確には、人ではない。そしてほぼ間違いなく、結ばれない。彼は自らの仕事に忠実であるし、だからこそ、仕事以上の部分にはけして踏み入らない。いつも、私が求める数歩手前で足を止める。
 刀剣男士の全てがそうというわけではない。私の現世での話を聞きたがる子もいれば、隙あらば抱きついてくる短刀だっている。つまり薬研のそれは、彼なりの、私との境界を示す意思表示に違いなかった。
 仕事面では、この上なく世話を焼いてくれる。頼んだこと以上に気を回して、私の体調や疲労にも気を配って、それになんの苦もないような微笑みを浮かべる。私はそんな彼に頼り甲斐や安心感を覚え、いつの間にか恋をしていた。

 最初に感じた障壁は、今思えばそう大したものではなかった。簡潔に言えば、彼が少年の姿をした短刀であって、私よりも見た目が幼いという点だ。
 薬研を前にすると胸が苦しくなるようになったのが、一番最初の自覚症状だった。視線も奪われていた。だから、私にとって彼の肉体年齢を含めた容貌は、恋愛の対象になりえてしまったと、不本意ながらすぐに気付いた。不本意だ。その辺の中学生に対して、いち女として対象にしたことなんか一度もない。それでも薬研に対してだけは、どうしようもなく意識してしまっていた。

 私が薬研を、特別な意味で好き。その事実をかみ締めてからやっと、薬研が私をどう思っているのか気にし始めた。その頃に初めて、冗談に乗せて言葉にした。「薬研、好き」と。
 薬研は照れるだろうか。それとも、仕事中の保護者のような眼差しで「俺も好きだぞ」と言うだろうか。望みは、あるだろうか。このときは、何一つ見落とさないほど彼の反応を窺っていたように思う。

 薬研の淡い紫の瞳は揺れ、その顔は確かに一瞬表情をなくした。
 それから眉をハの字にして「おう、ありがとよ」と困ったように笑った。わずかだけど、困らせた。それが薬研の反応だった。ごく一部だけ表に出した恋心が、そこではじけて消えたのを感じた。


 そこからの私は、薬研にしてみれば迷惑な態度ばかり取っていると思う。
 元々頼むことの多かった近侍をほぼ薬研に固定して、そばにいられる限りそうした。週に一回くらいは、薬研のために解放してあげているけれど。仕事の間の、私が恋をした薬研と一緒に過ごし、下心なんかないような調子で「好き」と言う。
 これだけ堂々と好きだと公言しているのだから、傍に居たがってもおかしくない。本丸の皆も、主は薬研が気に入りなのだなぁと軽く捉えてくれていた。薬研があっさりと好意を流しても、その言葉に取り合わなくなっても、私はへらへらとしていたから。

 本気で伝えてしまったら、薬研はその誠実さで一度に私の想いを殺すだろう。あの、困った顔をして。
 「好き」「大好き」「愛してる」それらを言うたびに小さく失恋をして、小分けに想いを殺していく。本気だとさえ思われなければ、薄めた恋を続けられる。身勝手だけど、今すぐ全てを失いたくはないのだ。審神者として一生を終えるであろう私にとって、人生最後の恋なんじゃないかと思うから。

 こんなことばかりやっていたら、そのうち本当に嫌がられて、避けられてしまうかもしれない。でも、私のバカみたいに頑固な恋心は、そうでもされなきゃ消えるとは思えなかった。
 表に出せるだけでいくらか救われる。単なる相槌でも、一旦は受け入れてもらえる。それだけでも満足できるくらいには、私はこの恋を諦めていた。
 諦めた心から出る「好き」の一言は、一番最初に言ったそれよりも、ずっとスカスカになっていた。




「大将、夕飯だぞ。こんな時間までどうし……居眠りか?」

 寝ていた体勢も悪かったのだろう、潜められた薬研の声でも、意識が浮上した。机に突っ伏していたため、腕がしびれている。風がすっかり冷えていて、身震いした。
 側へきた薬研が、私の背に触れて「冷えちまって」と呟く。手袋越しの体温がすぐ伝わるほど、たしかに私は冷えていた。

「この部屋には……着替えは無かったな。俺が取ってくる。あんたはとりあえずこれでも着て、あったかい飯食いに行ってこいよ」

 ぱさ、と体を覆ったのは薬研の白衣だった。けして分厚くはないけれど、薬研の体温が残るそれは、たしかに暖かい。まどろみながら、両手で白衣を寄せる。微かに薬研の匂いがする気もした。

