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知らなくても同じこと

「いいですか、あなたは……怪我をして、記憶が混乱している状態です」

 そうらしい。奇抜な模様を描かれた、冗談みたいなデフォルメの狐が喋っているように見える。見渡した部屋は和室で、片付いてはいるが病院ではない。私の服も、なぜか和服だ。
 私に「落ち着いてほしい」と促すこの生き物に一番驚いたのだが、本人はそれを想定していなかったようだ。それに毒気を抜かれて、私はおとなしく話を聞いている。

「そう長い時間続くものではないとの見立てですので、わからないことも多く不安かと思いますが、いましばらくお休みください」
「んっと、私、仕事とかは……?」
「ここが職場なのです。仕事については、説明されてもいたずらに混乱されるだけでしょうから、自然回復を待つほうがよいと、お医者さまが」
「そうなんですか」
「長くて二日、早ければ今日中には、概ね思い出されるでしょう」

 頭は痛まないので、ぶつけたわけではなさそうだった。
 覚えている事を整理する。私は学校を卒業している成人で、たぶん仕事には就いていた。自分の名前が思い出せなくてかなり焦ったが、両親の顔と名前はわかる。学生時代までの記憶はたぶん問題がない。
 何をどうしたら、こんなに身の回りのことを忘れるというのだろう。わからないが、一日二日で元に戻ると言うのなら、待ってもいいと思った。後のことはそれで戻らなかったときに考えよう。


「で、誰かと話をした方が、記憶が早く目を覚ますかもしれないってな」

 先程から襖の側に立っていた綺麗な少年が口を開く。黒髪、白衣に眼鏡、ズボンは今どき珍しいくらい短い丈だが、引き締まった白い脚が映えていた。華奢な見た目だけど声変わりは過ぎていて、どこか大人っぽい雰囲気を纏っている。いま喋ったのはこの儚げな少年なのかと少し驚いたくらいだ。
 ここは私の職場だというが、それならこの子は何者なんだろう。少年は私のほうへ歩み寄り、布団で身を起こしている私の傍らへどかりと座る。そのズボンの短さで胡坐とは、つくづく見た目の繊細さを裏切る子だ。瞳は、不思議な薄い紫色をしている。

「俺っちのことは『薬研』と呼んでくれ」
「や、げん……君」
「君か。くすぐってぇな」

 彼の声色も瞳も優しげだ。どんな関係なのかはわからないが、とりあえずいい子そうだ。そして、私はこの子を普段くん付けでは呼んでいないらしい。
 今の私にとって、彼は謎の美少年でしかない。やげんさん……呼べる。呼び捨ては、無理そう。考えてはみたが、くすぐったいと言った彼は嫌そうではなかったから、やげん君で通させてもらおうと思う。

「それでは薬研殿、私は目を覚ましたことを報告してきますから、あとはよろしくお願いします」
「ああ、承知した」

 狐が頭をぺこりと下げて、部屋を出て行く。言葉は喋るし、戸は自力で開けるし、ロボットだとしたら相当高度なものだ。その狐がいなくなって、私はやげん君と二人きり部屋に残されてしまった。

 私の記憶を早く戻すために、話をする。さっきそう言っていたから、これから彼とお喋りをしなくてはならない。覚えてないことは話せないし、何を話題にしたものか。
 まずは、彼のことから聞いてみよう。ちらりと窺うと、すぐさま目が合ってどきっとする。ずっとこちらを見ていたようだった。

「……やげん君は、白衣着てるけど、お医者さんの見習い? 中学生くらい……だよね」

 私の質問を聞くと、彼は興味深そうに微笑む。この余裕ある間合いは、子供らしさを感じさせなかった。

「医者じゃあないが、似たようなもんだ。ちょっと心得があってな、あんたの風邪とかは日頃俺の管轄だ」

 ますますもって、私が一体何をしている人間なのかわからない。なぜ彼のような少年が、普段私の看病などさせられているんだろう。
 やげん君は妙に時代がかった言い回しをする。私が添えた年齢の確認には、特に反応がない。

「じゃ、ちょっと脈取らせてくれ。手首借りるぞ」

 彼は手馴れた様子で私の腕をとると、黒い革手袋を片方外して手首へ触れる。なんとなく呼吸を控えて、数秒おとなしく見守った。
 伏し目になると、睫毛もきれいだ。たぶん歳とか関係がなく、肌は恐ろしくなめらかで白い。思わずあちこち見つめてしまう。

