刀懐道中懐刀
私は旅装束で、土がむき出しの田舎道を歩いていた。あたりは田畑があるでもなく、道以外は雑草や野花の生えた草っ原だ。ただ、生まれた時代であれば田舎道といって間違いないのかもしれないが、ここはきっとそうではない。審神者として本丸を構える場所は、どこかの時代の僻地だ。それこそ、本丸の外は人の住んでいない林や獣道がずっと続いていたっておかしくない。こうして踏み固められた道があるだけ、人間が通るところだとわかり、栄えているほうだろう。
審神者としての仕事を与えられたのは、ひどく久しぶりだった。私は前線なんてとっくに退いて、何年も審神者の仕事から離れていたように思う。それが突然呼び出され、人ではない政府の使いにこう告げられた。
『審神者様。この屋敷を出てすぐの道を、真っ直ぐお行きなさい。伴は道の先に待たせていますから、身仕度を……』
顔を隠した式神に言われるまま、隣の部屋で装束を身につけ旅の荷を持った。待たせているとも、とは一体誰なんだろう。仕度を終えてからは、屋敷内では誰ともすれ違わず、順路らしい裏口から出た。大きな建物なのに、人の気配のないところだ。きっと政府がこうして使う以外、用途の無いところなのだろう。
五分も歩くと、ようやく屋敷以外の人工物に着いた。敷地は囲われていないから塀ともいえない、ただ道の途中でくぐらされる門のようだった。
その柱の根元に、ひっそりと佇む姿がある。細身で派手さはなく、側で仕えるためにある存在。私の方を見て、彼が微笑む。サラサラの黒髪で、色白の肌が見える、少年の姿だ。
「……よう、大将」
低く、耳に馴染む声が響く。大将。審神者を戦の将になぞらえて、そう呼んでくるひとがいくらかいた。でもこの声は、私が審神者として生きていくなかで、何度も心を救ってくれた声だった。
薬研藤四郎。短刀の化身である刀剣男士で、彼は、私の本丸の薬研藤四郎だ。政府の刀は、審神者みんなを主だの大将だのと呼ばないからわかる。今回の指令の伴として、わざわざ私の本丸から手配したらしい。
記憶より、彼を少し幼いと感じた。話していると忘れてしまうけど、彼の仮の姿は紛れもなく少年だ。その懐かしい姿に、抑えきれない嬉しい気持ちと、少しの苦い感情がわいた。
私は、ずっとずっと、彼のことが好きだった。だった、と過去形で言えてしまうし、苦い感情という時点で、これ以上言うまでもない。私と彼は、恋愛感情で通じ合ったことなどなかったのだ。私の片思いだし、告白をしたこともない。特別に思って、側にいてもらえるよう何かにつけては彼を選んで、それだけの日々だった。
誰だって、なんとなくは、相手からどれくらい好かれているか感覚でわかることがある。薬研は私を好ましく思ってくれていた。でもそれだけ。私のように二人が恋人になることを想像したり、そうではない現実にやきもきして、自分から何か行動を起こすような好意ではなかった。彼はいつだって、私の近侍という立場にとても満足していたのだ。
待ってるだけ、相手から求めてほしいだけ。お互いが人間同士で、入り組んだ立場の上下や約束事のない恋愛だったら、その姿勢でいる私が悪いと言われても納得したかもしれない。でも、私にとって彼が求めていないということは、とても重要な事実だった。そういった意味で私に好かれる必要も、願望も、彼にはなかった。
私は一応主人であり、同時に力を貸していただいている側だ。彼らがそうと認識するから、人は彼らの主人になれる。その彼に伝えて、私の恋が、ただの願い事のように叶えられてしまうことだって、恐ろしかったのだ。
叶えられない恋だけが理由ではないけれど、緊迫した戦況が続き、休日や精神的にもたれかかるような依存先もなかった。そうしてだんだん疲弊して、本丸ではずっと張り詰めていて……。最後には、前線から退き、政府での内勤を申し出た。ぽんこつになった私の手では、怪我をした刀剣たちの治りも遅くなり、刀装は何を作っても灰の玉のように壊れた。
戦力が惜しい政府としては本丸の解体も勧めてこず、審神者という立場の性質上、その精神に無理強いをするのも危うい。休職に近い扱いだった。私は「またいつか、元気になったら戻ってくるから」と言い残して、本丸を去った。それきりだった、彼との再会だ。
