えっ、ハグ一回千円なんですか!?
元々、薬研の扱いに妙なところがある審神者だった。好意であるのは間違いないが、秘めたる恋心のような可憐なものではない。もっと堂々として、押しが強く、偶像崇拝のような何かであった。
初対面から何年も経った今でも、やれ薬研が内番着に着替えた、刀装作りを失敗したと大はしゃぎする。薬研が箸を転がしたとしても目を輝かせる審神者が、彼を近侍にして集中できるはずはなかった。
特別任務の報酬を受けるための、通常業務にない報告書。欲しければ書け、書かなくても責められることはない、損をするだけ。こういうものを、審神者は特に後回しにする。任務期間は三週間あったにもかかわらず、最後の三日で書類に取り組んでいた。
「終わっ……終わった……?」
「いや、あと数日分ある」
いかにもやり遂げた、みたいな顔をする審神者の前に、残った書類の山を移動する。審神者はせめて、今日はキリがいいからもうおしまいと宣言したかったのだ。目論見は破れ、それはもう哀れな表情をした。
「薬研……、つらいよ……!」
審神者は同情を誘いながら、側の薬研へどさくさ紛れに抱きつこうとした。特に問題がなければ、薬研は稀に起こるこういったことを拒まない。だが今回は、審神者の怠慢で仕事が遅れ、時間もなかった。審神者が職務を全うしないときには、心を鬼にするよう他の刀剣からもよくよく頼まれていた。
ひらりとかわし、審神者に人差し指を立てて見せる。
「おっと待ちな、一回千円だ大将」
「えっ」
彼女の驚きは、主に後半だ。避けられたことは初めてでなくても、料金を提示されたのは初めてのことだった。日頃金欠だと頭を抱える審神者には効くだろうと考えてのことだ。金額は薬研の口から適当に出た。薬研がちらと確認すると、面食らった顔をしている。
「冗談だ。真面目にやってくれってことだよ。そういうのは終わったあとで──」
審神者はごそごそと財布を取り出し、紙幣を一枚抜く。この間およそ三秒。
「お願いします!!」
審神者は薬研の手に千円札を握りこませて、そのままがばりと抱きついた。
「…………」
薬研は呆気にとられて、されるがままになってしまう。この審神者は本当に、薬研に金を支払って抱きついたのだ。審神者は満足そうに、ほうとため息をつく。
「千円でこれ? 安い……」
薬研を思う存分抱きしめ、頭に頬ずりをして、たっぷり十秒静止。薬研の期待を悪い方向に裏切ったのである。
どう言い聞かせたものかと薬研が迷う間にも、審神者は勝手にそのルールを利用し続けた。薬研の怪訝な眼差しも見えていないのか、にこにこと千円札を渡しては抱きついてくる。
ふざけて審神者を真似、薬研に千円札を渡してきた鶴丸国永を、薬研は思い切り持ち上げて高い高いしてやった。驚いてのけぞり、天井に頭を打っていた。
審神者の有料ハグの売り上げは、三週間でいよいよ五万円の大台に乗った。手をつけず保管していた千円札の封筒が、洒落にならないかさばり方をしている。有料とまで言ったのに、一日一回で済んでいない。どれだけ堪え性がないのか。
薬研だって、こんなことをしたくてやっているわけではない。金銭を失ううちにどこかで懲りて、自分はなんということをしているのだと、反省して欲しかったのである。
薬研の思いは虚しく、翌週いっぱいで有料ハグは更に売り上げた。審神者に渡された千円札を片手で二つに折り、山をピンとはじく。審神者は薬研を思う存分堪能した後の高揚感で、ほくほくと笑顔を浮かべていた。
「大将わかってんのか。もう七万だ。あんた、これに今月七万も使ったんだぞ」
薬研が改めて、審神者へ正気になれと強く訴えかける。通常の暮らしから余分に七万捻出するのは、彼女にとって簡単なことではないはずだ。ずっと続けられることでは絶対にない。審神者はその数字に多少動揺を見せたものの、こくりと頷く。
