「未亡人」(にっかり青江)
都会ではたまにしか聞かなかったセミの声が、こちらではどこでも耳に入る。ついでに、セミファイナルもそこら中に転がっている。名称はセミ爆弾でもなんでもいい。足元でじっとしていて、横を通ると鳴いて暴れまわるアレだ。
私の目の前に、また一匹それが立ちふさがっている。観察するが、動いてはいない。大事をとって距離を取るなら、歩行者のマナーを破って灼熱の車道へおりることになる。
足元を見回して、小さな石をひとつ手に取った。道路のかけらみたいな小石だ。それをセミに向けて、中腰でアンダースローしてみる。セミの真横に石が跳ねると、ジジ、と大きな鳴き声が上がった。
「うわ、も、やだ!」
石の恨みか、セミは一度不時着してから私の方へ来た。半死のセミに近寄りたくないから石を投げたわけで、もちろん大の苦手だ。
咄嗟に数歩下がったところで、お尻が何かにぶつかる。人だ。
「わ! ごめんなさい!」
「セミが怖いの?」
後ろで見ていたのだろう声の主は、落ち着き払っている。振り向くと、見覚えのある長髪の男がにっこり笑っていた。今日も地獄のように暑いのに、よく髪を首筋に垂らしておけるなと思う。
「どうも、こんにちは……。セミ、苦手でして」
「仰向けのセミは、足が開いてるか閉じてるかで、生きてるかどうかわかるっていうの、知ってる?」
「え」
「閉じてるのは、もう死んでる」
彼が指さした方向、生垣の陰にはさっき飛んだのとは別のセミが転がっている。アリがそこへ行列を作っていて、明らかに死んでいる。足は、内側に縮こまっていた。……セミ爆弾鑑定人? もう一度彼の顔を見ると、首には汗がにじんでいる。一応、暑いらしい。
「またうちの前で立ち止まってるから、うちに興味があるのかと思った」
「すみません。よく通るんですけど、立ち止まってたのはセミのせいです」
「うん。挙動不審だったから、何してるのかなって、見てた」
「……セミのせいです……」
この間まで、たしかにこの家に興味があった。空き家らしいのに、ぼろぼろになりすぎない。人の気配がないのに、ゴミの一つもない。それも目の前の、人の気配の薄い住人と知り合ったことで、ずいぶん腑に落ちた。
かなり若そうに見えるけれど、はっきり言って年齢不詳だ。美人は大抵二十代の中頃に見える。肌だけで言えば十代にも見えるけれど、態度は落ち着きすぎているくらいだ。
「ときどきね、小学生がうちの庭を覗くんだ」
……身に覚えがある。
「声をかけたら、妖怪でも見たみたいに叫んで逃げていったよ」
「どんな風に、声かけたんですか?」
「うん? 草むしりしてたからね。立ちあがって、生垣越しに」
それは怖いでしょうね。
日が浅いので飲みこんだ言葉も聞こえていたみたいに、彼はゆっくり口を開く。
「幽霊屋敷の庭、見ていく? カルピスがあるよ」
にこりと目を弓なりに細めて、返事も待たずに身を翻して行く。……少し迷ったけれど、ご近所付き合いと言い聞かせて彼の後を追った。なんだかんだ、彼自身にも興味はあるのである。
郵便受けの上に手書きの表札が貼りつけてある。通りがけに、そのボールペン字は読めなかった。私は、彼の名前も知らない。
そこに座ってて、と日陰の縁側を指し示される。彼は古めかしい鍵で玄関扉を開け、薄暗い家屋へ入っていった。古い家のにおいが流れてくる。家の中までじろじろ見るのは憚られたので、おとなしく庭のほうへ回った。かさついた土が残った古いプランターがいくつか置いてある、普通の庭だった。
太っ腹なことに、彼はエアコンのついた部屋の障子を開けて、縁側の私に冷たい風を分けてくれた。誘い文句通り、次にはグラス二杯のカルピスを持ってきた。猛暑でグラスも汗をかいている。私も、ものすごく水分に飢えていた。
私にグラスを渡すと、彼がすぐ隣に腰掛けるのでどきりとする。のこのこついてきた私もアレだけど、距離がちょっと近すぎると思う。ただ、これで相手がおばあさんだったら、この辺りではそんなにおかしな話じゃない。知らない人に急に果物をもらったことだってある。
「暑いのに情熱的だよね。……セミ」
「そうですねぇ……。町に散らばらないで、山でまとめてお見合いしてくれればいいんですけど」
「はは」
