慌てず焦らず、ここまでおいで
薬研とは、時折お互いを抱きしめ合う。さらに時々、唇を合わせる。私と薬研の特別な関係は、これが全てだ。それ以上のことを刀剣男士たる彼に望むのは、いけないことなのではないかという意識がどこかにあった。恋人として、認め合ったのだとしてもだ。
そもそもこの仲は、私が薬研に向ける好意に気付かれ、微笑んだ薬研にそっと口付けられたことから始まった。私も告白をしていないし、薬研も特に何も言っていない。ただ、本丸の仲間にさらっと関係を肯定しているところを見かけて「あ、付き合ってるってことでいいんだ」と認識を更新した。
好きでいることを当人に許され、大事に扱ってもらえる。人と人だって簡単ではないのに、相手は人と少し違う視点から世を見ているような存在だ。これ以上幸せなことはないし、奇跡だと思う。
この毎日が続くのなら充分幸せだけれど、奇跡が続いている間に、何か特別な触れ合いもしたい。より親密になりたい。そういう風に思うことは、正直、時々あった。
薬研の方には、そういう進展を望むような意思など全然感じられない。彼はいつだって同じように触れて、いつもの微笑みを浮かべて、自分から退く。私ばかりこうして少しずつ求めていくのは、人間特有の欲深さなのかもしれなかった。
少しでも、日々煮詰まっていくような気持ちを薬研に伝えたい。上限は、自分に許したキスまでで。そう思った時に知ったのが、キスをする場所に意味を持たせた文章だった。
一通り眺めて、ひとつの言葉が目にとまった。
恋慕。
私が薬研に向ける感情の多くがこれに詰まっている。いつまでも私の中で彼こそが一番眩しく、それを恋以外ではどう言っていいのかわからない。愛というほどまだ穏やかになりきれない、そわそわとするような気持ちだ。
……キスが意味する他の言葉だって、見当違いとまでは言わない。そのほとんどが、好意に近い気持ちを伴うものだ。けれど、他の言葉は口付ける場所も含めて一部恥ずかしい。「自分にできる範囲で、ほんのちょっとだけ進展をしたい」という私の複雑な気持ちには合っていないのだ。
恋慕を意味する場所だけを頭にしっかりと入れて、私は機会を狙うことにした。
以前からずっと近侍をお願いしていた薬研は、恋人になっても仕事は変わらず進めてくれる。ただ、その日の仕事が片付いても、「お疲れ」と言ってすぐに帰ることがなくなった。疲れたか、なんて私に尋ねたり、そこで一休みを始める。
この時間が、私が唯一自分から、彼に恋人としての振る舞いを求められる時間だ。手に触れれば握ってくれ、体を寄り添わせるように近付けば、抱きしめてくれる。もうひとつ何かあれば、触れるだけの口付けも彼からしてくれる。華奢だ、パーツが小さい、と近付くたびにふと思うけれど、視界に彼しかいない今、私にとってはたったひとりの男性が薬研だった。体を預けた先で、すぐそばの薬研の首筋がほのかに温かいのを感じる。今のこの気持ちをこめて、私から口付けてみたかった。
別に、私のキスの意味をわかってほしいということではない。ただ、そういう意味なんだと決めた誰かがいるのだから、きっと伝わる何かがあるんじゃないかと思う。唇をつけるという行為が、言葉のない生き物にも愛情と伝わるように、大きな括りで伝わればいい。
恋慕を意味すると書かれていたのは、腕である。場所としても、唇にするよりも私が緊張しなさそうな場所だ。
口付けようと、彼の腕にそっと手を添える。私が頭を動かすより先に、迷いなく頰をすくいあげられて、唇が重なる。
一瞬ひやりと冷たくて、やわらかい。……でも、その、今日はそういうつもりではなくて。
そのつもりでないタイミングで顔を近付けられるだけで、こちらには心の準備がかなり必要だ。何度かしてきたことといえ、いつもならじっくりと覚悟を決めて近付いている。ふとした瞬間が絵になる美少年相手に、ノーガードの心臓がもつわけがない。
