会社で限界感じた兼業審神者が薬研に泣きつく話
兼業審神者。審神者側のメリット、生まれ育った場所や人と縁を繋いでいられること。周りに審神者と知られずに済むこと。多少のお金。デメリット、単純に仕事へ審神者業が上乗せされること。現世に未練を残したのは私のはずなのに、それがどんどん重荷に思えてくること。
周りからは、定時で上がれる事務職っていいよねと言われる。嫌味とかじゃなく、その人もそうなんだ。夏だったら日が沈む前に会社を出られて、同じくらいに仕事を終えた友達に会ったり、帰ってごはんを作ったりできる。私だって、本丸に帰れば身に余るほどの愛情を向けてもらえるし、それどころか家事は当番制で彼らがやってくれている。
その点については、不満はない。ただ、仕事は退勤時間だけで語れるものではない。
新人に辛く当たり続ける隣の部署からの怒鳴り声、当て付ける大きなため息。会議で社長から聞かされる他の社員の失敗と、こき下ろし。いつか自分が同じようにされるかもしれないという恐怖。その場に晒されながら、家族や友達を捨てる勇気はなくて、働き続けていた。
専業の審神者になれば、仕事以外で現世に行くことはない。そもそも体があちらに馴染みすぎて、何日も現世に滞在していられなくなる。だから、家族の冠婚葬祭くらいでないと許可も降りにくい。一度兼業審神者を諦めてしまえば、もう元には戻れないのだ。
会社を出たら、まっすぐ最寄の時の政府管理施設へ向かう。心もち早足で、逃げるみたいに。会えるはずの友達へ連絡も取らず、逃げ帰る。
本丸では、優しさとたくさんの仕事が待っている。負の感情や支配されるような気持ちのない穏やかな場所で、みんな私に待たされている。私がここでの仕事に全力を注いだなら、他の本丸の刀のように戦果をあげられるはずだ。皆もきっと、それはわかっている。それでも、労ってくれるのだ。
優しいこの人たちに我慢をさせてまで、私は現世で何をしているんだろう。しがみつく意味、あるのかな。そんなことを考えながら、忙しい行き来を繰り返していた。
どうしよう、もう、辞めちゃいたい。頑張ってきた今までの時間と、人間関係への未練が足を引く。会社の人みんながひどい人間というわけじゃない。ひどいことをする人も、優しい日はある。他の会社を探すといっても、次の会社が大丈夫な保障もない。審神者をしながら転職して、新しい仕事を見つけて、覚えて、そこでも上手くやれるよう頑張って……。先のことを考えると、すごく高い山をこれから越えていかないといけない気持ちになった。
本丸に着いて、出迎えてくれた子達と話すのも早々に切り上げ、すぐに自分の部屋へ向かった。早く頭をこちらに切り替えたいとは思うのに、今日はそれがうまくいかない。のろのろと着替えて、身支度は終わった。なのに、意味もなくその場に屈みこむ。胸の辺りがもやもやとして、忘れたくても忘れられなかった。
静かな足音が近づいて、私の部屋の前で止まる。このあたりに来るのは、部隊長と近侍だけだ。
「……薬研」
「よぉ、おかえり」
一応振り向いて確認をした。長い間近侍を任せている、薬研藤四郎だ。本丸では、特に私といるときには、穏やかなひと。不思議と癒されるから、彼をずっと近侍にしている。
出迎えてくれた子ですら、何か引っかかったような顔をして「おつかれさま」と言ってくれた。きっと今の私は、ひどい顔をしているのだろう。薬研も、苦く笑った。
「……疲れた顔してるな。仕事の前に、茶でもいれようか」
「飲む……」
「俺の部屋でいいか」
「行きます」
恥ずかしながら、薬研に癒しを求めている自覚はある。彼も、そうしてくれる。彼の部屋に上がりこんで、無言で温かいお茶を飲んで帰るというのも、何度やったかわからない。愚痴を言えば、そのうち後悔で余計に辛くなる性分だった。だからといって理由も言わない私を、そのままにしていてくれるのが、薬研だった。
薬研が珍しく、紅茶をいれた。注ぐ先は、湯呑みだったけれど。私がお茶であれば紅茶派なのを知っていて、こちらにしてくれたのかもしれない。いい香りがして、薬研の部屋をぼうっと眺める。ここなら良いと安心してしまったのか、今になって涙があふれて、腿に落ちた。
薬研がその様子を、見つめているのがわかる。見ていないふりをすることはない。ただ、一度湯呑みに口をつけて、喉を潤した。
「あんたはいつも、何も言わない。それでも俺の所に来るから、それでよしとしたんだが」
お茶の表面を回して、眺めていた瞳が私のほうを見る。
「今日は、話してくれるか」
何をどこまで話すかも、頭の中でまとまっていない。それでも、これを誰にも言わないことはないだろうと、感じていた。
