声なき声
雨の景趣に変えたのは、乱が可愛いレインコートを買ったのだと言っていたからだった。兄弟刀を愛でる気質のある彼ら刀剣男士は、同じ刀派の短刀に甘い。左文字も小夜に長靴を買ってあげたそうだ。たまには雨もいいだろうと、この三日ほど本丸では梅雨気分を味わっていた。屋根を細やかな雨が叩く音、雫がまとまって滴る音を聞きながら、今日も近侍の薬研と執務をしていた。
昨日の、今日で。本来日課として三回は演練に参加しろだとか色々と仕事があるところ、昨日から演練は免除されている。あの後、暴行未遂の被害者として色々と聴取があり、薬研同伴で延々と筆談をする羽目になった。
例の男の結末については、あまりすっきりする話ではない。正当防衛にしてもちょっと痛めつけすぎたこと、それをしたのが国の歴史を守る名目で税金も費やされているカミサマであったこと、あの演練会場が厳密には現世でではなく、政府の管理下の空間で、採用した人間に関しても責任の所在が散らかっていること……。私の怪我の治療費請求と、衣服等の弁償、そして男に犯罪歴をつけて現世に返す。これで事態は収束させた。別途慰謝料などをもらうのは、早く本丸に帰りたかったし、男の怪我についてきちんと話し合って薬研に何かあったらと思うと気がひけたので、断った。
怖い思いをした。笛が吹けなかったら、きっと私はもっと傷つけられていただろう。声が出なくなってから、初めてその恐ろしさを全身で味わった。紐を切られた鈴も笛も、真新しい紐を通して手元に戻ってきた。でも、それはもう私の気持ちを安らげてはくれなかった。
政府の責任も多少ある事件の被害者なので、完治するまでの演練不参加許可以外にも、日課が半分免除されている。心身の健康は霊力に影響するからだろう。全治二週間と言われた、その期間はちょっと休んでもいいらしい。薬研は朝から分厚い本を持ち込んで、空き時間に読書をする気満々だった。まさに今、私たちは遠征部隊が戻るまですべきことがない、暇な時間を過ごしている。
横目に窺うと、今日の薬研の読書も医学書ではなかった。ちょっと趣味の悪い配色のハードカバー本で「黒魔術の基礎知識」などと書いてある。この間はファンタジー要素のありそうな物語集を、楽しんでいるふうでもなく、ぱらぱらと読んでいた。一応全て目を通す、くらいのテンポで。魔術、呪術、呪い。いよいよそのあたりに、私の声を封じる原因を探し始めたんだろう。この読書も結局、私のためだ。薬研本人が関心を持ちそうな分野ではない。
繊細そうな指先がページをめくり、手袋とシャツの間から覗く白くて細い手首を見る。濃灰の細身のシャツに包まれた両腕を意識して、不意に昨日、抱きしめられて押し返してしまったことを思い出す。……うやむやになっていた節があるけれど、あれは我ながらあんまりだ。
紙を一枚手にとって、薬研に向けて言葉を書く。書き終えてから机を指先でコツコツ叩いた。静かな執務室だけで使う、近侍への注意の引き方だ。
『昨日は、押しちゃってごめんなさい。気が動転してたのかも 助けてくれてありがとう』
眼鏡のふちに軽く触れながら、薬研が私の文字を黙読する。とっくに目を通し終えたはずのそれを二度三度読むような時間をあけてから、彼は視線を紙に向けたまま返事をした。
「むしろ、遅かったって責めてもいいくらいだ」
演習直後だったのに、どこにいるかもわからない私を探して、皆走り回ってくれた。結果として痣程度で済んだのだから、遅かったとは全然思わない。首を横に振ると、薬研がちらりと私の表情を見た。彼は、少し苦味を含んだ微笑みを浮かべる。
「あちこち痣になっちまったな。すぐ消してやれないのが、悔しい」
私は刀剣男士とは違うのだから、それは仕方がないことだ。でも、痣ならそのうちきれいに消える。少し肌を触られた不快感はまだ生々しく残っているけれど、押さえつけられた、撫でられたがせいぜいで、性被害としてはかなりマシな部類だ。下着も脱がされていない。薬研は、私の身に関することを、何でも気負いすぎる。他の刀ももちろん心配したり、悔しがったりしてくれているが、薬研のそれは「近侍だから」と強まっているように思う。
私の心に一瞬よぎった感情へ、すぐさま嫌悪感がわいた。これこそが罰に値するものではないかと、私は昨日の控え室からずっと考えていた。もう、先延ばしにしてはいけない。