いつもより動揺して照れが隠せない私に、薬研は少し不思議そうな顔をした。してほしいんじゃなかったのかと、嫌味でなく伝わってくる。
腕をとってみようとするけれど、手の周辺へのキスでは、また細かく意味が違ってしまう。腕らしい腕にと思うと肘近くを目指すことになるのだが、私が何をどうしたいのかがわからない薬研は、へんに力が入って思い通りに導けない。
「……どうした、大将」
「ちょっと……ちょっとね……じっとしてて薬研……。抵抗しないで……」
「ん……?」
薬研に抱きとめられた体勢から、なぜだか腕を両手で握っている奇妙な構図になってしまった。言われるまま、無抵抗で待ってくれている薬研の視線も刺さる。
結局私は、自分の口元に引き寄せることを諦め、えいと二の腕の近くに顔をうずめた。腕というか、戦装束に顔を当てた感じだ。肌でもないので、当然わかりやすいリップ音もしない。
「本当にどうした大将」
縋りつかれたような状態の薬研は、そっとあやすみたいに、私の背を撫ぜる。「落ち着け」感がすごく強い。
「たまには、いつもと違うことをしてみたいなと……」
「……そうかい」
薬研はほんの僅かに眉を寄せつつ、それ以上は尋ねてこなかった。ただ、ちょっとした奇行のおかげか、頭も撫でてもらえた。私としては、本来の目的は失敗したけれど良いこともあったと言える、可もなく不可もない結果だ。
私はこのキスの場所を変える試みを、翌日ほとんど意識していなかった。ものすごくロマンチックな展開になったわけでもない。いつもよりちょっと愉快なことになっただけで、進展したとはいえない。忘れたとまでは言わないが、真面目に仕事をやっていれば頭から抜けることもある。
終業時刻に、ふいに、薬研が顔を近付けてきた。あ、と思う間に、唇が押し当てられる。
普段は私から少しずつ甘えて、そのうちに至ることが多い。この珍しく唐突な行為には、内心驚いていた。ただ、薬研のキスはいつも優しい。たしかに重ね合わせて、すぐに離れる。それを時には少し繰り返す。
なのに、今日は離れた唇が、そのまま頬へ落ちた。二度も、三度も。
……こうなるとまた、いつもと様子が違うな、と薬研のすることに注意を向ける。一体どうしたのかと思いながらされるがままになる私の様子は、きっと昨日の薬研と似ていた。
頬同士をつけるような距離で、次はどこへ口付けるのかと様子を探る。お互いの右手同士、重ねられた薬研の手が甲を滑って、掴む。引き上げられて、食むように唇で触れたのは、手首だった。さすがに私も、薬研に何か意図があるのだと思い始めていた。瞳の薄紫を覗くと、彼は進んで話をしてくれる。
「昨日は、やたらと力んで妙なところに口をつけたがるもんだから、何か理由があったのかと思って」
「え」
「あんたは、くすぐったいことばかりするな」
薬研はそう言って、動物でも触るみたいな加減で、私の頬や耳を撫でる。私を見ている瞳は、普段通りの見守るような微笑みだ。こんな穏やかな顔で、意味するところは「お前がどういうつもりであんな事をしたか調べた」という風に聞こえる。話の続け方も、私の反応にかまわずその続きだ。
私は、どんな顔をしていればいいのかと居た堪れない気持ちだった。回りくどい、を愛情深く言っただけのような気がする。そりゃあ、私の愛情表現は些細で、もぞもぞと動くような行動力しか、ないけど。
ひとしきり私の顔を撫でると、薬研は一度目を伏せた。それからまた、すぐそばの私の目をじっと見て、何かをこめるように言葉をつむぐ。
「さっきのが、俺からのお返しだよ」
言い終えれば、薬研はいたずらっ子のような表情を見せた。
腹が減ったな。俺は先に行って待つとするか。冗談っぽく付け加えて、薬研が先に立ち上がる。食事をとる大広間で、薬研はいつも隣の場所を空けておいてくれる。それはいいとして、いま、薬研はなんと言った?