「私、現世の仕事、辞めるかもしれない。今のところはもちろん、次も、今は探せる気がしない……」
「そうか」
文字にすれば簡素でも、薬研の声は、すべて許して受け入れるみたいに聞こえる。他人事で無責任な「もっと頑張れ」は懲り懲りだ。ひとが私に言わなくても、私の中の社会の目が、私に何度も言ってきた。それをようやく振り切って口にしたことだ、否定はあまりされたくない。
黙って続きを待つ薬研の姿が、視界の端にうつる。少しうつむいて、彼の顔が見えない状態でも、緊張で胸がどきどきした。
「先週、会社の社長に、……身体を、触られて」
「どこを」
「…………胸を後ろから、がしっと。三回」
ついに、本丸の私の味方に、家族のような人たちに、これを話してしまった。
上司には、すぐに相談している。それでも相手が社長、しかも会社は彼に逆らえる雰囲気ではない。その相談は、今日まで解決に至らなかった。
薬研のほうを見られない。どういう表情で聞いているのか興味はあったけれど、私の中には、なぜかいけないことをしているような感覚があった。そのせいか、おどける場面ではないのに、語り口だけどうも軽くなってしまう。
「その前から、冗談っぽくただいま~、なんて、抱きつかれてたんだけど」
「それも初耳だな」
返事が早い。声色は、少なくとも普段のような笑みの混じるものではない。今日あったことを言ってしまうか、一瞬また迷いが生まれた。だけど、で言葉を区切った手前、次の言葉が焦りで続く。
「今日、本当に、許せないことがあって……」
「何をされた」
言いよどむ。こんなことをされたと、彼に言いたいわけじゃない。でも、薬研の時代の感覚でいえば、人じゃない薬研にしてみれば、たいしたことではないかもしれない。もっと深刻なことだと誤解を与えないために、ここは答えたほうがいい。
「こう、口に、ぶちゅっと……されまして」
抱きつかれた話以外、私がされたことを教えると薬研は黙り込む。どちらも、そのとき薬研の顔を見ていないので、反応は知らない。
「すぐに洗ったけど、今日ずっと、辞めることについて考えてた」
辞めるとしても、次の仕事は当然まだ見つかってない。次が決まってないのに、兼業審神者として通るんだろうか。あんなことされて、まだ出勤しなくちゃいけないんだろうか。今日の仕事が単純なものだったから、ずっとそういうことを考えていた。
彼ら刀剣男士が主人と呼ぶ相手が、外でこんな扱いを受けているなんて、いい気持ちではないだろう。それに、私がそんなことをされていて、今まで出勤して、今日も普通に息をして、歩いて帰ってきたことで、誰かを幻滅させるんじゃないかという気持ちがあった。ショックでその場で息が止まるほど高潔ではない。苦笑いで部屋を去り給湯室に駆け込むくらいには、余裕があった。それも、自己嫌悪に繋がった。
「……さすがに、薬研にこんなこと言えないって思ってたのに、結局言っちゃった、ごめんなさい」
「……謝らないでくれ」
情けなくて、また泣けてくる。会社に入ってから、夜は泣いてばかりだ。謝るなという声は悲しげで、苦しくなる。
「あっちには、あんたの大事な人間がいるんだ。捨ててくれとは言えない。でも」
「そんな目に遭うあんたを送り出すのは、歯がゆいな」
たっぷり間をあけて、薬研が続けた。もどかしいような、落ち着かないような感覚になる。どこかを掴まないと、もやもやする喉を掻いてしまいそうだ。
「握っても、いいですか……?」
「どこでも」
唐突なお願いにも、薬研は動じずに応えてくれた。白衣を着た薬研の腕と、手袋の黒へ手を添える。徐々に力をこめると、その下には確かに彼の肉体があって、そのことにやけに安心した。
「辞めたい……辞めちゃいたい」
「そうしてくれ」
「……いいんですか」
「是非そうしてほしいな」
今の会社はとにかく辞めるにしても、専業審神者になるかとか、先のことはまだわからない。細かいことなんて考えていない。私がいつか現世を捨てる日が来たとき、それが悲しいものでないことを、ただ願った。
声色に優しさを取り戻した薬研の腕を、もう一度握る。彼は癒しだ。滅多に触らないけれど、これだけでずいぶん楽になる。
「あの、今日この一回だけでいいので、こう、抱きついても、いいですか」
私と薬研は、特別な関係なんかではない。私のほうは、特別な気持ちがないわけじゃないけど、けして言葉にはしない。頼んでも許されるのかぎりぎりのお願いだと思うけれど、今は、抑えがきかなかった。