「……久しぶりだね。なんか、懐かしいな」
「そうかい? 俺たちはちょっとばかし、あんたらより気が長い。……俺だけ、こんなに早く一人であんたに会って、本丸のやつらは悔しがるだろうが」
薬研はからっとした爽やかさで、私の中の気まずさをくるんでしまうようだ。急に本丸を出て行って帰らなかった私に、不満な顔一つ見せない。一緒に暮らしていて、彼らは愛情深く、審神者がいなくなってなんともないような存在ではないと、私も知っている。責めることのない彼らの優しさなんだと、私にもわかった。
「……ああ、変わらないな。大将、どこも悪くないか? 気分は、どうだい」
大事なものを見るような、とびきり優しい瞳だ。その口ぶりに、たしかな寂しさも伝わってくる。わかっていたけど、私はいけないことをしたのだと、もう一度思った。
ちょっとしたお灸なんだろうか。私の旅程は、かつて恋をした相手との二人旅という、なんとも言い難いものになった。
途中に茶店のひとつもない、土と草だけの道。話題に困るかとひやひやしていた部分もあったけれど、思ったよりもつらくはなかった。何も言わなくても、隣の薬研は穏やかに微笑んで、散歩を楽しむような顔をしている。
そういえば、薬研はずっとこうだった。戦っているときは血気盛んで鋭いのに、本丸内で近侍を任せると、うそみたいにのんびりしている。大丈夫だ。心配ない。行ってくる。留守の間どうだった。掛けてくれる言葉はいつも私の不安をほぐすようなもので、薬研と話すと気持ちが楽になった。無理に話をしないくらいで、いたたまれない気分になんてならない。
……じゃあ、なんで私は本丸にいて、つらくなってしまったんだっけ。今となっては、当時のことは自分の気持ちすら不鮮明で、はっきりとしない。ひどいひとなんて一人もいない本丸で、私の心のくすりばこだった薬研がいて、何を思いつめていたんだろう。心の健康を損なってしまうというのが、そういうことなのかもしれない。
ざりざりと乾いた土を踏みしめて、この足元の道が続く先がどこだか察した瞬間、うそでしょ勘弁してと思った。
道は目の前の山に続いている。山自体は当然見えていたけれど、迂回するとばかり思っていた。なるほど、刀剣男士をお伴につけるわけだ。今までと違って荒れた道で、出張感覚では抜けられそうにない。下から見上げたせいかもしれないけれど、とにかく大きな山だったのだ。
隣を歩いていた薬研が、何も言わずに屈み込む。そのまま私を振り返って、自分の肩をトントン叩き「ん」と言う。姿勢的には……おんぶしてくれるってこと……?
これからこんなに険しい道を行くのに、開幕おんぶはさすがにやりすぎだ。元気なうちは、自分で歩くべきでしょ。いやいやと軽く否定しても、薬研は屈んだままだ。
「しばらくは自分で歩くよ」
「何のための伴だ」
「いや、護衛じゃないの」
政府がまさか、お伴としてついて行っておんぶしてやりなさいなんて言うものか。普通に考えて護衛に決まっている。なのに薬研は言い訳を考えているというのを隠そうともせず、ううんと唸ってよそを見る。
「こういうのも、サァビスのうちだ」
「発音、変だよ」
「言ったな。赤子みたいに、前で抱き上げてやろうか」
細腕で身振りしてみせる。とはいえその目はどうも本気で、放っておくと本当にこのまま抱き上げてきてもなんの不思議もない。こういう距離感の大胆さも、全国で審神者をたぶらかすのだ。
薬研もなかなか折れないし、目の前の山道は、登山に縁遠い身としてはたしかに尻込みしてしまう荒れ具合だ。足元に生い茂る植物はどうも固くてちくちくとしている。現代の登山服でもない草鞋では、なにか踏んで貫通しそうな気もする。薬研の方が脚はたくさん出ているけれど、このひとは本当に頑丈なのである。戦場以外で怪我をしたためしがない。
「……本当に平気? 山登りだよ? 薬研、革靴だし」
「問題ない。さっきも言ったが、そのために来た」
「マジですか……。じゃあ、お願いします……」
「ん。さぁ、来な」