薬研まで、私と同じ方法で返してくると思わなかった。
唇へのキスの意味が「愛情」だったのは、覚えている。頬は場所のとおりの可愛らしい感情で、いい意味だけれど、私がどれか一つを選ぼうと思ったときには、選ばなかった。
それから、手首。手首はなんか、こう、きわどい意味だった、ような。「手を引いてすぐにキスをしたら腕か手首か微妙な場所になっちゃいそうだから、気をつけよう」と思った覚えがある。
何を思ってくれた口付けなのか、調べるのには、勇気が要りそうだ。
そもそもこの仲は、私が薬研に向ける好意に気付かれ、微笑んだ薬研にそっと口付けられたことから始まった。私も告白をしていないし、薬研も特に何も言っていない。ただ、本丸の仲間にさらっと関係を肯定しているところを見かけて「あ、付き合ってるってことでいいんだ」と認識を更新した。
好きでいることを当人に許され、大事に扱ってもらえる。人と人だって簡単ではないのに、相手は人と少し違う視点から世を見ているような存在だ。これ以上幸せなことはないし、奇跡だと思う。
この毎日が続くのなら充分幸せだけれど、奇跡が続いている間に、何か特別な触れ合いもしたい。より親密になりたい。そういう風に思うことは、正直、時々あった。
薬研の方には、そういう進展を望むような意思など全然感じられない。彼はいつだって同じように触れて、いつもの微笑みを浮かべて、自分から退く。私ばかりこうして少しずつ求めていくのは、人間特有の欲深さなのかもしれなかった。
少しでも、日々煮詰まっていくような気持ちを薬研に伝えたい。上限は、自分に許したキスまでで。そう思った時に知ったのが、キスをする場所に意味を持たせた文章だった。
一通り眺めて、ひとつの言葉が目にとまった。
恋慕。
私が薬研に向ける感情の多くがこれに詰まっている。いつまでも私の中で彼こそが一番眩しく、それを恋以外ではどう言っていいのかわからない。愛というほどまだ穏やかになりきれない、そわそわとするような気持ちだ。
……キスが意味する他の言葉だって、見当違いとまでは言わない。そのほとんどが、好意に近い気持ちを伴うものだ。けれど、他の言葉は口付ける場所も含めて一部恥ずかしい。「自分にできる範囲で、ほんのちょっとだけ進展をしたい」という私の複雑な気持ちには合っていないのだ。
恋慕を意味する場所だけを頭にしっかりと入れて、私は機会を狙うことにした。
以前からずっと近侍をお願いしていた薬研は、恋人になっても仕事は変わらず進めてくれる。ただ、その日の仕事が片付いても、「お疲れ」と言ってすぐに帰ることがなくなった。疲れたか、なんて私に尋ねたり、そこで一休みを始める。
この時間が、私が唯一自分から、彼に恋人としての振る舞いを求められる時間だ。手に触れれば握ってくれ、体を寄り添わせるように近付けば、抱きしめてくれる。もうひとつ何かあれば、触れるだけの口付けも彼からしてくれる。華奢だ、パーツが小さい、と近付くたびにふと思うけれど、視界に彼しかいない今、私にとってはたったひとりの男性が薬研だった。体を預けた先で、すぐそばの薬研の首筋がほのかに温かいのを感じる。今のこの気持ちをこめて、私から口付けてみたかった。
別に、私のキスの意味をわかってほしいということではない。ただ、そういう意味なんだと決めた誰かがいるのだから、きっと伝わる何かがあるんじゃないかと思う。唇をつけるという行為が、言葉のない生き物にも愛情と伝わるように、大きな括りで伝わればいい。
恋慕を意味すると書かれていたのは、腕である。場所としても、唇にするよりも私が緊張しなさそうな場所だ。
口付けようと、彼の腕にそっと手を添える。私が頭を動かすより先に、迷いなく頰をすくいあげられて、唇が重なる。
一瞬ひやりと冷たくて、やわらかい。……でも、その、今日はそういうつもりではなくて。
そのつもりでないタイミングで顔を近付けられるだけで、こちらには心の準備がかなり必要だ。何度かしてきたことといえ、いつもならじっくりと覚悟を決めて近付いている。ふとした瞬間が絵になる美少年相手に、ノーガードの心臓がもつわけがない。
いつもより動揺して照れが隠せない私に、薬研は少し不思議そうな顔をした。してほしいんじゃなかったのかと、嫌味でなく伝わってくる。