私に掴まれていないほうの薬研の腕が、私の背にまわる。力の緩んだ手からすりぬけて、もう片方の腕も背をまわって、私を引き寄せる。そっと薬研の脇腹あたりを掴むと、薬研も腕に力を込めた。
周りからは、定時で上がれる事務職っていいよねと言われる。嫌味とかじゃなく、その人もそうなんだ。夏だったら日が沈む前に会社を出られて、同じくらいに仕事を終えた友達に会ったり、帰ってごはんを作ったりできる。私だって、本丸に帰れば身に余るほどの愛情を向けてもらえるし、それどころか家事は当番制で彼らがやってくれている。
その点については、不満はない。ただ、仕事は退勤時間だけで語れるものではない。
新人に辛く当たり続ける隣の部署からの怒鳴り声、当て付ける大きなため息。会議で社長から聞かされる他の社員の失敗と、こき下ろし。いつか自分が同じようにされるかもしれないという恐怖。その場に晒されながら、家族や友達を捨てる勇気はなくて、働き続けていた。
専業の審神者になれば、仕事以外で現世に行くことはない。そもそも体があちらに馴染みすぎて、何日も現世に滞在していられなくなる。だから、家族の冠婚葬祭くらいでないと許可も降りにくい。一度兼業審神者を諦めてしまえば、もう元には戻れないのだ。
会社を出たら、まっすぐ最寄の時の政府管理施設へ向かう。心もち早足で、逃げるみたいに。会えるはずの友達へ連絡も取らず、逃げ帰る。
本丸では、優しさとたくさんの仕事が待っている。負の感情や支配されるような気持ちのない穏やかな場所で、みんな私に待たされている。私がここでの仕事に全力を注いだなら、他の本丸の刀のように戦果をあげられるはずだ。皆もきっと、それはわかっている。それでも、労ってくれるのだ。
優しいこの人たちに我慢をさせてまで、私は現世で何をしているんだろう。しがみつく意味、あるのかな。そんなことを考えながら、忙しい行き来を繰り返していた。
どうしよう、もう、辞めちゃいたい。頑張ってきた今までの時間と、人間関係への未練が足を引く。会社の人みんながひどい人間というわけじゃない。ひどいことをする人も、優しい日はある。他の会社を探すといっても、次の会社が大丈夫な保障もない。審神者をしながら転職して、新しい仕事を見つけて、覚えて、そこでも上手くやれるよう頑張って……。先のことを考えると、すごく高い山をこれから越えていかないといけない気持ちになった。
本丸に着いて、出迎えてくれた子達と話すのも早々に切り上げ、すぐに自分の部屋へ向かった。早く頭をこちらに切り替えたいとは思うのに、今日はそれがうまくいかない。のろのろと着替えて、身支度は終わった。なのに、意味もなくその場に屈みこむ。胸の辺りがもやもやとして、忘れたくても忘れられなかった。
静かな足音が近づいて、私の部屋の前で止まる。このあたりに来るのは、部隊長と近侍だけだ。
「……薬研」
「よぉ、おかえり」
一応振り向いて確認をした。長い間近侍を任せている、薬研藤四郎だ。本丸では、特に私といるときには、穏やかなひと。不思議と癒されるから、彼をずっと近侍にしている。
出迎えてくれた子ですら、何か引っかかったような顔をして「おつかれさま」と言ってくれた。きっと今の私は、ひどい顔をしているのだろう。薬研も、苦く笑った。
「……疲れた顔してるな。仕事の前に、茶でもいれようか」
「飲む……」
「俺の部屋でいいか」
「行きます」
恥ずかしながら、薬研に癒しを求めている自覚はある。彼も、そうしてくれる。彼の部屋に上がりこんで、無言で温かいお茶を飲んで帰るというのも、何度やったかわからない。愚痴を言えば、そのうち後悔で余計に辛くなる性分だった。だからといって理由も言わない私を、そのままにしていてくれるのが、薬研だった。
薬研が珍しく、紅茶をいれた。注ぐ先は、湯呑みだったけれど。私がお茶であれば紅茶派なのを知っていて、こちらにしてくれたのかもしれない。いい香りがして、薬研の部屋をぼうっと眺める。ここなら良いと安心してしまったのか、今になって涙があふれて、腿に落ちた。
薬研がその様子を、見つめているのがわかる。見ていないふりをすることはない。ただ、一度湯呑みに口をつけて、喉を潤した。
「あんたはいつも、何も言わない。それでも俺の所に来るから、それでよしとしたんだが」
お茶の表面を回して、眺めていた瞳が私のほうを見る。
「今日は、話してくれるか」
何をどこまで話すかも、頭の中でまとまっていない。それでも、これを誰にも言わないことはないだろうと、感じていた。
「私、現世の仕事、辞めるかもしれない。今のところはもちろん、次も、今は探せる気がしない……」
「そうか」