薬研の丸まった小さな背中にそっと近寄って、肩に手を置く。ぐいと脚を両側から抱えられて、着物の裾が上がる。和服でおんぶなんてしたら、それはこうなる。人気のない山道だ、他に見る人もいない。一応、脚絆を身につけていて生脚も出ていない。しょうがないと割り切った。
細いな、薄いな、とあちこちで感じるのに、薬研の背中の上はとても安定していた。足元は踏んでも平気な場所かどうか探りながらだろうに、ぐんぐんと山の斜面を登っていく。目の前の薬研の頭はそのまま、視界の両端では木の枝葉ががさがさと後ろに流れていく。背中にぴたりとくっついて、どうしても意識してしまう私に、薬研が気付くわけもない。無言なんてずっと平気だったのに、なにか言わなくちゃと急に焦りが湧いてくる。
「薬研は、今回の目的地知ってるの?」
山を越えると知って驚いている私の横で、薬研は何の反応もしていなかった。だから、なんとなく尋ねた。返ってきたのは、肯定だ。
「ああ、何度か行ったことがある。コツはな、この山をとにかく早く越えることだ。だから、俺が背負った方が速い」
見失いそうな道を迷いなく進むのは、来たことがあるからなのか。それにしたって、鬱蒼とした山は入ってからどんどん暗くなるようだった。見上げてみても空が葉で完全に隠れていて、まだ夕方前なのに夜みたいだ。彼は短刀だから、暗がりは得意なんだろうけど。
「山越え、どれくらいかかるの?」
「普通の人間が休みながら行くなら、六日ってところか。ただ、人が進むにはこの山道は険しい。あんたが同じように進めば無傷では済まない。俺なら、怪我もしないしあんたを背負ったって幾分早く越えられる」
葉や草の音にかき消えないよう、薬研が声を張る。聞いてぎょっとした私も、自然と大きな声が出た。
「ま、待って待って、六日? スケール大きくない? 事情も話さないで、いきなりそんな山越えさせる!?」
「そこは俺にはどうにもできん。まぁ、楽しく行こう」
ところでスケエルってなんだと添えられる。わからないのに返事する…と呟けば、薬研は悪びれずに笑っていた。
「六日も二人で遠出なんて、上は何考えてるんだろうね」
ドキドキしたこの体勢も、一日八時間も道をゆけば合計で丸二日分くらい続きそうである。近侍にしていた頃だって、そんなに一緒に過ごしたことはない。まして、こんな抱きしめてるみたいな距離感で。
「俺とあんたのふたりなら、道中つらいことなんか何も無いだろう。ええ?」
薬研は速度も緩めず、平然としている。
「……なにもってことは無くない……?」
「無い、無い。あんたにつらいことがあるなら、言ってくれ」
「…………うん」
そうして、数日間の山越えが始まった。私には方角もわからず、進む薬研に任せきりだ。夜は、薬研の背中で私が先に寝落ちしてしまう場合もあれば、なかなか足を止めないこのひとから無理やり降りて、道の端で休んだりした。この山の奥深くでは、道まで光がほぼ通らなかった。今が何時だか判断する方法はない。私がうとうとしだしたタイミングで、野営などの支度をした。
薬研の少ない旅の荷物は、小さく見えて必要なものが色々入っていた。容積的に絶対おかしいので、現代技術で作られたものだろう。頑丈な布は伸び放題の草の上に敷けば簡易ベッドになる。当たり前のように私だけをそこへ寝かせ、眠るそぶりも見せない薬研と言い合って(私が一方的に絡んでいただけだ)、まさかの並んで眠るという事態にもなった。
私が薬研と、恋愛の意味でどうこうなりたかったのは何年も前の話だ。薬研にそんなつもりはないというのも、充分わかっている。それでも、一枚の毛布で眠るような距離で「おやすみ」と微笑まれて、何も思わずには、いられなかったけれど。
私たちは、この数日間いろいろな話をした。だいたいは、思い出話や、私が審神者になる前の話だ。本丸では、なんとなくタブーにも思えて、進んで話題にはしなかった。薬研も初めて聞く話ばかりだったようだ。
話すのが禁止されていたわけではない。けれど、この山中で話したことは私達しか知らないのだと思うと、力むことなく話せた。
「ねぇ、どうして薬研だったの」
「ん?」
「今回のお伴。……じゃんけん?」