「うん。薬研……好き……」


 ──部屋を出て行こうとしていた薬研の足が止まった。
 今のは、良くなかった。タイミング、声色、どれを取っても、冗談になんか、聞こえない。



「大将」

 聞いたこともないような、冷たくも熱い怒りのこもった声だった。
 寝起きだったなんて嘘みたいに、心臓が速くなっていく。薬研が私に向けて、ここまで棘のある感情を向けるのは紛れも無く初めてだ。私のためを思って叱るときの声とはまるで違う。彼自身の、怒りを感じる。

「あんたの立場も知ってるし、俺にもその辺りの分別はあるつもりだ。……だから、随分我慢してきたんだぜ」

 白衣に包まって机へ寄りかかっていた私は、出口で背を向けたままの薬研から目が離せない。薬研は、一度開けた障子戸をたん、と閉めた。振り向いた顔は、険しい。
 ついにはっきりと、拒否されるときがきてしまった。薬研が困っていることを知っていながら、自分が楽になろうとした報いが今、起ころうとしている。
 鋭い眼光には積もった彼の鬱憤がそのまま篭っているようで、じりじりと心臓が痛くなる。嫌だ。面と向かって好きを否定されたら、今の私じゃまだ傷ついてしまう。まだ私の中には、まっとうな恋心が残っている。

 袖を通さず羽織っていた白衣の衿を、胸倉を掴むように引き寄せられる。腕ごと包まれているので身動きが取れず、膝立ちになる。上半身だけ、白衣を使って手繰り寄せられた感じだ。反射的に目をつむり、薬研から顔を背ける。薬研が私の「好き」という言葉で、ここまで怒るんだと思うと、辛くて見ていられなかったから。
 薬研はそれに構わず、顔を背けたついでに薬研の方へ向いた耳へ、苛立ち交じりの低い声を送る。

「俺たちには恋慕の情なんかないと思ってるのか? それとも、短刀だから安心だとでも思ってるのか?」
「……え?」
「あんたの信じる薬研藤四郎でいようと思ってきたが、器が足りなかったみたいだ」

 言われると思っていたこととまるで違うことを言われたせいで、理解が遅れる。そんな論点の話だったか、と考えていたら、白衣ごと執務室の畳に引き倒される。乱暴な音がしたけれど、痛くはなかった。私の頭がぶつかったのは、畳ではなく薬研の手のひらだったから。
 居眠りから覚めた執務室は夕暮れ時で薄暗い。白衣と畳を背にして、見上げる先には覆いかぶさる薬研と天井が見える。薬研が無表情だったから私もぽかんとしてしまったが、体勢を理解すると、怒る薬研を前にしているのに鼓動が速まった。薬研は口元だけうっすら笑みを作って、私へ語りかける。

「なぁ大将。俺があんたに手を出さねぇ理由は、この身体を与えられた恩義に、あんたへのちっぽけな見栄。この二つだけなんだ」

 言いながら、私が投げ出していた腕を片方引いて私に薬研の首を触らせる。ちょうど脈のところへ当たって、どくどくと血が流れるのを感じた。
 頭の横に腕をついて、いよいよ薬研が間近に迫る。そのまま肩口に顔が埋められて、吐息がかかる。その感覚にばかり身を縮こまらせていたら、身体をひと撫で、手が滑っていく。腿から腰、お腹、……胸まで。

「超えたらまずい理もなけりゃ、俺を縛る禁忌もこの世にはない」

 薬研を留めるのは、薬研の意思ひとつ。これは薬研にとっての忠告だ。忠告したことすら、彼が自分の意思で一拍間を置いてくれただけで、本来彼にそこまでする義理はない。
 薬研の両手が、がっしりと私の頭を両側から捕らえる。表情が判別できる最も近くで、顔をつき合わせる。

「これからは、鼻先に餌ぶら下げられて食いつかない保証はない。……次に好きと言ってみろ。あんたをもらうぞ」

 噛み付くように、吐き捨てるように、余裕のない男の顔を見せて、薬研は低く言葉をぶつける。
 顔が近づいて、キスをされる、と思ったら唇の真横を食んで、藤の瞳で私の目を射抜いた。言うまでも無く、きっと私は真っ赤だろうし泣きそうだった。
 薬研はすっと私の上からどくと、引っ張り起こしてその場にぺしゃんと座らせる。

「……飯、できてる。食ってくれ」

 障子の開け閉めの音、部屋を離れていく軽い足音を聞きながら、落ち着こうと努力した。皆の前に出て行ける、私にならなければ。

 山ほど言ってきた「好き」は、あと一回で、私たちを変える。
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