その晩、決意の鈍らないうちに、筆談用の紙へ丁寧に文字をつづった。
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翌日も、日課が半減した本丸の朝はのんびりとしていた。遠征のノルマも減っているので、皆で揃って朝食がとれた。誰かが「雨、もう嫌になってきましたよ……」とこぼしたのを聞いて、今日は別の景趣に変えよう、と心の隅に置いた。
執務室に落ち着いた歩調で向かって、薬研よりも先に着いた。目を閉じて、雨の音に耳を澄ませる。忍ばせているわけでもない足音が近づいてきて、障子の前で足を止めた。薬研だ。
「おはよう、大将。たいした仕事もないのに、早いな」
おはよう、薬研。挨拶を返すつもりで彼の顔を見て鈴を鳴らす。彼の表情は、訝しげに変わった。こんな時まで、察しがいい。
「どうかしたのか」
部屋へ入って、障子を閉め、私の隣へ腰を下ろす。何か腹にあるのだろうと確信している様子で、私をじっと見る視線を感じる。私は、昨夜用意しておいた紙を、二つ折りの状態で薬研に手渡した。
『薬研、近侍は今日で辞めてください。出陣と侍医、ふたつの職務に専念してください』
『責任感の強い薬研に任せすぎたと思う。今までごめんなさい』
遅すぎた決断かもしれない。でも、これまで「原因は誰にもわからないから、今の状況は誰のせいでもない」「皆が薬研を近侍にしろと言うから」それを言い訳に、薬研を一年も縛り付けてしまった。私は、彼から離れるべきだ。
薬研は至極冷静な表情で「大将」と私を呼ぶ。こっちを見ろとしか捉えようのない声色に、気は進まないが顔を向けた。
「最初にも言ったが、俺にとってあんたの傍にいることは、負担なんかじゃない。大将の声を取り戻したいのも、俺が個人的に、したいようにやってる」
胸がざわざわと騒いで、苛立ちすら感じてきた。ペンを手にとって、手近な紙に手早く書き付ける。
『私が、薬研とはなれたいって言ったら、きいてくれる?』
書いている私も苦しい。でも、ここまで言えば、薬研だって食い下がらないはずだ。紙だけを渡して、薬研がそれを読む姿を一目だけ見て、机の方を向く。今日までは一緒に仕事をするんだから、気まずくなんてなりたくはなかった。わかったと、いつもの落ち着いた声で言ってほしい。
「──それだ」
薬研が口にした言葉は、的外れなようにも思えた。それだって、なにが。思わず彼の方へ振り返ると、淡いのに力強い眼差しに縫いとめられてしまった。いつも優しげに伏せているだけで、実際には印象的な大きな瞳をしている。まっすぐ見据えられると、そらす方が難しい。
「大将、逃げるのはもう、やめにしないか」
眉根を寄せて、薬研に首を傾げてみせる。私が意を決して伝えたことに、繋がっている言葉だとは思えない。説明がほしい。薬研は焦っているわけでも、怒っているようにも見えない。ただ彼の言葉に似て、彼の向こうの障子を開けて部屋を出ることは許されないような、そういう空気は感じた。
「今までごめんなさい、とあんたは書いたが、本当に、俺のために決めたことか。……何から逃げてるか、わかるか大将」
さっきから、逃げる逃げると聞こえが悪いことを言う。私は──薬研を逃がしてあげるのだと、そういうつもりで、決心したというのに。
「俺は、これ以上あんたと離れる気はない」
すっぱりと言い切った薬研の言葉は、私を理屈でねじ伏せるものではなかった。ただの決意、気持ちの形をして、私の身動きを取れなくさせる。唖然としてしている私を見つめ、薬研は一人話を続ける。
私に声はない。彼が語り続ければ、それを聞くだけだ。
「俺は大将に対して、後悔してることがある」
促すでもなくじっとしている私に、薬研は予想もつかないことを告白した。
「大将の声。出なくなったのは、俺のせいなんじゃないかと、思う」
呪い。その言葉がよぎると同時に、一瞬薬研に裏切りを受けたんじゃないかと思ってしまった私は、どんな顔をしていただろう。鼓動が早くなる。悲しげな表情に見える薬研が続ける言葉は、怪しい雲行きになっていった。
「こんなことになる前に、俺が何か動いてたなら、防げたはずなんだ。ただ、大将の懐の、心の一番近くにあることを甘受して……なにひとつ、形にしなかった」
何を言うつもりだ。いま、薬研はなんと言ったか。私の心の一番近くにいたと、言った?