薬研がちょっと吹き出して、背負われた私には見えないところで笑う。薬研は練度も高いけれど、近侍をしていたことも多いから一番ではない。
「なるほど。俺は勝ったと思う? 負けたと思う?」
「えっ。……勝ち?」
自惚れっぽくて少し言いづらかったけど、刀剣男士は審神者のことが好きだ。ここはひねらず、こっちだろう。
薬研がしばらく黙る。そうだな。ぼそりとつぶやく声は小さくて、私しかいないのに、私に言ったのかどうか、わからなかった。
「元々これは俺の役目と決まってた。じゃんけんで決まるなら、本丸総当たり戦しただろうな」
動体視力なら短刀か脇差有利、練度的にそれでも俺か? 後出しがうまいやつが勝つなぁ。もしも話をする薬研の声色は明るい。さっきの、ちいさな呟きとは全然違う。
「……こうしておぶるのが、俺でよかった」
え、と言いかけて息をひそめる。薬研が私の腿を掴む手が、ぎゅ、と強くなったから。
「隣で眠るのも、現世の話を聞くのも、……俺でよかった」
それがどの程度の、どういうつもりで出た言葉なのか、尋ねるのには抵抗があった。私たちは、これからまだまだ一緒に旅をするのだ。他の刀同様、私のことを好きでいてくれている。でも薬研はそんな風に、一振りの特別であることを願うような言葉を、言ったことがなかった。ただ、その内容も様子も、たとえば恋愛感情だと一言でいえるような雰囲気ではない。
「……そんなこと、してみたかったの?」
彼らにはいない母親に甘えるような、独り占めするような、そういう風にも聞こえた。自分の世界で唯一のひと。幼い子にとっての母。審神者は、ある意味で近いものがある。
「あんたとできることなら、なんでもしてみたいさ。大将」
「……好奇心旺盛だね」
さらっとした回答のわりには、爆弾発言の可能性も孕んでいる。話し方は軽やかで湿度もなく、それでいて、言葉通り嘘はなく、本当になんでも全て。そう聞こえるのだ。人間のどろりとした欲とは違う、澄んだ意識が手を伸ばしてくるような感覚。ざく、ざく、と足元の葉が鳴る。薬研は振り返ったりしなかった。
審神者としての仕事を与えられたのは、ひどく久しぶりだった。私は前線なんてとっくに退いて、何年も審神者の仕事から離れていたように思う。それが突然呼び出され、人ではない政府の使いにこう告げられた。
『審神者様。この屋敷を出てすぐの道を、真っ直ぐお行きなさい。伴は道の先に待たせていますから、身仕度を……』
顔を隠した式神に言われるまま、隣の部屋で装束を身につけ旅の荷を持った。待たせているとも、とは一体誰なんだろう。仕度を終えてからは、屋敷内では誰ともすれ違わず、順路らしい裏口から出た。大きな建物なのに、人の気配のないところだ。きっと政府がこうして使う以外、用途の無いところなのだろう。
五分も歩くと、ようやく屋敷以外の人工物に着いた。敷地は囲われていないから塀ともいえない、ただ道の途中でくぐらされる門のようだった。
その柱の根元に、ひっそりと佇む姿がある。細身で派手さはなく、側で仕えるためにある存在。私の方を見て、彼が微笑む。サラサラの黒髪で、色白の肌が見える、少年の姿だ。
「……よう、大将」
低く、耳に馴染む声が響く。大将。審神者を戦の将になぞらえて、そう呼んでくるひとがいくらかいた。でもこの声は、私が審神者として生きていくなかで、何度も心を救ってくれた声だった。
薬研藤四郎。短刀の化身である刀剣男士で、彼は、私の本丸の薬研藤四郎だ。政府の刀は、審神者みんなを主だの大将だのと呼ばないからわかる。今回の指令の伴として、わざわざ私の本丸から手配したらしい。
記憶より、彼を少し幼いと感じた。話していると忘れてしまうけど、彼の仮の姿は紛れもなく少年だ。その懐かしい姿に、抑えきれない嬉しい気持ちと、少しの苦い感情がわいた。
私は、ずっとずっと、彼のことが好きだった。だった、と過去形で言えてしまうし、苦い感情という時点で、これ以上言うまでもない。私と彼は、恋愛感情で通じ合ったことなどなかったのだ。私の片思いだし、告白をしたこともない。特別に思って、側にいてもらえるよう何かにつけては彼を選んで、それだけの日々だった。