「小さいお金じゃないけど……お得感は感じてます……」
「…………そうかい」
自省を促しても無駄らしい。そうかい、そっちがそう来るなら。この言葉はそういう意味であった。
その日の夜、薬研は審神者の私室を訪ねた。珍しいことだが、緊急時含め無いことでもない。
「大将、今いいか。人目を避けたいんだが」
「はい、どうぞ」
浴衣に半纏を羽織った薬研は、寝支度が済んだ様子である。審神者も布団へ湯たんぽを入れたところだった。寝室の襖を閉じれば、日中に刀剣男士を迎えているのと同じ状態になる。
薬研が袂から取り出したのは、厚くかさばった茶封筒だった。中身は、有料ハグの売り上げである。
「これを」
訳がわからないといった様子で首を傾げる審神者に、薬研は静かに息を吐く。
「刀剣男士との金銭のやり取りは、政府に報告義務があるだろ。主のあんたが、あんなことに金を使ったと本丸外へ漏らすわけにはいかない。はなから受け取る気はなかった」
審神者は「言われてみれば」と合点する。給与として渡す以外では、いちいち名目が必要だ。その他褒賞にしては多すぎる。「薬研を堂々と抱きしめることができる権利」という目先の欲にくらんだ審神者は、そんなことにも考えが及んでいなかった。
では、薬研は実際は無償で審神者の癒しに付き合っていてくれたのか。なんと優しい刀なんだろう。審神者が感激しながら両手で受け取ろうとすると、薬研は封筒をスッと引っ込めた。
「が、あんたはもっと反省すべきだ」
じろりと厳しい眼差しは、普段にくらべ冷ややかだ。甘やかさないと決めたときの、お説教用の眼差しである。反射的にきちっと正座をして薬研の顔色を窺う。薬研が黒手袋の指を優雅に封筒へ突っ込み、札束を取り出しぱらぱらとめくる。手早く、枚数を再確認しているようだ。
「今月に入ってからあんたが俺を買った金、しめて七万六千円。これであんたを買う」
「え」
札束から上げた視線は、先ほどと同じ有無を言わせないものだ。その教育係のような顔で、薬研が言った言葉を頭の中で繰り返す。あんたを買う。七万、六千円で。薬研は、たしかにそう言った。なぜ、買うって何を、どんな風に、と疑問があふれて、審神者は不安であやふやな表情になる。薬研はつんと澄ました顔で、数えた札を封筒に戻し、審神者の前に置く。困った顔をどう読み取ったのか、薬研は背をかがめて、口元だけでにっこり笑ってみせた。
「他人を金で買ってきた御仁が、まさか自分は売らないだなんて、言わないよな」
こういった場面では、薬研の小粋な口調がまるで極道者かのような圧を相手に与える。薬研は、怯えるべき相手なんかではない。非道なことはしないに決まっているが、言葉だけ聞けば、今日は大層物騒だった。薬研に限って、まさかしまいという妙な想像が審神者の頭にちらつく。しかし、今まで薬研に対価を払って「そういう種類のもの」を買っていたのは、他ならぬ審神者だ。
審神者がじりと身をひくと、薬研も心なしか責めるようにずいと顔を近づける。
「い、いやいや、問題はそこじゃなくてね、薬研には、そうやって私を買って得することなんか無くない!?」
「そりゃあんたが決めることじゃない」
薬研がすっぱり斬って捨てると、審神者の顔は青くなったのち真っ赤になった。少しずつのけぞっていた背中が、とんと寝室の襖に触れる。膝の上でぎゅっと握った手に、薬研がそっと黒の手を乗せる。そのまま続けて、審神者が誰にでも許すくらいの、軽いハグをした。密着せず、背中をぽんぽんと叩くようなものだが、審神者は過剰なほど意識して小さく固まっている。
「抱擁で換算すれば、七十六回分だな。それくらいのもんは、一晩で払ってもらおうか」
大体、粟田口はいちいち言葉選びが紛らわしく、いかがわしいのだ。審神者はその日、きわめて健全に、朝まで薬研を懐に入れる羽目になった。ついでのように交わされる抱擁と頬ずりで、彼女は自分が軽率に彼を買ったことを、かなり反省したという。