「異常なし。……そう聞いてたんだけどな。自分で確認したほうが、やっぱり落ち着く」

 少し眉を下げて、やげん君が笑った。私を心配してくれていたらしい。優しい子だ。

「ありがとう。どこも痛くないし、自分でも怪我してるって感じしないんだ」
「ああ、怪我っていっても……いや。痛むところがないなら、よかった」

 意味深に言い淀んだな、と引っかかったのも束の間、ぽんと頭に手が置かれる。
 ……撫でた。この子、すごく自然に私の頭を撫でた。年上のお兄さんかよ!!!
 心の中では大騒ぎしたものの、なんとかあまり顔には出さなかった。やげん君は口調も気安いし、そんなに年の差を意識しない間柄だったのだろう。だからといって、まさか私は普段から少年に頭を撫でてもらっていたのか!?
 複雑な気持ちで彼の方を窺ったが、特に気持ちの揺れは感じられない。「この美少年、将来はとんでもない人たらしになるぞ」と思った。

「なぁ、俺はあんたの話も聞きたい。覚えてることでいいから、何か聞かせてくれやしないか」

 先程からの言動で、だんだん彼という人が掴めてきた気がする。この美少年然りとした容貌で、男前でカッコイイ。そして優しい。同年代の女子は、さぞかし初恋をさらわれていることだろう。
 そんな罪作りな色男・やげん君が私の話をご所望だ。仕事の記憶に繋がるようなもの……と思いを馳せてみるが、全然浮かばない。

「うーん、何を話そうか。好きな食べ物は……」
「知ってる」
「そうなの。えーっと、じゃあ趣味は」
「それも知ってる」

 短く話へちょっかいをかけるやげん君は、立て膝に頬杖をつき、少し意地悪く笑う。聞けば、好きなお酒も、果ては好きな男性のタイプまで聞いたことがあると言われてしまった。話題選びに我ながら芸がない。
 それでも、やげん君は私の話を待ってくれていた。だから言葉を探す。

「私、子供のとき、将来は人の役に立つ仕事がしたかったの」

 ほう、と教授みたいな相槌が返る。新規話題を選べたらしい。

「例えば押し売りとか、難しい話で相手の損になる契約を取ったりとか、そういうのは嫌だなって、ドラマを見て思って」
「どらま」
「花屋でもお嫁さんでもいいから、私の仕事がひとを不幸にしないようなのがいいなって。やげん君、私の仕事、そういうの叶えられてる?」

 自分のことを話すついでに、逆に問いかけてしまおうと思ったのだ。子供の頃に、将来の自分へ語りかける手紙を書かされた。とっくに大人なのに、私は今の仕事を知らないという不思議な状態にある。だからこそ、質問が意味を成すと思った。
 やげん君は私をじっと見つめる。

「誇りある仕事だよ。優しいあんたにとって、辛くないかは、わからんが」

 その微笑みは、私の心をやけに騒がせた。優しいのは、そんな言葉が出るやげん君の方だ。
 綺麗な子相手だからって、緊張してしまっているんだろうか。どう見ても六つ以上年下の男の子に、変にどきどきしてしまう。以前の私は、この人たらしな美少年とどのように付き合ってきたんだろう。今すぐ教えてほしかった。

 ぐう、と空腹を知らせる音が鳴る。少年にときめいた罰が当たったみたいなタイミングだ。彼にも聞こえたし、お、と反応まで返された。思わず顔を覆う。

「倒れて結構経つからな。腹が減って当然だ」
「もうやだ、健康すぎて恥ずかしい」
「あと少しで夕飯が出来るだろうから、それまで果物でも食うか」

 やげん君は、どっこいしょ、と言いながら離れた所に置いてあったお盆を取りに行った。お盆には木のキャップがついた果物ナイフと布巾、りんごと柿が一つずつ乗っている。彼は迷わず大きなりんごの方を手にとって、果物ナイフのキャップを外す。刃がきらりと光って、鋭い。
 調理実習でりんごの皮むきを習うのは、何年生のことだっただろうか。男の子は、あまり慣れていないはずだ。

