やげぬいのいる本丸
最初から一貫して、薬研とやげぬいの関係は「微妙」であった。やげぬいには、初対面で審神者から引き剥がされ、管狐に突き出された恨みがわたに記憶されている。薬研もまた、自分をイメージした物が主人にする言動を切り離しきれず、どうも厳しくなってしまう。
やげぬいは、一丁前に薬研の言葉の端々を真似るのだが、同時に薬研が絶対に言わないようなことを言う。その代表が「ふところいれてくれ」だ。
比喩でなく、あの綿人形は、主人の服の胸元に入れてくれと言っているのである。上着を着るような季節であればまだいいが、夏ならTシャツの中に入りたがる。そんなことを、綿人形のモデルとされる薬研が見過ごすわけにはいかなかった。
やげぬいが勝手知ったる様子で審神者の胸によじ登り、襟ぐりに足をかけ「たいしょ、ふところ」などとのたまう。最早お願いの形すら取らずに図々しく振る舞うぬいぐるみへ、薬研はどすのきいた低音を浴びせ制止した。
「おい。何をしてる」
審神者までびくりと肩をすくめて、薬研へ許しを乞うような目を向けてくるが、それも視線で諌める。彼女が日頃甘やかしているから、このぬいぐるみはこんな態度をするのだ。
審神者が間に入ってはくれないとわかると、やげぬいは刺繍の目で薬研をちらりと見る。はたき落とされないように、審神者の胸元にしがみついてから反応を返す。
音として声が聞こえるわけではない。ただ出所は間違いなくあの丸いあたまで、たどたどしく、こちらへ言葉を送ってくるのだ。
『おれはたんとうだから ふところがいちばんいい』
薬研の眉がひくりと動く。その柔らかな布の体のどこが短刀だというのか。省略されすぎて、帯刀すらしていないというのに。大将にくっついていれば叩き落とせまいとする様子も、主人を盾にするようで、それでも自称薬研藤四郎かと言ってやりたくなる。
やげぬいをはたけば主人にも当たりかねない。だが、薬研はけして自分が不器用だとは思わなかった。やげぬいの大きな頭は隠しようもなく、動きの遅いそれを掴むなど造作もない。
審神者からやげぬいを引き剥がそうと、不意打ちで素早く手を伸ばす。薬研が掴んだ丸みは、やけに柔らかかった。
足元に、やげぬいが落ちてころりと転がっている。小さな手を離してしまったのだろう。目の前の審神者の驚いた顔が、みるみる赤くなっていく。自分が主人の乳房をわし掴んでいると理解すると、薬研の顔にも一気に血がのぼった。
やげぬいのせいで、とんでもないことをしてしまった。薬研はすぐさま主人へ謝罪して、元凶の綿人形を今度こそ捕まえた。じたばたと暴れるやげぬいのわっかを、壁へ刺したピンに引っ掛けてしまう。
「自我を持った薬研のぬいぐるみ」に対して、薬研本人がやり場のないもやもやを抱いていることは審神者も知っていた。ふたりが共存していくには、やげぬいの思うままだけを叶えるわけにはいかないだろう。「やげぬい、ごめんね」と言って下ろしてはくれない審神者に、やげぬいはひどく傷ついた。目元の綿を濡らして、ゆらゆらと揺れた。
『たいしょ……』
『なんでだ』
『おれがいちばんかわいいって いつもいってるのに』
『わっか のびちまう』
『あまいもん たべたい』
『たいしょ……ふところ……』
やげぬいの見張りがてら、側で読書をしていた薬研のこめかみが引きつる。まるで、まったく反省をしていない。
大将の服の中に入りたがるな、わがままを言うな、短刀だと言うなら主人を守る気持ちを持てと薬研は言ったのだ。
あらためて、薬研はやげぬいをじっと観察する。笑顔のかたちに刺繍された口はどんな時も微笑んでいて、俺はこんな顔か? と納得がいかない。頬にはピンクの紅みが刺繍されている。綿が詰まった寸胴の体は、むちむちしている。体より、頭の方が大きい。指などなく、手は丸く小さい。人の赤子より、ずっと小さく単純な存在に見える。
これの精神が幼いのは仕方ないと考えるべきなのだろうか。しかし、物に宿る魂に年齢など関係あるかと思う自分もいる。
薬研がその体をつつこうと手を伸ばす。やげぬいは、小さな手をばしっと薬研に当てた。
『あほ おに ばか おろせ』
「…………」
相変わらずの微笑み顔で、薬研に浴びせるのは罵声だ。
薬研は、このぬいぐるみを理解することをやめようと思った。今まで通り、審神者が可愛がる人形であって、自分は一切関係がないという態度を通すのだ。管狐だって、薬研の力は関与していないと言っていたのだから。
こいつは「やげぬい」という名前の、自分とは無関係の小妖怪なのだ。
薬研はそれから、決意に従いやげぬいと審神者を放っておいた。大抵審神者の膝の上か服の中でわっかを揺らす綿人形を、一瞥だけして無視をした。
最初は薬研の機嫌を窺うような表情をしていた審神者も、薬研はぬいぐるみの扱いとして納得したのだと安心する。意思を持つ前と同様に写真を撮ったり、甘えてくるのに応えて撫でたりくすぐったりした。本丸内のどこへもついてくるやげぬいを、刀剣男士たちも仲間として受け入れていた。
「薬研」
