声なき声
薬研藤四郎という刀剣男士は、どの個体もある程度医術に関心がある。それは彼の姿形がどこで顕現されようとほぼ同じであるのと似た理屈だ。そして、この刀剣は入手しやすい。
二つの理由から、彼に本丸の医務室を任せる本丸は多かった。これには政府からも支援があり、薬研に受けさせる研修や指導が用意されている。
彼の管轄は軽度の怪我の手当て、風邪などの平易な病の看病・処方。また喘息やアレルギー、日頃対処の必要な持病のある審神者の本丸では、現世の病院に通うか、ある程度薬研に任せるか選ぶことができる。
私が声を失ってからというもの、薬研はそれを治すことに関心を注いだ。持病同様、薬研は病院の医師と相談のうえ、日常で行って良い処置について学んでいる。普通の審神者から一転、私は侍医の薬研を必要とする立場になった。
身体には問題ないという診断結果だが、薬研は喉の状態を最善に保とうとしている。喉以外の原因が解決したら、他になんの障りもないようにしたいのだという。耳鼻咽喉科で開業できるんじゃないかというくらい、半年近く彼は喉に関する医学書を注文して読み漁っていた。部屋は本まみれだ。
出会ったばかりの頃から、薬研は主への気遣いを欠かさないという印象がある。審神者がこの調子では、何もせずにはいられないのだろう。
「大将、もう少し上向いて、口あけな」
お医者様なら平気なのに、薬研が相手だと何回やってもこれに慣れない。日常的に個人の付き合いがある相手に口の中を覗かせるのは、どうしても恥ずかしい。薬研の白衣や眼鏡のふちに注目して、藤色の瞳を見ないようにする。こちらを照らす光が、ときどき視界の端を曖昧にする。彼の内番着はお医者様のようでいて、ふと下を見れば短いズボンで豪快に足を開いていた。
舌を金属のへらでぐいと押されて、少しだけえずいたが音にならない。喉の奥を覗いていた薬研は、ペンライトをぱちんと消すと、ふむと一人頷く。
「やっぱり、少しだけ腫れてるな。あんまり薬に頼っても良くねぇから、喉に良いもの用意してやるよ」
ありがとう。口を動かして、軽く礼をする。その頭をくしゃりと撫でつけてから、薬研は席を立った。弟相手に同じようなことをしているのを、たまに見かける。あれをされたのだ。もし声が出たなら、今の不意打ちは私の声帯を軽く震わせていた気がする。数百年前の生まれを自覚する彼らにとって、私たち審神者は等しく、生まれたての人の子なのだ。
週に何度も通っている本丸の医務室で、私は診察用の椅子に深く腰掛けている。薬研がそばの簡易コンロに火をつけ、なにか飲み物を作り始めている音を聞いていた。蜂蜜の甘い匂いも鼻をくすぐる。私は密かに、この手の飲み物を楽しみにしていた。先日冬の景趣に変えて以降、肌寒いので特別美味しく感じる。今日は何だろう。かりんや大根の汁でも使ったものだろうか?
のんきに足先をぱたぱたさせていると、薬研がぽつりと「悪いな」と呟いた。何が? と首を傾げながら、彼のほうを見る。温められた鍋から立ち上った湯気が彼の眼鏡を曇らせたり、透明に戻ったり、表情がよく見えない。
「強い変化をもたらす薬は、現世に行けばきっとあるだろう。でも、それで治る確証がないうえに、強い薬にはそれだけ副作用もついてくる」
語られ始めたのは、私の喉に関する話だろう。喉や霊力に働きかける薬で、まだ投与されたことのないものがあるという意味だ。沸騰した湯に、薬研が慣れた手つきで、いくつかの瓶から匙で何かを入れていく。嗅いだ事のある匂いが、医務室に広がっていった。菜箸のようなもので、ぐるぐると煮詰まらないよう、ずっと混ぜてくれている。
「荒療治って言葉もあるが、化け学の分野の薬はまだ俺も自信が持てない。民間療法のそれと違って、人体実験になりかねない。歯がゆいが、あんたの身体が大事なんだ」
私はただ、なぜ薬研が責任を感じているようなことを言うんだろうと、途中からそればかり考えていた。声が出なくなった原因は誰にもわからないし、薬研は充分、本丸で一番私の喉を気にかけてくれているのに。あんたの身体が大事だ、という言葉に、すぐに「知ってるよ」と言ってあげることすら、私にはできない。かち、と薬研がコンロの火を止めた音がして、言葉も止んで、一瞬静かになった。
