声なき声
ひどく静かな執務室の中で、紙とペンの音だけが続く。私の区切りがつき、今週の分を束ねようと思ったところで、一部を近侍の薬研に任せていたことを思い出した。正面に座っている彼の方をちらりと見ると、なんらかの書類に書き込んでいる最中だ。
私は指先でこつこつ、と机を鳴らす。薬研はすぐに視線をあげて「ああ」と応え、近くの紙の山から一束を抜き取った。
「ん、報告書ならまとまったぞ」
差し出された書類はまさしく今欲しかったもので、思わずぱらぱらと中身を検めてしまった。薬研が今も雑務を続けている通り、任せた仕事はこれだけではない。終えた仕事だって、他にもあるはずだ。私の反応を見て、薬研は不思議そうにこちらを見つめてくる。
「……違ったか? 筆談するか?」
近くの白紙を探り始めた薬研に慌てて首を横に振り、一度深く礼。薬研が「合ってたか」と安心した声を出したのを聞いてから、顔を上げる。
机を鳴らしただけなのに、なんでわかったんだろう。首を少し傾げると、薬研はにんまりと微笑み、自分の上頬をとんとんと指差した。肉付きが薄い彼の体のなかで、比較的柔らかそうな白い頬だ。仕草でもったいぶってから、薬研はどこか気取った声色で言った。
「大将は目がお喋りだからなぁ、わかっちまうのさ」
いや、顔で分かるって言っても、限度があるでしょう……。喜怒哀楽ならまだしも、どんな書類がほしいかなんて、顔に出るはずがない。納得がいかず、少し唇を尖らせる。そんな私を見て、薬研はおかしそうに笑っていた。
ある日突然、私は声を失った。掠れた一音だって吐き出せず、唇や舌を操っても空気の漏れる音がするばかり。穴のあいたポンプを押しているみたいだ。わざと息をはぁー、と吐いたときの、微かな声の気配すらなかった。
喉の調子が悪いのかと思って、まず薬研に診てもらったがわからない。次に政府の紹介で病院にも行ったが、身体にはなんの原因も見当たらなかった。健康体なのに、呼気にすら音が乗らないこの症状は異様だという。精神の不調、もしくは呪術の類ではないか、というはっきりしない診断だけを渡されて、経過観察が続き今に至っている。
精神の不調、と言われても、とりわけ傷つくような出来事はその頃起こっていなかった。審神者に就任したばかりの頃、一緒に暮らす少年たちが深手を負って帰ってきたあの瞬間を乗り越えて、今更なにでトラウマになるというのだろう。重傷進軍なんてもってのほかだから、誰一人欠けたこともない。むしろ数年にわたる運営で刀剣男士たちとは結束が深まり、とても雰囲気のいい職場だと胸を張って言えた。
審神者になってから体質が変わったとか、現代医学で解決できない症状に悩まされる人は、いくらか存在するという。霊力なんていう謎の力を扱っているので、それに由来するのかもしれない。
もう一つの推測、呪術。こっちはもっと心当たりがない。刀剣男士たちとは、先程も言ったとおり良好な関係を築いている。私が喋れなくなったことで迷惑をかけたし、得をしている刀は一振りもいない。他の審神者とも恨まれるほどの関わりはないし、私には呪われるほど羨まれるような特別さもない。わざわざ力を使って、私の声を奪うなんていう地味な嫌がらせをする意図もわからない。
騒ぎたてられないように口を封じてから私の命を狙う……つもりだとしたら、刺客が来るのが遅すぎる。声が出せなくなってから、もう一年経ってしまっていた。
原因の推測すら完全にお手上げ状態だ。定期的に検診に通いつつ、本丸では薬研が私の喉を気にかけてくれている。
もちろん不便なんだけど、駄々をこねても出ないものは仕方がない。でも筆談はできるし、鳴り物を持ち歩けば注意を引くこともできる。言葉を用いた指揮はできないけれど、築いた信頼関係のおかげで、皆応えてくれる。
最初は痛ましいものを見る眼差しを向けていた皆も、私が慣れてけろりとし始めると、笑顔を向けてくれるようになった。そうして、彼らは少しずつ物言えぬ審神者に慣れていった。
私はいつも、手首に紐を通した小ぶりの鈴をつけている。曲がり角で誰かとぶつかったりしないように。少し先にいる刀剣男士に追いつけなくても、呼び止められるように。腕を振ってちりんちりんと廊下を歩けば、それを聞きつけた刀剣たちが、私に挨拶しに来たり、用を伝えにそばへ来てくれる。独特の音色がする、少し変わった鈴を鳴らすのは、本丸では私だけだ。