文字にすれば簡素でも、薬研の声は、すべて許して受け入れるみたいに聞こえる。他人事で無責任な「もっと頑張れ」は懲り懲りだ。ひとが私に言わなくても、私の中の社会の目が、私に何度も言ってきた。それをようやく振り切って口にしたことだ、否定はあまりされたくない。
黙って続きを待つ薬研の姿が、視界の端にうつる。少しうつむいて、彼の顔が見えない状態でも、緊張で胸がどきどきした。
「先週、会社の社長に、……身体を、触られて」
「どこを」
「…………胸を後ろから、がしっと。三回」
ついに、本丸の私の味方に、家族のような人たちに、これを話してしまった。
上司には、すぐに相談している。それでも相手が社長、しかも会社は彼に逆らえる雰囲気ではない。その相談は、今日まで解決に至らなかった。
薬研のほうを見られない。どういう表情で聞いているのか興味はあったけれど、私の中には、なぜかいけないことをしているような感覚があった。そのせいか、おどける場面ではないのに、語り口だけどうも軽くなってしまう。
「その前から、冗談っぽくただいま~、なんて、抱きつかれてたんだけど」
「それも初耳だな」
返事が早い。声色は、少なくとも普段のような笑みの混じるものではない。今日あったことを言ってしまうか、一瞬また迷いが生まれた。だけど、で言葉を区切った手前、次の言葉が焦りで続く。
「今日、本当に、許せないことがあって……」
「何をされた」
言いよどむ。こんなことをされたと、彼に言いたいわけじゃない。でも、薬研の時代の感覚でいえば、人じゃない薬研にしてみれば、たいしたことではないかもしれない。もっと深刻なことだと誤解を与えないために、ここは答えたほうがいい。
「こう、口に、ぶちゅっと……されまして」
抱きつかれた話以外、私がされたことを教えると薬研は黙り込む。どちらも、そのとき薬研の顔を見ていないので、反応は知らない。
「すぐに洗ったけど、今日ずっと、辞めることについて考えてた」
辞めるとしても、次の仕事は当然まだ見つかってない。次が決まってないのに、兼業審神者として通るんだろうか。あんなことされて、まだ出勤しなくちゃいけないんだろうか。今日の仕事が単純なものだったから、ずっとそういうことを考えていた。
彼ら刀剣男士が主人と呼ぶ相手が、外でこんな扱いを受けているなんて、いい気持ちではないだろう。それに、私がそんなことをされていて、今まで出勤して、今日も普通に息をして、歩いて帰ってきたことで、誰かを幻滅させるんじゃないかという気持ちがあった。ショックでその場で息が止まるほど高潔ではない。苦笑いで部屋を去り給湯室に駆け込むくらいには、余裕があった。それも、自己嫌悪に繋がった。
「……さすがに、薬研にこんなこと言えないって思ってたのに、結局言っちゃった、ごめんなさい」
「……謝らないでくれ」
情けなくて、また泣けてくる。会社に入ってから、夜は泣いてばかりだ。謝るなという声は悲しげで、苦しくなる。
「あっちには、あんたの大事な人間がいるんだ。捨ててくれとは言えない。でも」
「そんな目に遭うあんたを送り出すのは、歯がゆいな」
たっぷり間をあけて、薬研が続けた。もどかしいような、落ち着かないような感覚になる。どこかを掴まないと、もやもやする喉を掻いてしまいそうだ。
「握っても、いいですか……?」
「どこでも」
唐突なお願いにも、薬研は動じずに応えてくれた。白衣を着た薬研の腕と、手袋の黒へ手を添える。徐々に力をこめると、その下には確かに彼の肉体があって、そのことにやけに安心した。
「辞めたい……辞めちゃいたい」
「そうしてくれ」
「……いいんですか」
「是非そうしてほしいな」
今の会社はとにかく辞めるにしても、専業審神者になるかとか、先のことはまだわからない。細かいことなんて考えていない。私がいつか現世を捨てる日が来たとき、それが悲しいものでないことを、ただ願った。
声色に優しさを取り戻した薬研の腕を、もう一度握る。彼は癒しだ。滅多に触らないけれど、これだけでずいぶん楽になる。
「あの、今日この一回だけでいいので、こう、抱きついても、いいですか」
私と薬研は、特別な関係なんかではない。私のほうは、特別な気持ちがないわけじゃないけど、けして言葉にはしない。頼んでも許されるのかぎりぎりのお願いだと思うけれど、今は、抑えがきかなかった。
私に掴まれていないほうの薬研の腕が、私の背にまわる。力の緩んだ手からすりぬけて、もう片方の腕も背をまわって、私を引き寄せる。そっと薬研の脇腹あたりを掴むと、薬研も腕に力を込めた。
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