無意識に身構えながらも、凍りついたように動けないでいる私へ、最も避けていたものを薬研が突きつける。
「大将、今もそうだろう。人の身を持った刀の俺を、男として」
──言わないでほしい。その一心で、私は思わず荒々しく紙束で机を叩いた。両腕の鈴が大きくちりんと鳴る。薬研が言ってしまったら、私がなんのために、この恋を諦めたのか、わからなくなってしまう。
薬研たち刀剣男士は、歴史と国を守るという目的のために出会った神様だ。私だって、お金をもらって仕事としてここで暮らしている。普通に暮らしていたら、出会うはずがなかった相手だ。その薬研を好きになるだなんて……遺伝子に逆らう、異種間に抱く性愛だ。彼ら刀剣男士に、ヒト目線で異性としての好意を抱いたり、ましてや思いを通わせたいだなんて、許されるはずがない。
だから薬研に気持ちが知られないように……迷惑をかけないよう、気持ちを自覚した頃に近侍から外して、遠ざけようとした。持ち回り制という一番平等な形を取ったら、一月と少しに一回、薬研がまた近侍になってしまう。怪我や病気になれば、優しくされてしまう。
うっかり好意を意味するようなことを、口を滑らせて言ったらどうしよう。あの聡くて優しいひとに、どう気持ちを隠せばいいんだろう。いっそ、告白してふられてしまえば──いや、それじゃ本末転倒だ。伝えること自体が、あってはならない。
私の声を封じたのは、私自身だ。私の心の運びが、無意識に、私から声を奪っていた。
「大将の表情が曇ったのには気が付いた。その原因にまで、俺はあの頃気が回らなかった」
思わず俯いて、拒否の意で首を左右に振る。それ以上言わなくていい。私はみんなを刀として、神様だとして意識するよう努めてきた。薬研への気持ちは、一年と少し前に捨てた。刀剣男士と審神者としてだって、充分楽しく暮らせてきたじゃないか。いくら嫌だと動きで示しても、薬研は語ることをやめてくれなかった。
「好ましく思われるのを、迷惑に思ったことなんかなかった。心地いいと思ってたのに、一人でそれを抱える大将の負担に気付いてやれなかった」
薬研はぽつぽつと力ない声色で続ける。主に乞われたならまだしも、物が自分からそれ以上を求めるなんて変な話だろうと、本気で思っていた、と。
「この一年、あんたは審神者と刀で誰の目からも明らかな線引きをし続けて、俺からも、なるべく離れようとしてた。触れれば、視線が落ちて何も感じないような目をする。不自然なくらい、何も伝わってこない。静かになる」
俯いたままの私には、薬研の表情を見ることが出来ない。捨てたはずの、持っていてはいけないものを暴かれて、向けられる顔なんか持ち合わせていない。
「大将……あんたにあの目で見てもらえないことが惜しい、悲しいと思ってやっと気付いた。俺は刀のくせして、あんたのことを、女として好きだったんだ」
そう言われても、私は、ますます動けなくなるばかりだった。
「ある日突然目を逸らされて、刀と人だと言い聞かされてるような扱いになって、どうして急に離れていったのか、想像がつかないほど、俺はあんたに無関心じゃない」
俯く視界に、黒手袋をはめた薬研の手が入ってきた。私が腿の上で握り締めている手に、そっと指先だけを添えてくる。素手と外されたことのない手袋の対比が、まさしく私の中にある感覚を呼び起こす。
罪悪感。私が薬研への気持ちを諦めなければいけないと思ったのは、それが根源だ。彼のような存在に恋することは罪だと思った。一度好きだと思ってしまったことすら、隠さなければと必死で埋めた。生き物として全然違うし、私は彼らに傷を負わせる。浮ついた気持ちでいて良いはずがないじゃないか。
それでも、薬研の手はゆっくり、私の手の甲を包む。
「あんたの心にはなんの罪もない。人を娶った神なんざ神話にいくらでもいる。妖かしものだって、人と番うことはある」
ああそういえば、薬研は最近物語の本も読んでいたな、とぼんやり思った。
「信じちゃくれないか? まだ自分を許せないか? 声は、出ないか。大将」
私にとって、都合がよすぎる言葉が薬研の口から紡がれる。声の代わりに、涙ばかりがぼろぼろ零れた。