姿が見えなくても、たたたと駆ける軽快な足音で誰だか目星はついている。今剣だろう。
「あるじさま、おはようございまーす!」
彼は今日非番の予定で、内番服を着ている。少し遅れてから、秋田、前田、平野が同じく小走りでやってきた。
「今剣さん、廊下を走ってはいけない、という本丸の規則があるでしょう」
「せめて、競歩に留めましょう。主君は逃げないのですから」
「だれにもぶつからなければ、はしってもいいではないですか」
目の前で小柄な短刀たちがわいわいと盛り上がっているのを見ると、気持ちが癒される。両腕の鈴を揃えて鳴らすと、みんなこちらへ向き直り、気をつけをした。そこまでしなくても、良かったんだけど。おはようの代わりに、にっこり笑ってお辞儀をする。彼らは口々に「おはようございます」と笑顔を返してくれた。
執務室へ続く縁側を歩くと、この世のものとは思えないほど美しい庭が左手に広がっている。神様を多く迎える清らかな場所として、政府があつらえたものだ。人工物なのかもしれないが、香りも楽しめて触れることができる。今は、数日前から満開の桜の景趣に設定している。洗濯物もよく乾くし、美味しい三色団子を頂いたからと歌仙に頼まれたのだ。
非番の日は昼間から飲兵衛な神様たちが桜を肴に酒盛りをしている。全国の酒蔵から政府を通して刀剣男士へ贈られているお酒も、彼らにかかればすぐ底をつき、給金から自費で購入することになる。その騒ぎはここまで聞こえてきた。風もそよいで、室内よりも音が溢れているのを感じた。
目の前に、白い戦装束を着た後ろ姿が見える。遠征帰りだろう、鶴丸国永だ。住居である本丸ですっかり気を抜いて、眠たげにあくびをするのが見えた。ちょっといたずら心が疼いて、両手の鈴をそっと握りこむ。ひらけていて音溢れる縁側は、人を驚かすには最適の場所だ。握った鈴の音はこもって、彼らの装束の金具の音に埋もれ、拾われ辛くなる。
そろりそろりと近付いて、鶴丸の装束のフードを掴み、かぶせてやろうとした。フードを掴んだところで、私の両腰を何者かが掴んで、ひょいと持ち上げる。そのまま連鎖的に、鶴丸は衣服を後ろに引かれて「うぉっ」と声を出した。驚いたって声の出ない私は、持ち上げられたままばたばたと脚を動かして、体いっぱいに動揺を表す。振り向いた鶴丸は私を見て「またきみか。珍妙な労い、ありがとな」と一つため息まじりに微笑んだ。それから少し下方へ金色の視線を移して、続ける。
「薬研、またこの悪戯っ子から目を離したな」
言われて自分の腰を見下ろせば、見慣れた黒い手袋が、私の腰の両側を掴んでいた。後ろから高い高いをされているような感じで、薬研の顔は全然見えない。あの細い腕で、こうも軽々持ち上げられてしまうのだから、たまったものではない。
「もう少し手前で捕まえられりゃよかったんだが。すまん」
「いいさ、風呂の前の眠気覚ましになった。じゃ、主を頼んだぞ~」
「おう、遠征お疲れさん」
ひらひらと手を振りながら縁側を進んでいく鶴丸。静かになったこのタイミングで、花見の宴会組の大笑いが遠く聞こえてきた。もう下ろしてくれてもいいでしょう。ぎゅっと掴まれた腰の手をとんとん叩いてから、両腕の鈴をちりちり鳴らす。
次の瞬間、地に足もつかないままぐるりと身体が反転させられた。俵担ぎと言えばいいのか、薬研の肩におなかを引っかけられるようにして、そのまま歩きだされてしまった。私の口は、抗議ができない。
「大将、執務室へのご出勤だろ? 寄り道しないように、近侍の薬研藤四郎が、お送りしよう」
私の視界には、はためく白衣の裾と、歩く時後ろに残った脚のリブソックスがちらちらと見えるだけだ。でも、見えなくてもわかる。薬研は楽しそうに笑っているだろう。私はそのまま、鈴の音が鳴る荷物として、執務室まで真っ直ぐ連れていかれてしまった。
事務は概ね無言でも構わない。ただ問題なのは、こんのすけを通した進軍撤退の指示だ。物を叩く音二回、とかそういうものだと、うっかり音を立てたために起こるミスや、電波不良等での受信側の誤認もありうる。これには、信頼できる近侍の喉を借りた。
「こちら近侍・薬研。隊長の加州清光、聞こえるか。軽傷の博多には悪いが、今はひとまず進軍だ」