姿は見えないけれど、彼の家の生垣にも、何匹もセミがひっついているんだろう。木のあるところには、セミも蚊もたくさんいるものだ。
今も日光がしっかり当たっている庭の隅に、ひまわりが植わっている。生垣を超えない背丈のものもあって、両腕を広げても抱えきれないくらい群生していた。
「あの向日葵は、僕の祖母が種をまいたみたい。昔は無かったよ」
「お祖母さんと暮らしてらっしゃるんですね」
その言葉には、微笑みが返ってくる。彼はたしか、先月この家に越してきたと言っていた。小学校時代は、この家に子供がいたようには思えなかった。きっとよそで育ったんだろう。
「僕も、何か苗を買ってこようと思うんだ。ゴーヤとか」
「カーテンですね」
もし本格的に庭いじりを始めたら、もうここを空き家だと思う人はいなくなるだろう。こうして間違いなく生者が住んでいるのに、家が死ぬはずはないのだ。
彼が首を傾げると、髪が垂れて片目をふさぐ。本当にとてもミステリアスで、バンドマンやら動画配信者感のある風貌だ。まばたきもゆっくり、睫毛を重たげに伏せる。
「君ってさ、何か……僕について、知ってることない?」
彼は何かと、私に対して意味深な間を取る。こうして直接尋ねられるよりずっと前から、彼は、なにか私の内心を窺うような目をしていた。とても初対面の相手に向けるようなものではない、期待のようなものだ。
私はあれから何度も、彼のことを思い出そうとした。太っていた子がすごく痩せたとか、髪質が真逆に変わったとか、思い当たらないだけで、私たちは知り合いなんじゃないか? たった一度デパートで話したとか、そういう男の子はいなかったか。結局、何も引っかからなかった。
「私、この間より前に、お話ししたことありますか? それか、有名な人とかだったりします?」
彼だって、今までの私の態度で、知り合いらしく振舞っていないのをわかっているはずだ。それでも、私から尋ねられると、何秒か食い下がるように黙っていた。彼は視線を庭に向けて、ため息みたいな微笑み方をする。
「別に顔が売れてるわけじゃないよ。会ったことは……君が無いっていうなら、ないかも」
「……いつですか? 聞いたら思い出すかもしれないです」
「忘れても仕方ないくらい昔かな? 前世とか」
「なんか、冗談に聞こえないですよ。雰囲気あるから……」
からかわれているのか、私が忘れているのか、それすらはっきりしない。「いいよ」とのんびり返されたけれど、「思い出せなくてもいいよ」という意味にしか聞こえなかった。
氷の入ったカルピスは美味しかった。背中にあたる冷風で、全身蒸されたみたいな熱も引いた。
ずっと謎めいていた家は、内側から見れば普通の家だった。家族が暮らしていた気配のする、懐かしい雰囲気があちこちに残っていた。
彼にお礼を言うついでに手書き表札を確認する。真新しい白い紙には「青江」と書かれていた。アオエ、で良いんだろうか。珍しい苗字だけど、すごく彼らしい。
縁側から降りて突っかけをはいた彼が、見送りに門までついてくる。私の後ろをちらりと見ると、骨張った手をそっと上げた。
「そのセミは、もう死んでるよ」
指さされた方に目を向けると、彼の家にお邪魔したときにはいなかったセミが転がっていた。その足は、閉じている。
「……ありがとうございます。って、わっ、嫌! 生きてた!」
さっき習ったばかりの判別法によれば、閉じていれば死んでいるはず。真横と言わず、少し距離を置いたにも関わらず、そのセミは短く鳴いて一度羽ばたいた。思わず門に掴まって大袈裟によけてしまう。太陽に熱されて、門はすごく熱かった。
彼は、自分の豆知識の例外にそこまで驚かず「あれ」と言うだけだ。
「生きてるっていうよりは、まだ死んでないだけって感じだね」
ほんの十センチほどしか移動しなかったセミを見下ろして、青江さんがぼそりと呟く。まさしく、虫の息なんだろう。
仕切りなおしたように顔をあげて、にこりと微笑む。そうしていると、彼は年下の好青年に見えた。
「また会ったら、もっといろいろ話したいな」
「わぁ……、ぜひ……」
こんなこと、直接、わざわざ言う? ええ、と驚く声をあげるのも失礼なんじゃないかと、どうにか答えたのが、この妙な返事だ。