嬉しいと思っている自分は、奥底のほうに確かにいる。でも、それ以上に彼を「主を思う特性を持った刀剣男士だ」「私じゃない誰かが顕現すれば、その主を同じように想ってくれる刀だ」と自分に言い聞かせた一年間は、私にとって長過ぎた。薬研はむやみに嘘なんかつかない、と思うのに、私を治すために思いついた治療の一種なんじゃないかとも、思ってしまうのだ。
気持ちと一緒に身動きがとれないでいる私を、薬研が眉を寄せて、覗き込んでくる。私の声が、本当に薬研への気持ちを封じようとした自分自身への呪いで消えたのだとして、聡い薬研はそれに気付いてしまって、それに責任を感じて──。
急に、薬研がずかずかと私のパーソナルスペースへ入ってくる。正面から、どう考えても、必要以上に。身構えはするけれど、傷つけられるわけでもないのに逃げる気にもならない。目の前で膝立ちになった薬研は、少し沈黙してから口を開いた。
「……もう一つ、試させてくれ。古今東西、俺は呪いに関する本を読み漁った。いろいろあったが、近代の日本人にも馴染み深い、西洋の本の多くで見られた特徴がある」
自分にできる処置の限界を埋めるように、最近はオカルトじみた装丁の古書を読む薬研をよく見かけた。式神だの神頼みを国ぐるみで行っている今の日本にとって、オカルトはなにも全てが眉唾ではない。かつては空想の物語でしかなかったものの中には、実話だってあったのかもしれない。へたり込んだ私を少し上から見下ろしている、名刀に寄せられた思いが神格を得た付喪神の瞳は、静かで淡い紫色をしている。
黒い手袋をした両の手が、そっと私に向けて伸びてくる。二の腕に触れて、肩に置かれて、俯き続ける私の輪郭を捉えた。さっきから泣いていて見苦しい顔を見せたくなかったのに、親指で頬を撫でられて拒否しきれない。
「呪われた人間は、そいつを本当に愛している者からの口付けで、呪いが解けるらしい」
薬研は下方にいる私に顔を寄せて、優しく口を重ね合わせた。ついばむように、唇を少しずつ染めようと吸うように、小さな音を立ててキスを続ける。時折顔を離して顔を見つめてくる瞳は、侍医としてのそれではない。
「……、……」
息継ぎの合間、吐息の中に、久しぶりに聞く響きが耳に入った。音だ。私の口から、空気以外の何かが漏れた。それを食べようとでもしているみたいに、薬研が顔の角度を変えて、最後にもう一度唇を食んだ。
肩から顔にかけてが熱い気がする。まさかそんな、おとぎ話じゃないんだから、キスで呪いがとけるだなんて、意味がわからない。
「俺の気持ちは独りよがりか? 聞かせてくれ、大将」
一年眠っていた声帯を、どう動かしていいか戸惑う。自転車は何年乗らなくてもこげるのに、自分の身体がどうしてこうも扱いにくいのか。
「……や……」
一声なんとか発して、私はまた気付く。動かし方を忘れたわけじゃなくて、怖いのだ。彼の名前を呼ぶことが。今呼んだら、声に気持ちが全部乗ってしまうような気がして、無意識で尻ごみしていた。ふと視線を上げれば、薬研はさっきキスをしていた最中に見せたような瞳で、私の言葉を待っている。薬研は、私を好きだと、愛していると証明してみせた。
「やげん……」
たどたどしく、好きなひとの名前を口にする。この音の並びが好きだ。ずっとずっと、声に出して呼びたかった。薬研が頷いて、額を合わせてくる。返事だ。
「やげん」
もう一度名前を呼ぶ。今度は軽く口付けてきて、その後すぐに笑みをこぼした。
私の気持ちは、罪ではなかった。だって、当の神様がそれを許して、望んでもくれている。
「薬研、わたし、薬研が好き……」
みっともなく泣きながら、やっと薬研に問われたことの答えを返した。気持ちを、認めた。薬研が私の後頭部をつかんで、白衣の肩に顔を押し付けさせるように抱きしめる。涙を拭いてくれてるつもりかもしれないけど、お化粧が、ついてしまうのにと思った。
「そんなの、知ってた。そうじゃなきゃ、主と呼ぶ人間に勝手に口付けなんかするもんか」
薬研の声は弾んでいて、喜びがちゃんと本物だと伝わってくる。ぎゅうぎゅうと頭を抱きしめられて、顔が痛くなりそうだ。
「あんたは目が、いろんなことを伝えてくる。俺は、その目が好きだ」
次の景趣は、春の桜にしよう。戻ってきた私の声と、私たちの今後の関係を、宴会の言い訳にさせてあげよう。
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