やげぬいのいる本丸
審神者が「ぬい」と呼ばれる人形を可愛がりだしたのは、一年前のことだった。綿の詰まった布製の人形全般、ぬいぐるみを指して「ぬい」と呼ぶ者たちがいる。審神者が愛でているのは、この本丸にいる刀剣男士・薬研藤四郎をかたどったもの……通称「やげぬい」だ。
他の刀剣男士をモデルにしたものも存在するが、どれも丸い頭に小さな体で、特徴はかなり省略されている。髪色や服の配色などで、一応本人も自分がモデルだと認めざるをえない。なぜ人の身を与えられた上で、更にデフォルメされてぬいぐるみを作られねばならないのか、彼らにはわからない。販売元は政府である。資金繰りがしたいのか、ただの道楽なのかも不明だ。
審神者が薬研のぬいぐるみを買い、特別可愛がる理由はわざわざ語られていない。しかし彼女が薬研を気に入っているということは、本丸の誰もが知るところだ。当然薬研も、その点に触れないが自覚はある。近侍はほぼ薬研であるし、審神者はやげぬい以外にも彼をイメージした持ち物を使っている。彼女の部屋に置かれる、やけに可愛くされた自分の人形を見ては、むず痒いような感覚を抱いていた。
薬研たちの主人は、審神者である。物に宿る心を奮起するとされる彼女の能力は、ある日そのぬいぐるみへも作用した。
机の上へ転がっていたはずのやげぬいが、審神者の布団で隣におさまっていた。目が覚めた審神者は驚いて、寝ている間に一体誰がと首を傾げる。いつもの場所へ戻そうとすると、短い手が彼女にしがみついたのだ。
『たいしょ』
審神者は驚きで悲鳴をあげたが、叫んでいるうちにその声は歓喜へと変わった。本丸中から彼女の悲鳴を聞いた刀剣が駆けつけた。到着した部屋では、主人が狂ったように「かわいい」と繰り返している。その場にいた薬研は、彼女が自分のぬいぐるみを両手で持って頬ずりする様を見て、さすがに声をかけた。
「……大将」
「あっ、や、薬研……」
審神者は本物の薬研に気がつくと、頬ずりをぴたりとやめ、顔を赤らめた。やげぬいを普段こんな風に扱っていたことはない。審神者は、彼に特別好意を抱いているとはっきり言ったことなど一度もないのだ。
薬研にどう申し開きをしようかと必死に考える審神者の手の中で、やげぬいが身をよじる。自分から審神者の顔へ近づくと、丸い頭を彼女の頬にこすりつける。
『たいしょ』
その様子と「声」を、刀剣男士たちは、はっきりと見聞きした。あたりは騒然となる。
これが、やげぬいがこの本丸で自我を持った朝のことだった。
薬研が強く進言して、やげぬいは管狐のこんのすけに即刻突き出された。しかし政府へ報告らしい素振りも見せず、大した問題ではないと言われてしまった。小さな魂が宿っているが、あまりにちいさく害はない。薬研の関与も感じられない。審神者がその綿人形へかけた情が招いた命であるということ。しまいには「愛玩動物とでも思えば良いではないですか」と言って去ってしまった。
解放されたやげぬいは、審神者の元へのろのろと走っていく。足がとても短いのだ。犬の尾のように頭に植わったゴムの輪を振り、審神者の膝頭へ抱きつく。審神者は口元を覆って「これからもうちの子だよ……!」と感極まっていた。その場で、薬研だけがひどく複雑な思いだった。
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