会釈して背を向けたあと、胸の中で、さっきまでのことを反芻する。普通じゃない、なんでもなくない関係が、そこにあるような気がした。私がこの町にいるのは、この夏だけなのに。
私の目の前に、また一匹それが立ちふさがっている。観察するが、動いてはいない。大事をとって距離を取るなら、歩行者のマナーを破って灼熱の車道へおりることになる。
足元を見回して、小さな石をひとつ手に取った。道路のかけらみたいな小石だ。それをセミに向けて、中腰でアンダースローしてみる。セミの真横に石が跳ねると、ジジ、と大きな鳴き声が上がった。
「うわ、も、やだ!」
石の恨みか、セミは一度不時着してから私の方へ来た。半死のセミに近寄りたくないから石を投げたわけで、もちろん大の苦手だ。
咄嗟に数歩下がったところで、お尻が何かにぶつかる。人だ。
「わ! ごめんなさい!」
「セミが怖いの?」
後ろで見ていたのだろう声の主は、落ち着き払っている。振り向くと、見覚えのある長髪の男がにっこり笑っていた。今日も地獄のように暑いのに、よく髪を首筋に垂らしておけるなと思う。
「どうも、こんにちは……。セミ、苦手でして」
「仰向けのセミは、足が開いてるか閉じてるかで、生きてるかどうかわかるっていうの、知ってる?」
「え」
「閉じてるのは、もう死んでる」
彼が指さした方向、生垣の陰にはさっき飛んだのとは別のセミが転がっている。アリがそこへ行列を作っていて、明らかに死んでいる。足は、内側に縮こまっていた。……セミ爆弾鑑定人? もう一度彼の顔を見ると、首には汗がにじんでいる。一応、暑いらしい。
「またうちの前で立ち止まってるから、うちに興味があるのかと思った」
「すみません。よく通るんですけど、立ち止まってたのはセミのせいです」
「うん。挙動不審だったから、何してるのかなって、見てた」
「……セミのせいです……」
この間まで、たしかにこの家に興味があった。空き家らしいのに、ぼろぼろになりすぎない。人の気配がないのに、ゴミの一つもない。それも目の前の、人の気配の薄い住人と知り合ったことで、ずいぶん腑に落ちた。
かなり若そうに見えるけれど、はっきり言って年齢不詳だ。美人は大抵二十代の中頃に見える。肌だけで言えば十代にも見えるけれど、態度は落ち着きすぎているくらいだ。
「ときどきね、小学生がうちの庭を覗くんだ」
……身に覚えがある。
「声をかけたら、妖怪でも見たみたいに叫んで逃げていったよ」
「どんな風に、声かけたんですか?」
「うん? 草むしりしてたからね。立ちあがって、生垣越しに」
それは怖いでしょうね。
日が浅いので飲みこんだ言葉も聞こえていたみたいに、彼はゆっくり口を開く。
「幽霊屋敷の庭、見ていく? カルピスがあるよ」
にこりと目を弓なりに細めて、返事も待たずに身を翻して行く。……少し迷ったけれど、ご近所付き合いと言い聞かせて彼の後を追った。なんだかんだ、彼自身にも興味はあるのである。
郵便受けの上に手書きの表札が貼りつけてある。通りがけに、そのボールペン字は読めなかった。私は、彼の名前も知らない。
そこに座ってて、と日陰の縁側を指し示される。彼は古めかしい鍵で玄関扉を開け、薄暗い家屋へ入っていった。古い家のにおいが流れてくる。家の中までじろじろ見るのは憚られたので、おとなしく庭のほうへ回った。かさついた土が残った古いプランターがいくつか置いてある、普通の庭だった。
太っ腹なことに、彼はエアコンのついた部屋の障子を開けて、縁側の私に冷たい風を分けてくれた。誘い文句通り、次にはグラス二杯のカルピスを持ってきた。猛暑でグラスも汗をかいている。私も、ものすごく水分に飢えていた。
私にグラスを渡すと、彼がすぐ隣に腰掛けるのでどきりとする。のこのこついてきた私もアレだけど、距離がちょっと近すぎると思う。ただ、これで相手がおばあさんだったら、この辺りではそんなにおかしな話じゃない。知らない人に急に果物をもらったことだってある。
「暑いのに情熱的だよね。……セミ」
「そうですねぇ……。町に散らばらないで、山でまとめてお見合いしてくれればいいんですけど」
「はは」
姿は見えないけれど、彼の家の生垣にも、何匹もセミがひっついているんだろう。木のあるところには、セミも蚊もたくさんいるものだ。