誰だって、なんとなくは、相手からどれくらい好かれているか感覚でわかることがある。薬研は私を好ましく思ってくれていた。でもそれだけ。私のように二人が恋人になることを想像したり、そうではない現実にやきもきして、自分から何か行動を起こすような好意ではなかった。彼はいつだって、私の近侍という立場にとても満足していたのだ。
待ってるだけ、相手から求めてほしいだけ。お互いが人間同士で、入り組んだ立場の上下や約束事のない恋愛だったら、その姿勢でいる私が悪いと言われても納得したかもしれない。でも、私にとって彼が求めていないということは、とても重要な事実だった。そういった意味で私に好かれる必要も、願望も、彼にはなかった。
私は一応主人であり、同時に力を貸していただいている側だ。彼らがそうと認識するから、人は彼らの主人になれる。その彼に伝えて、私の恋が、ただの願い事のように叶えられてしまうことだって、恐ろしかったのだ。
叶えられない恋だけが理由ではないけれど、緊迫した戦況が続き、休日や精神的にもたれかかるような依存先もなかった。そうしてだんだん疲弊して、本丸ではずっと張り詰めていて……。最後には、前線から退き、政府での内勤を申し出た。ぽんこつになった私の手では、怪我をした刀剣たちの治りも遅くなり、刀装は何を作っても灰の玉のように壊れた。
戦力が惜しい政府としては本丸の解体も勧めてこず、審神者という立場の性質上、その精神に無理強いをするのも危うい。休職に近い扱いだった。私は「またいつか、元気になったら戻ってくるから」と言い残して、本丸を去った。それきりだった、彼との再会だ。
「……久しぶりだね。なんか、懐かしいな」
「そうかい? 俺たちはちょっとばかし、あんたらより気が長い。……俺だけ、こんなに早く一人であんたに会って、本丸のやつらは悔しがるだろうが」
薬研はからっとした爽やかさで、私の中の気まずさをくるんでしまうようだ。急に本丸を出て行って帰らなかった私に、不満な顔一つ見せない。一緒に暮らしていて、彼らは愛情深く、審神者がいなくなってなんともないような存在ではないと、私も知っている。責めることのない彼らの優しさなんだと、私にもわかった。
「……ああ、変わらないな。大将、どこも悪くないか? 気分は、どうだい」
大事なものを見るような、とびきり優しい瞳だ。その口ぶりに、たしかな寂しさも伝わってくる。わかっていたけど、私はいけないことをしたのだと、もう一度思った。
ちょっとしたお灸なんだろうか。私の旅程は、かつて恋をした相手との二人旅という、なんとも言い難いものになった。
途中に茶店のひとつもない、土と草だけの道。話題に困るかとひやひやしていた部分もあったけれど、思ったよりもつらくはなかった。何も言わなくても、隣の薬研は穏やかに微笑んで、散歩を楽しむような顔をしている。
そういえば、薬研はずっとこうだった。戦っているときは血気盛んで鋭いのに、本丸内で近侍を任せると、うそみたいにのんびりしている。大丈夫だ。心配ない。行ってくる。留守の間どうだった。掛けてくれる言葉はいつも私の不安をほぐすようなもので、薬研と話すと気持ちが楽になった。無理に話をしないくらいで、いたたまれない気分になんてならない。
……じゃあ、なんで私は本丸にいて、つらくなってしまったんだっけ。今となっては、当時のことは自分の気持ちすら不鮮明で、はっきりとしない。ひどいひとなんて一人もいない本丸で、私の心のくすりばこだった薬研がいて、何を思いつめていたんだろう。心の健康を損なってしまうというのが、そういうことなのかもしれない。
ざりざりと乾いた土を踏みしめて、この足元の道が続く先がどこだか察した瞬間、うそでしょ勘弁してと思った。
道は目の前の山に続いている。山自体は当然見えていたけれど、迂回するとばかり思っていた。なるほど、刀剣男士をお伴につけるわけだ。今までと違って荒れた道で、出張感覚では抜けられそうにない。下から見上げたせいかもしれないけれど、とにかく大きな山だったのだ。
隣を歩いていた薬研が、何も言わずに屈み込む。そのまま私を振り返って、自分の肩をトントン叩き「ん」と言う。姿勢的には……おんぶしてくれるってこと……?