腕をとってみようとするけれど、手の周辺へのキスでは、また細かく意味が違ってしまう。腕らしい腕にと思うと肘近くを目指すことになるのだが、私が何をどうしたいのかがわからない薬研は、へんに力が入って思い通りに導けない。
「……どうした、大将」
「ちょっと……ちょっとね……じっとしてて薬研……。抵抗しないで……」
「ん……?」
薬研に抱きとめられた体勢から、なぜだか腕を両手で握っている奇妙な構図になってしまった。言われるまま、無抵抗で待ってくれている薬研の視線も刺さる。
結局私は、自分の口元に引き寄せることを諦め、えいと二の腕の近くに顔をうずめた。腕というか、戦装束に顔を当てた感じだ。肌でもないので、当然わかりやすいリップ音もしない。
「本当にどうした大将」
縋りつかれたような状態の薬研は、そっとあやすみたいに、私の背を撫ぜる。「落ち着け」感がすごく強い。
「たまには、いつもと違うことをしてみたいなと……」
「……そうかい」
薬研はほんの僅かに眉を寄せつつ、それ以上は尋ねてこなかった。ただ、ちょっとした奇行のおかげか、頭も撫でてもらえた。私としては、本来の目的は失敗したけれど良いこともあったと言える、可もなく不可もない結果だ。
私はこのキスの場所を変える試みを、翌日ほとんど意識していなかった。ものすごくロマンチックな展開になったわけでもない。いつもよりちょっと愉快なことになっただけで、進展したとはいえない。忘れたとまでは言わないが、真面目に仕事をやっていれば頭から抜けることもある。
終業時刻に、ふいに、薬研が顔を近付けてきた。あ、と思う間に、唇が押し当てられる。
普段は私から少しずつ甘えて、そのうちに至ることが多い。この珍しく唐突な行為には、内心驚いていた。ただ、薬研のキスはいつも優しい。たしかに重ね合わせて、すぐに離れる。それを時には少し繰り返す。
なのに、今日は離れた唇が、そのまま頬へ落ちた。二度も、三度も。
……こうなるとまた、いつもと様子が違うな、と薬研のすることに注意を向ける。一体どうしたのかと思いながらされるがままになる私の様子は、きっと昨日の薬研と似ていた。
頬同士をつけるような距離で、次はどこへ口付けるのかと様子を探る。お互いの右手同士、重ねられた薬研の手が甲を滑って、掴む。引き上げられて、食むように唇で触れたのは、手首だった。さすがに私も、薬研に何か意図があるのだと思い始めていた。瞳の薄紫を覗くと、彼は進んで話をしてくれる。
「昨日は、やたらと力んで妙なところに口をつけたがるもんだから、何か理由があったのかと思って」
「え」
「あんたは、くすぐったいことばかりするな」
薬研はそう言って、動物でも触るみたいな加減で、私の頬や耳を撫でる。私を見ている瞳は、普段通りの見守るような微笑みだ。こんな穏やかな顔で、意味するところは「お前がどういうつもりであんな事をしたか調べた」という風に聞こえる。話の続け方も、私の反応にかまわずその続きだ。
私は、どんな顔をしていればいいのかと居た堪れない気持ちだった。回りくどい、を愛情深く言っただけのような気がする。そりゃあ、私の愛情表現は些細で、もぞもぞと動くような行動力しか、ないけど。
ひとしきり私の顔を撫でると、薬研は一度目を伏せた。それからまた、すぐそばの私の目をじっと見て、何かをこめるように言葉をつむぐ。
「さっきのが、俺からのお返しだよ」
言い終えれば、薬研はいたずらっ子のような表情を見せた。
腹が減ったな。俺は先に行って待つとするか。冗談っぽく付け加えて、薬研が先に立ち上がる。食事をとる大広間で、薬研はいつも隣の場所を空けておいてくれる。それはいいとして、いま、薬研はなんと言った?
薬研まで、私と同じ方法で返してくると思わなかった。
唇へのキスの意味が「愛情」だったのは、覚えている。頬は場所のとおりの可愛らしい感情で、いい意味だけれど、私がどれか一つを選ぼうと思ったときには、選ばなかった。
それから、手首。手首はなんか、こう、きわどい意味だった、ような。「手を引いてすぐにキスをしたら腕か手首か微妙な場所になっちゃいそうだから、気をつけよう」と思った覚えがある。
何を思ってくれた口付けなのか、調べるのには、勇気が要りそうだ。
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