『感度良好。了解。さっきと比べた状況の変化は、俺の特上投石刀装がひとつ壊れちゃった。主、せっかくくれたのにごめんね』
隣の私が、りんりん、と鈴を鳴らす。資材難に苦しんでいるわけでもなし、また作ればいい。
『主ありがと。怪我には気をつけるね』
意図をきちんと汲んで、加州は通信を切った。これから、時間遡行軍と一戦交えるのだろう。
具体的指示を代わりに喋ってもらうため、絶対に私の指示を変えずに伝えてくれるという信頼が大事だ。私の指示に疑問や改善点がある場合、勝手に変えるのではなく、私と話をまとめてから通信してくれる刀剣。──ちなみにこれは、刀剣の独断で戦況を変えて何か被害があった場合、私が責任を取ってあげられなくなるからだ。薬研は近侍歴が長いのもあり、筆談の途中で指示を察して確認してくれたりする。
薬研にこんなに長く近侍を任せるつもりは無かった。でも、ますます変えられなくなってしまったなぁと思う。
元々初期の頃……声の出せていた頃は、人の身の勉強も兼ねて近侍は持ち回りだった。それが、数か月経つと薬研に固定していた。執務室で私と二人でいるとき面倒そうにもしないし、新入りの刀剣男士へのあたりも柔らかい。ちょっと大雑把に思える語り口も、薬を扱うためか細やかな処理ができるところも、仕事相手として付き合いやすかったのだ。
長い間一緒に仕事をして、その途中雑談で笑いあったこともあった。関係は、私ひとりの思い込みではなく、良好だったと思う。
だからこそ、あるとき彼に任せ過ぎるのは良くないんじゃないかと考え始めた。面倒がる刀剣がいるからといって、彼らに何もさせないのは不和を生むかもしれない。薬研にだって休む時間は必要だ。その他にも、色々な、いろいろなことを考えて、近侍を持ち回り制に戻したのが、去年のいつ頃かだ。
鶴丸や同田貫、乱に岩融、色々な刀剣と久しぶりに仕事をした。後から来た刀剣は初めての近侍を務めたりもして、彼らのことを知るいい機会だった。
その頃合いで、わたしの喉は声を失った。
解決策も得られないまま本丸へ戻り、数日手探りで暮らして、鈴や笛を持って歩くことにして、私が話せなくても本丸の運営が滞らないよう、皆であれこれ決めごとをした。近侍は最近始めた制度のまま、日替わりで色々な刀剣に頼んでいた。コミュニケーションの深さにばらつきは当然ある。それでも筆談でなんとか仕事は回っていた。
しかし薬研がなにかと様子を見に来ては、喋れない私の意図を汲むので、みんな薬研でいいじゃないかと投げてしまったのだ。薬研も「固定で構わない。負担じゃない」と答え、私は不承不承ではあったが、皆の意見に従った。
急な夕食後の出陣要請と、それに伴う報告書類の追加。帰還したみんなを手入れして風呂に送り出してから、執務室へきた薬研と二人でそれらを片づけた。障子は開かれ、夜の庭がのぞいている。夜とはいえ心地良い気温だから、半分。女の私に配慮して、ひとけの少ない夜に密室を作らない計らい半分だ。手伝ってくれたのもあって、一時間もかからず仕事を終えた。出陣に関係のなかった短刀たちはもう寝ているだろう。一戦交えてきた刀剣たちも、急いだ者はもう床についたかもしれない。薬研を付き合わせてしまったことを、少し申し訳なく思った。
「よし、まぁこの時間なら充分な睡眠がとれるな。大将、ちゃんと部屋の保湿して、すぐに寝るんだぞ」
立ち上がった薬研が、側に畳んでいた白衣を羽織り、帰り支度をする。零時手前、なかなか遅い時間だ。薬研、手伝ってくれてありがとう。おやすみなさい。そう言いたくて、あたりに白紙がないかきょろきょろと見回す。
私は一緒に暮らしている彼らに「ありがとう」も「おやすみ」も言えなくなってしまった。それだけが、今も少し悲しい。
ぴたりと足を止めた薬研が、振り返って微笑んだ。
「大将、おやすみ」
……わたしは、寝ている子の迷惑にならないよう、鈴を手の中に握りこんでちりちりと微かな音をさせ、彼に手を振った。薬研はいつも、心の声が聞こえているみたいに、阿吽の呼吸で動いてくれる。本当に聞かれていたらさすがに嫌だけど、いまおやすみと伝えられたのは、嬉しかった。
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