これからこんなに険しい道を行くのに、開幕おんぶはさすがにやりすぎだ。元気なうちは、自分で歩くべきでしょ。いやいやと軽く否定しても、薬研は屈んだままだ。
「しばらくは自分で歩くよ」
「何のための伴だ」
「いや、護衛じゃないの」
政府がまさか、お伴としてついて行っておんぶしてやりなさいなんて言うものか。普通に考えて護衛に決まっている。なのに薬研は言い訳を考えているというのを隠そうともせず、ううんと唸ってよそを見る。
「こういうのも、サァビスのうちだ」
「発音、変だよ」
「言ったな。赤子みたいに、前で抱き上げてやろうか」
細腕で身振りしてみせる。とはいえその目はどうも本気で、放っておくと本当にこのまま抱き上げてきてもなんの不思議もない。こういう距離感の大胆さも、全国で審神者をたぶらかすのだ。
薬研もなかなか折れないし、目の前の山道は、登山に縁遠い身としてはたしかに尻込みしてしまう荒れ具合だ。足元に生い茂る植物はどうも固くてちくちくとしている。現代の登山服でもない草鞋では、なにか踏んで貫通しそうな気もする。薬研の方が脚はたくさん出ているけれど、このひとは本当に頑丈なのである。戦場以外で怪我をしたためしがない。
「……本当に平気? 山登りだよ? 薬研、革靴だし」
「問題ない。さっきも言ったが、そのために来た」
「マジですか……。じゃあ、お願いします……」
「ん。さぁ、来な」
薬研の丸まった小さな背中にそっと近寄って、肩に手を置く。ぐいと脚を両側から抱えられて、着物の裾が上がる。和服でおんぶなんてしたら、それはこうなる。人気のない山道だ、他に見る人もいない。一応、脚絆を身につけていて生脚も出ていない。しょうがないと割り切った。
細いな、薄いな、とあちこちで感じるのに、薬研の背中の上はとても安定していた。足元は踏んでも平気な場所かどうか探りながらだろうに、ぐんぐんと山の斜面を登っていく。目の前の薬研の頭はそのまま、視界の両端では木の枝葉ががさがさと後ろに流れていく。背中にぴたりとくっついて、どうしても意識してしまう私に、薬研が気付くわけもない。無言なんてずっと平気だったのに、なにか言わなくちゃと急に焦りが湧いてくる。
「薬研は、今回の目的地知ってるの?」
山を越えると知って驚いている私の横で、薬研は何の反応もしていなかった。だから、なんとなく尋ねた。返ってきたのは、肯定だ。
「ああ、何度か行ったことがある。コツはな、この山をとにかく早く越えることだ。だから、俺が背負った方が速い」
見失いそうな道を迷いなく進むのは、来たことがあるからなのか。それにしたって、鬱蒼とした山は入ってからどんどん暗くなるようだった。見上げてみても空が葉で完全に隠れていて、まだ夕方前なのに夜みたいだ。彼は短刀だから、暗がりは得意なんだろうけど。
「山越え、どれくらいかかるの?」
「普通の人間が休みながら行くなら、六日ってところか。ただ、人が進むにはこの山道は険しい。あんたが同じように進めば無傷では済まない。俺なら、怪我もしないしあんたを背負ったって幾分早く越えられる」
葉や草の音にかき消えないよう、薬研が声を張る。聞いてぎょっとした私も、自然と大きな声が出た。
「ま、待って待って、六日? スケール大きくない? 事情も話さないで、いきなりそんな山越えさせる!?」
「そこは俺にはどうにもできん。まぁ、楽しく行こう」
ところでスケエルってなんだと添えられる。わからないのに返事する…と呟けば、薬研は悪びれずに笑っていた。
「六日も二人で遠出なんて、上は何考えてるんだろうね」
ドキドキしたこの体勢も、一日八時間も道をゆけば合計で丸二日分くらい続きそうである。近侍にしていた頃だって、そんなに一緒に過ごしたことはない。まして、こんな抱きしめてるみたいな距離感で。
「俺とあんたのふたりなら、道中つらいことなんか何も無いだろう。ええ?」
薬研は速度も緩めず、平然としている。