「私やろうか? やげん君、刃物使える?」

 その問いかけに彼は目を丸くして、それからかなりおかしそうに笑った。私はそこまで不器用ではないし、面白いことを言ったつもりはない。きっと、私が忘れている何かに由来するんだろう。
 落ち着いた雰囲気の子だけれど、こんなに快活に笑ったりもする。知れば知るほど、彼は人を惹きつけた。

「あんたにこんなモノ使わせられるかよ。俺でも皮くらいは剥けるさ」

 自信あふれる答え通り、しゃりしゃりと小気味良い音をたてて、りんごの皮がうずまき状にされていく。……かなり肉厚で、食べごたえのありそうな皮だ。手際はいいのに豪快で、まさしく彼らしい、と自然に思った。知らないのによく知っている。やげん君に対して、私は徐々にそういう感覚を抱き始めていた。
 一回り小さくなったりんごを、ほら、と丸ごと渡される。かじりつくと、やげん君の方が嬉しそうに笑った。

 濡れ布巾で、彼が果物ナイフの刃を拭う。白と刃の鋼色が、妙に目の端に留まった。
 目の前のやげん君の口が私を呼んだように見えるが、音だけやけに遠い。

 脳裏に化け物の姿が過ぎった。怪しい光を纏った、宙を泳ぐ骨の怪物。口に咥えた短刀の刃が迫って、それを誰かが素早く切り伏せた。化け物が纏っていた光の残滓だけがまっすぐ私へ向かってきて、それで……。
『大将!!』
 鬼気迫る声で、私に向かって呼びかけた人がいた。その声は、思い出すと心臓をわし掴むような感覚がする。怪物から助けてくれた人。いつも優しく呼んでくれる人。私に迫った危険に鋭く声を張り上げて、抱き留めてくれた気がする。
 しなやかな脚をした、黒髪の、頼もしい人。意志の強い目をした人だ。

 薬研。やげんは、薬研だ!
 思い出した記憶を皮切りに、抜けていた期間の光景が雪崩のように思い出される。

「薬研」

 ぽろりと、思わず名が口からこぼれ出た。
 目の前の少年は、背を丸めて私の顔を覗き込む。私の動揺を見てとると、笑みを深めて不敵に笑った。その声は低く、耳に残る。

「思い出したか?大将。俺ァ、あんたが顕現させた刀の付喪神、薬研藤四郎だ」

 少年だなんて気軽に言えない、私より遥かに永い時を知っている存在。私が憧れ、想いを寄せる相手だ。
 先程まで「男の子」だと認識していた目の前の人が、途端に神様になって、男になる。彼を目の前にして普通の少年のように扱っていた思考を忘れたわけではなくて、とても恥ずかしかった。

「思い出しました……。あの、薬研、世話かけてごめんね」
「いや? 審神者になる前の、なにも知らないあんたと話せて楽しかったよ」

 刀連中が心配してるからな、教えてやらねぇと。薬研はそう言って、お盆に布巾や果物ナイフを乗せて立ち上がる。
 あんたにこんなモノ使わせられるか。さっきりんごを剥くときに言った言葉が、笑った意味が今ならわかる。
 刀である薬研に「刃物を扱えるか」なんて心配はおかしい。それに、本丸のどの刀も振るわない私が果物ナイフは使うとなれば、彼らはどうやら妬くのだ。
 そんななまくら、と吐き捨てた長谷部のことを思い出す。私が調理をしたがるとき、刃物だけは誰かに任せる決まりだった。こいつが主を主人だと思わないように、とスーパーで買った九百円のナイフに睨みを利かせる姿も、私は今日忘れていた。
 全然将来に思い描いた職ではないけれど、今の毎日は宝物みたいに眩しい。

 名を捨てて、現世から離れた世界で結んだ主従の関係が私にはいくつもある。そのなかで芽生えたのが、少年の肉体に宿った尊い存在への恋心だ。
 本当の子供ではないし、元々敬うべき存在。そういう前置きがあったから、私は素直に薬研への気持ちを認めることができていたんだと思っていた。
 薬研が去り際ににこりと、少年とも神ともつかない、どっちつかずの笑顔を向ける。

「主でも刀でもない俺たちは、ああいう風に話すんだぜ」

 今日の彼は、誰かの息子で、知らない年下の少年だった。
 ……それでも、私は薬研藤四郎に惹かれてしまうのだと知った。
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