「一年も経ったのに、俺には、こんなことしかしてやれない」
小型の鍋から、薬研が私のマグカップへ飲み物を注いでいく。作りすぎちまった、と苦笑いして、薬研は奥から自分用の湯飲みを出した。ちょうど、二人分出来たらしい。診察用の椅子に腰かけて、机に二人分の飲み物を置いた薬研は、やっと私の方を見てくれた。
ありがとう。薬研、本当にいつもありがとう。私はもうこの暮らしに慣れちゃって、優しい仲間に囲まれて、このままでも困らないかもしれないなんて、思ったりもしているのに。薬研だけは、ずっと私の声を取り戻そうとしてくれている。こんなことしか、なんて言わないでほしい。
全ての気持ちを込めて薬研のほうを見つめてお辞儀をして、鈴を意味ありげに二回、りんりんと揃えて鳴らす。どんな書類がほしいかわかってしまうようなひとなんだから、この気持ちも読み取ってほしい。薬研は、形容しがたい表情で笑って、マグを私の方へ押しやった。
「大将の好きなやつだぜ。冷めないうちに飲みな」
好きなやつというからには、きっとアレだ。名前も知らないけど、初めて飲んだ時おいしくて薬研の肩をぺちぺち叩いてしまったやつ。喜んで両手で持ち、一応ふうふうと冷ましてから飲む。甘さと独特の匂いが、なんだか癖になる味だ。薬研に思わずにまにま笑いを向ける。今日もおいしい。ご機嫌の私に微笑みを浮かべた薬研が、真剣な声色で告げた。
「大将。俺は、大将の声を、絶対に諦めない。何年かかっても取り戻すが、悠長にしていくつもりもない」
口の中にあった甘い飲み物を、ごくりと飲み下した。自然と私の気の抜けた表情も引き締まって、口を結ぶ。
この意志の強い刀が、斬る斬らないに関係のない、いち主人の声に対して、何を思ってここまで言うのだろう。嬉しい、はずだ。私は、審神者としてここまで想ってもらえることを、喜ぶべきだ。なのに、なぜと思う気持ちのほうがやはり先に立ってしまう。
今の状態は、たとえ彼が認めなくても負担なんじゃないか、だとか。手を尽くしても実を結ばない、いくら気にかけても前進しない。これはストレスの一種なんじゃないか。彼はそんな使命のためにこの世に顕現したわけではないのに、私の喉に多くの時間を費やしてきた。嬉しいとか美味しいとか、私がへらへらしている間も、責任感を一人背負って心を砕いてくれている。……それを、もっときちんと理解して、私も、治す努力をしなくちゃならない。
今感じている楽しさは、あくまで仮初めなのだ。私本人がこれでいいならそれでいい、と気楽にしていてはいけない。今の私は、主と呼ばれる立場なのだから。
喋ることができたとしても、私は黙りこんでいただろう。今の言葉に何も返さないのは良くない、と薬研の瞳を見つめる。結局できたのは、久しぶりの筆談だけだった。
『私の声のこと、薬研だけが気負うことじゃないよ 病院に行ったり、いろいろ』
いろいろ試して、きっと治すから。そう続けてペンを走らせるつもりだった私に、薬研が途中で割り込むように喋った。
「早く聞きたいんだ」
シンプルな一言が、鋭い刃物のように胸を刺す。
侍医だから、主従の一種だから、薬研がそういう性格だから。私の頭の中では理由が次々に流れていく。そう視線をふらつかせるような気質ではない刀は、さっきの「絶対に諦めない」宣言以降私を見つめたままだった。恐る恐る、どうして? と首を傾げる。私の表情からなにかを汲んだのか、安心させようとするみたいに、薬研は整った顔立ちで微笑みを作る。
「俺の記憶の中の、大将の声がそのままであるうちに」
人の記憶から最初に消えていくのは、音の情報だという。仮に刀剣男士の彼の記憶が私よりずっと長く保たれるものだとしても、人間の時は早く進む。薬研は、私がおばあさんになってしまうまで、待ちたくないと言ってくれているのかもしれない。彼ら刀剣にも、感傷はある。生き物としての終わりまで声が出せない主は哀れだと、感じているのだろうか。
なんとなく彼を理解した気になって、私も薬研に微笑みを返す。今の薬研は、刀剣でありながら、私の侍医だ。声を取り戻しさえすれば、彼は、責任感から解放される。私は深く、しっかりと頷いて唇を動かした「はやく治そうね」と。