「……なにもってことは無くない……?」
「無い、無い。あんたにつらいことがあるなら、言ってくれ」
「…………うん」
そうして、数日間の山越えが始まった。私には方角もわからず、進む薬研に任せきりだ。夜は、薬研の背中で私が先に寝落ちしてしまう場合もあれば、なかなか足を止めないこのひとから無理やり降りて、道の端で休んだりした。この山の奥深くでは、道まで光がほぼ通らなかった。今が何時だか判断する方法はない。私がうとうとしだしたタイミングで、野営などの支度をした。
薬研の少ない旅の荷物は、小さく見えて必要なものが色々入っていた。容積的に絶対おかしいので、現代技術で作られたものだろう。頑丈な布は伸び放題の草の上に敷けば簡易ベッドになる。当たり前のように私だけをそこへ寝かせ、眠るそぶりも見せない薬研と言い合って(私が一方的に絡んでいただけだ)、まさかの並んで眠るという事態にもなった。
私が薬研と、恋愛の意味でどうこうなりたかったのは何年も前の話だ。薬研にそんなつもりはないというのも、充分わかっている。それでも、一枚の毛布で眠るような距離で「おやすみ」と微笑まれて、何も思わずには、いられなかったけれど。
私たちは、この数日間いろいろな話をした。だいたいは、思い出話や、私が審神者になる前の話だ。本丸では、なんとなくタブーにも思えて、進んで話題にはしなかった。薬研も初めて聞く話ばかりだったようだ。
話すのが禁止されていたわけではない。けれど、この山中で話したことは私達しか知らないのだと思うと、力むことなく話せた。
「ねぇ、どうして薬研だったの」
「ん?」
「今回のお伴。……じゃんけん?」
薬研がちょっと吹き出して、背負われた私には見えないところで笑う。薬研は練度も高いけれど、近侍をしていたことも多いから一番ではない。
「なるほど。俺は勝ったと思う? 負けたと思う?」
「えっ。……勝ち?」
自惚れっぽくて少し言いづらかったけど、刀剣男士は審神者のことが好きだ。ここはひねらず、こっちだろう。
薬研がしばらく黙る。そうだな。ぼそりとつぶやく声は小さくて、私しかいないのに、私に言ったのかどうか、わからなかった。
「元々これは俺の役目と決まってた。じゃんけんで決まるなら、本丸総当たり戦しただろうな」
動体視力なら短刀か脇差有利、練度的にそれでも俺か? 後出しがうまいやつが勝つなぁ。もしも話をする薬研の声色は明るい。さっきの、ちいさな呟きとは全然違う。
「……こうしておぶるのが、俺でよかった」
え、と言いかけて息をひそめる。薬研が私の腿を掴む手が、ぎゅ、と強くなったから。
「隣で眠るのも、現世の話を聞くのも、……俺でよかった」
それがどの程度の、どういうつもりで出た言葉なのか、尋ねるのには抵抗があった。私たちは、これからまだまだ一緒に旅をするのだ。他の刀同様、私のことを好きでいてくれている。でも薬研はそんな風に、一振りの特別であることを願うような言葉を、言ったことがなかった。ただ、その内容も様子も、たとえば恋愛感情だと一言でいえるような雰囲気ではない。
「……そんなこと、してみたかったの?」
彼らにはいない母親に甘えるような、独り占めするような、そういう風にも聞こえた。自分の世界で唯一のひと。幼い子にとっての母。審神者は、ある意味で近いものがある。
「あんたとできることなら、なんでもしてみたいさ。大将」
「……好奇心旺盛だね」
さらっとした回答のわりには、爆弾発言の可能性も孕んでいる。話し方は軽やかで湿度もなく、それでいて、言葉通り嘘はなく、本当になんでも全て。そう聞こえるのだ。人間のどろりとした欲とは違う、澄んだ意識が手を伸ばしてくるような感覚。ざく、ざく、と足元の葉が鳴る。薬研は振り返ったりしなかった。
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