今も日光がしっかり当たっている庭の隅に、ひまわりが植わっている。生垣を超えない背丈のものもあって、両腕を広げても抱えきれないくらい群生していた。
「あの向日葵は、僕の祖母が種をまいたみたい。昔は無かったよ」
「お祖母さんと暮らしてらっしゃるんですね」
その言葉には、微笑みが返ってくる。彼はたしか、先月この家に越してきたと言っていた。小学校時代は、この家に子供がいたようには思えなかった。きっとよそで育ったんだろう。
「僕も、何か苗を買ってこようと思うんだ。ゴーヤとか」
「カーテンですね」
もし本格的に庭いじりを始めたら、もうここを空き家だと思う人はいなくなるだろう。こうして間違いなく生者が住んでいるのに、家が死ぬはずはないのだ。
彼が首を傾げると、髪が垂れて片目をふさぐ。本当にとてもミステリアスで、バンドマンやら動画配信者感のある風貌だ。まばたきもゆっくり、睫毛を重たげに伏せる。
「君ってさ、何か……僕について、知ってることない?」
彼は何かと、私に対して意味深な間を取る。こうして直接尋ねられるよりずっと前から、彼は、なにか私の内心を窺うような目をしていた。とても初対面の相手に向けるようなものではない、期待のようなものだ。
私はあれから何度も、彼のことを思い出そうとした。太っていた子がすごく痩せたとか、髪質が真逆に変わったとか、思い当たらないだけで、私たちは知り合いなんじゃないか? たった一度デパートで話したとか、そういう男の子はいなかったか。結局、何も引っかからなかった。
「私、この間より前に、お話ししたことありますか? それか、有名な人とかだったりします?」
彼だって、今までの私の態度で、知り合いらしく振舞っていないのをわかっているはずだ。それでも、私から尋ねられると、何秒か食い下がるように黙っていた。彼は視線を庭に向けて、ため息みたいな微笑み方をする。
「別に顔が売れてるわけじゃないよ。会ったことは……君が無いっていうなら、ないかも」
「……いつですか? 聞いたら思い出すかもしれないです」
「忘れても仕方ないくらい昔かな? 前世とか」
「なんか、冗談に聞こえないですよ。雰囲気あるから……」
からかわれているのか、私が忘れているのか、それすらはっきりしない。「いいよ」とのんびり返されたけれど、「思い出せなくてもいいよ」という意味にしか聞こえなかった。
氷の入ったカルピスは美味しかった。背中にあたる冷風で、全身蒸されたみたいな熱も引いた。
ずっと謎めいていた家は、内側から見れば普通の家だった。家族が暮らしていた気配のする、懐かしい雰囲気があちこちに残っていた。
彼にお礼を言うついでに手書き表札を確認する。真新しい白い紙には「青江」と書かれていた。アオエ、で良いんだろうか。珍しい苗字だけど、すごく彼らしい。
縁側から降りて突っかけをはいた彼が、見送りに門までついてくる。私の後ろをちらりと見ると、骨張った手をそっと上げた。
「そのセミは、もう死んでるよ」
指さされた方に目を向けると、彼の家にお邪魔したときにはいなかったセミが転がっていた。その足は、閉じている。
「……ありがとうございます。って、わっ、嫌! 生きてた!」
さっき習ったばかりの判別法によれば、閉じていれば死んでいるはず。真横と言わず、少し距離を置いたにも関わらず、そのセミは短く鳴いて一度羽ばたいた。思わず門に掴まって大袈裟によけてしまう。太陽に熱されて、門はすごく熱かった。
彼は、自分の豆知識の例外にそこまで驚かず「あれ」と言うだけだ。
「生きてるっていうよりは、まだ死んでないだけって感じだね」
ほんの十センチほどしか移動しなかったセミを見下ろして、青江さんがぼそりと呟く。まさしく、虫の息なんだろう。
仕切りなおしたように顔をあげて、にこりと微笑む。そうしていると、彼は年下の好青年に見えた。
「また会ったら、もっといろいろ話したいな」
「わぁ……、ぜひ……」
こんなこと、直接、わざわざ言う? ええ、と驚く声をあげるのも失礼なんじゃないかと、どうにか答えたのが、この妙な返事だ。
会釈して背を向けたあと、胸の中で、さっきまでのことを反芻する。普通じゃない、なんでもなくない関係が、そこにあるような気がした。私がこの町にいるのは、この夏だけなのに。