初対面から何年も経った今でも、やれ薬研が内番着に着替えた、刀装作りを失敗したと大はしゃぎする。薬研が箸を転がしたとしても目を輝かせる審神者が、彼を近侍にして集中できるはずはなかった。
特別任務の報酬を受けるための、通常業務にない報告書。欲しければ書け、書かなくても責められることはない、損をするだけ。こういうものを、審神者は特に後回しにする。任務期間は三週間あったにもかかわらず、最後の三日で書類に取り組んでいた。
「終わっ……終わった……?」
「いや、あと数日分ある」
いかにもやり遂げた、みたいな顔をする審神者の前に、残った書類の山を移動する。審神者はせめて、今日はキリがいいからもうおしまいと宣言したかったのだ。目論見は破れ、それはもう哀れな表情をした。
「薬研……、つらいよ……!」
審神者は同情を誘いながら、側の薬研へどさくさ紛れに抱きつこうとした。特に問題がなければ、薬研は稀に起こるこういったことを拒まない。だが今回は、審神者の怠慢で仕事が遅れ、時間もなかった。審神者が職務を全うしないときには、心を鬼にするよう他の刀剣からもよくよく頼まれていた。
ひらりとかわし、審神者に人差し指を立てて見せる。
「おっと待ちな、一回千円だ大将」
「えっ」
彼女の驚きは、主に後半だ。避けられたことは初めてでなくても、料金を提示されたのは初めてのことだった。日頃金欠だと頭を抱える審神者には効くだろうと考えてのことだ。金額は薬研の口から適当に出た。薬研がちらと確認すると、面食らった顔をしている。
「冗談だ。真面目にやってくれってことだよ。そういうのは終わったあとで──」
審神者はごそごそと財布を取り出し、紙幣を一枚抜く。この間およそ三秒。
「お願いします!!」
審神者は薬研の手に千円札を握りこませて、そのままがばりと抱きついた。
「…………」
薬研は呆気にとられて、されるがままになってしまう。この審神者は本当に、薬研に金を支払って抱きついたのだ。審神者は満足そうに、ほうとため息をつく。
「千円でこれ? 安い……」
薬研を思う存分抱きしめ、頭に頬ずりをして、たっぷり十秒静止。薬研の期待を悪い方向に裏切ったのである。
どう言い聞かせたものかと薬研が迷う間にも、審神者は勝手にそのルールを利用し続けた。薬研の怪訝な眼差しも見えていないのか、にこにこと千円札を渡しては抱きついてくる。
ふざけて審神者を真似、薬研に千円札を渡してきた鶴丸国永を、薬研は思い切り持ち上げて高い高いしてやった。驚いてのけぞり、天井に頭を打っていた。
審神者の有料ハグの売り上げは、三週間でいよいよ五万円の大台に乗った。手をつけず保管していた千円札の封筒が、洒落にならないかさばり方をしている。有料とまで言ったのに、一日一回で済んでいない。どれだけ堪え性がないのか。
薬研だって、こんなことをしたくてやっているわけではない。金銭を失ううちにどこかで懲りて、自分はなんということをしているのだと、反省して欲しかったのである。
薬研の思いは虚しく、翌週いっぱいで有料ハグは更に売り上げた。審神者に渡された千円札を片手で二つに折り、山をピンとはじく。審神者は薬研を思う存分堪能した後の高揚感で、ほくほくと笑顔を浮かべていた。
「大将わかってんのか。もう七万だ。あんた、これに今月七万も使ったんだぞ」
薬研が改めて、審神者へ正気になれと強く訴えかける。通常の暮らしから余分に七万捻出するのは、彼女にとって簡単なことではないはずだ。ずっと続けられることでは絶対にない。審神者はその数字に多少動揺を見せたものの、こくりと頷く。
「小さいお金じゃないけど……お得感は感じてます……」
「…………そうかい」
自省を促しても無駄らしい。そうかい、そっちがそう来るなら。この言葉はそういう意味であった。