審神者の声に薬研が振り返ると、彼女の足元でぬいぐるみが、なんだどうしたたいしょう、とアピールをしている。
お前が「やげぬい」「ぬい」以外の呼ばれ方をしたことなど無いだろうが、まさかそのなりで薬研藤四郎だと言うつもりかと、本来薬研には珍しい苛立ちがわずかに湧く。
審神者にずいと一歩近寄れば、足元の小さなものなど視界にも入らない。声も頭から締め出して、審神者を見つめる。
「どうした、大将」
「私これから政府の施設へ出かけてくるんだけど、さすがにぬいを連れては行けないんだよね。ついてこないように、見ててくれないかな」
足元の気配が、ショックを受けている。まさか、天敵たる薬研にやげぬいを預けるなど、あまりにひどいたいしょだ。審神者としては、彼らの関係がもう少し良好であってほしいという希望もあっての指名だった。
一度自分とは無関係の存在であると断じた薬研にとって、どうしても嫌だと言うほどのことではない。意思疎通の難しい生き物を預かってくれと言われた心境だ。
「鳥かごにでも入れたらどうだ?」
「うちに鳥かごなんて無いから……虎ちゃんがじゃれてもいけないし」
ちょこまか動くこれは、さぞかしネコ科の本能を刺激するだろう。そして、一応主人の大事な持ち物なのだ。
「……わかった。俺の部屋で預かる」
薬研の足に、ふかふかしたものがぽんぽん当たる。やげぬいが頭突きをしているらしかった。
「俺はすることがある。その辺にいな」
障子をピシャリと閉められ、やげぬいは薬研の私室に閉じ込められた。ぬいなりに、むすっとした表情をしているつもりだが、それは上から見ればそう見えるだけに過ぎない。下から見れば満足気な笑顔でしかない。人物の絵を山折り谷折りにして角度を変える遊びと同じことだ。
やげぬいは、大きな薬研がいけすかない。自分と同じことをしても審神者にカッコいいと言われ、特別扱いされる。やげぬいは、近侍を任せてはもらえない。なのに、やげぬいがたいしょといちゃつくのを邪魔する陰険なやつなのだ。
やげぬいに見えない机の上で、薬研は紙を取り出したり、ごりごりと怪しい音を立てている。机の側で平積みされた本は、長い梯子のようだ。ぬいは丸い手を引っかけ、よじ登りはじめる。
薬研はマスクをして、粉末状の薬をいじっているようだった。集中しているのか、やげぬいが机の上に立ってもそちらを見ない。これは、日頃の仕返しをするチャンスである。
白い粉が乗った薬包紙の端をやげぬいが掴むのと、薬研が綿人形に気付くのは同時だった。サァ、と粉が卓上に落とされる。極悪ぬいの所業だ。
自我を持ったばかりの頃より素早くなったやげぬいも、レベル上限の薬研には敵わない。物を倒して逃げ回るのもむなしく、黒手袋へお縄になった。
審神者が手土産を持って薬研の部屋を訪ねると、やげぬいの姿が見当たらなかった。
「……ただいま戻りました。やげぬいは?」
「そこの壺の中だ。悪さをした」
「えっ!?」
薬研は黙々と、机の上を掃除している。ぬいによる実害があったのは明らかだ。しかし、壺のほうから聞こえるすすり泣きは、あまりにあわれだった。
審神者とは本来、魂の善し悪しを見定めることができる者だ。やげぬいはそのデザインのようにとてもシンプルで、無垢な魂をしている。
「薬研……やげぬいは、ぬいなんだよ?」
「はぁ?」
ぬいを愛でる立場の人間の言葉は、そうでない者にはしばしば通じない。薬研は眉間にしわをよせて審神者を見やったが、顔を向けた先、彼女の悲しそうな顔にぎょっとしてしまう。
そもそも、薬研のことを特別気に入っているから、審神者は彼をモデルにしたぬいぐるみを可愛がっていたのだ。薬研は彼女にそういう表情を向けられたことがほとんどなかった。それが、彼が自分と切り離した「やげぬい」という存在のために、薬研の心を貫いてくる。自分に非はないと、薬研は思う。しかし、審神者の顔を見ていると、それが言えない。
綿人形は審神者の胸元で抱えられ、わっかをしおしおと垂らしている。暗い壺の中がかなり怖かったようだ。
「……そいつを、どう扱ってほしいんだ。大将」
「……私もやげぬいには注意するから、泣かせないであげてほしい……」
薬研は深く、長いため息をつく。
審神者の中の優先順位は、もはや薬研とやげぬいで時によって逆転する。やげぬいは小さく弱く、審神者にとって守るべき対象だ。薬研がやげぬいに対して折れるよりほか、審神者の笑顔を守る方法がないのである。
薬研にとって、これは妙に抵抗のある決断だった。
「わかったよ」
薬研の返事に、審神者は顔を明るくする。胸元のやげぬいのわっかも、ぴくりと跳ねた。そのまま薬研のほうを振り返って、刺繍の瞳をじっと向ける。薬研にはわからないが、これが審神者にとって、とても可愛いらしい。
やげぬいは、珍しく審神者の手から降りて薬研の元へとことこ歩いてくる。足までたどり着くと、靴下をくいと引っ張った。
『たいしょがいうなら かんべんしてやる』
薬研には、これの可愛さが本当にわからない。
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