その日の夜、薬研は審神者の私室を訪ねた。珍しいことだが、緊急時含め無いことでもない。
「大将、今いいか。人目を避けたいんだが」
「はい、どうぞ」
浴衣に半纏を羽織った薬研は、寝支度が済んだ様子である。審神者も布団へ湯たんぽを入れたところだった。寝室の襖を閉じれば、日中に刀剣男士を迎えているのと同じ状態になる。
薬研が袂から取り出したのは、厚くかさばった茶封筒だった。中身は、有料ハグの売り上げである。
「これを」
訳がわからないといった様子で首を傾げる審神者に、薬研は静かに息を吐く。
「刀剣男士との金銭のやり取りは、政府に報告義務があるだろ。主のあんたが、あんなことに金を使ったと本丸外へ漏らすわけにはいかない。はなから受け取る気はなかった」
審神者は「言われてみれば」と合点する。給与として渡す以外では、いちいち名目が必要だ。その他褒賞にしては多すぎる。「薬研を堂々と抱きしめることができる権利」という目先の欲にくらんだ審神者は、そんなことにも考えが及んでいなかった。
では、薬研は実際は無償で審神者の癒しに付き合っていてくれたのか。なんと優しい刀なんだろう。審神者が感激しながら両手で受け取ろうとすると、薬研は封筒をスッと引っ込めた。
「が、あんたはもっと反省すべきだ」
じろりと厳しい眼差しは、普段にくらべ冷ややかだ。甘やかさないと決めたときの、お説教用の眼差しである。反射的にきちっと正座をして薬研の顔色を窺う。薬研が黒手袋の指を優雅に封筒へ突っ込み、札束を取り出しぱらぱらとめくる。手早く、枚数を再確認しているようだ。
「今月に入ってからあんたが俺を買った金、しめて七万六千円。これであんたを買う」
「え」
札束から上げた視線は、先ほどと同じ有無を言わせないものだ。その教育係のような顔で、薬研が言った言葉を頭の中で繰り返す。あんたを買う。七万、六千円で。薬研は、たしかにそう言った。なぜ、買うって何を、どんな風に、と疑問があふれて、審神者は不安であやふやな表情になる。薬研はつんと澄ました顔で、数えた札を封筒に戻し、審神者の前に置く。困った顔をどう読み取ったのか、薬研は背をかがめて、口元だけでにっこり笑ってみせた。
「他人を金で買ってきた御仁が、まさか自分は売らないだなんて、言わないよな」
こういった場面では、薬研の小粋な口調がまるで極道者かのような圧を相手に与える。薬研は、怯えるべき相手なんかではない。非道なことはしないに決まっているが、言葉だけ聞けば、今日は大層物騒だった。薬研に限って、まさかしまいという妙な想像が審神者の頭にちらつく。しかし、今まで薬研に対価を払って「そういう種類のもの」を買っていたのは、他ならぬ審神者だ。
審神者がじりと身をひくと、薬研も心なしか責めるようにずいと顔を近づける。
「い、いやいや、問題はそこじゃなくてね、薬研には、そうやって私を買って得することなんか無くない!?」
「そりゃあんたが決めることじゃない」
薬研がすっぱり斬って捨てると、審神者の顔は青くなったのち真っ赤になった。少しずつのけぞっていた背中が、とんと寝室の襖に触れる。膝の上でぎゅっと握った手に、薬研がそっと黒の手を乗せる。そのまま続けて、審神者が誰にでも許すくらいの、軽いハグをした。密着せず、背中をぽんぽんと叩くようなものだが、審神者は過剰なほど意識して小さく固まっている。
「抱擁で換算すれば、七十六回分だな。それくらいのもんは、一晩で払ってもらおうか」
大体、粟田口はいちいち言葉選びが紛らわしく、いかがわしいのだ。審神者はその日、きわめて健全に、朝まで薬研を懐に入れる羽目になった。ついでのように交わされる抱擁と頬ずりで、彼女は自分が軽率に彼を買ったことを、かなり反省したという。
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