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危険のない、簡単な仕事。


 日が昇る前の、薄明るい時間に目を覚ました。本丸は静まり返っている。私の大仕事は、今日でおしまいだ。
 朝五時頃、薬研がおにぎりや水を持って一度部屋に来てくれた。私の顎を軽くすくって顔を寄せたと思ったら、「ああ、まだ平気だな。便所も行っていいぞ」と言い残して、さっと体を離す。縮こまった体勢のまま固まる私を見て満足げだ。すっかり、彼のおもちゃだった。

「すぐに蛍丸が来る。それ以降は誰か来たら所有権の移譲、……そうだな、十時までに来なかったら、あとはもういい。事が終わるまで、この部屋にいな」

 柔らかい表情でそう指示をするこの顔が、本来の彼なんだろう。次に行く本丸で、彼がずっとこうしていられるといいな、と思った。



 内番のジャージ姿で駆け込んできた蛍丸と縁を繋いで、手入れをした。手伝い札があっても、大太刀を手作業で手入れするのは時間がかかった。私は審神者ではないから、手入れも教科書で覚えた程度の及第点レベルだ。

「ありがと、お姉さん。じゃ、俺部屋に戻るから」
「お疲れさまです。気を付けて」

 蛍丸を見送った時点で、もう九時半だった。端末で権利の移譲が済んだ刀剣のリストを更新する。計画は順調で、政府から追加の指示もない。
 当然全ての刀の所有権を預かることは出来なかった。練度が高い刀剣の七割と、審神者にあまり興味を抱かれていない、普段から顔を合わせない刀剣の権利を預かった。
 彼らのパワーバランスは、審神者が一番わかっているだろう。審神者の手元に残った刀剣を無理やり従わせても、政府側についた刀剣男士相手の勝ち目なんか全くない。

 審神者の拘束が終われば、薬研が私を呼びに来て、最後の仕事だ。政府へ事後処理の応援要請を出したりする。
 ……待っていればいいだけなのに、妙にざわざわとして落ち着かなかった。こういう仕事は初めてだから、仕方ないのかもしれない。それでも、何が心配なんだろうと考えてはみた。

 もしかして、私は審神者の側にいる粟田口の二振りを気にしているんだろうか。薬研が審神者の説得に向かって、そこに審神者の刀である兄弟がいたら、なにかひと騒動あるかもしれない。
 明らかな戦力差がある。この事件の解決は疑いようもない。……私はもう一仕事、出来るんじゃないだろうか。
 審神者がすんなり諦めれば当然それでいい。諦めなかったとき、審神者からの同士討ちの主命に従うべきか迷う前田と平野を、主従の枷から解放できるかもしれない。
 少ない荷物を身に纏って、私は本丸の間取り図を開いた。



 庭を隔てた向かいの通路、通信機器のある部屋へ入っていく刀剣たちの後ろ姿が見えた。作戦の説明で聞いている、審神者に武力差を分からせるためのメンバーだ。練度も高く、稀少で審神者が傷をつけたくない刀剣たち。薬研は恐らく審神者と一緒にいるのだろう。そこに、前田と平野もいるはずだ。
 足音を立てないように、その部屋に近付く。中では既に審神者との会話が始まっているのだろう。内容まではわからないが、声がした。
 廊下に面した障子は開け放たれているので、これ以上近付きにくい。会話が聞き取れるので、成り行きを窺うことにした。

「なんだ、揃って。出陣はさせられないから、気が高ぶるなら手合わせでもしていてくれ。手が離せない」

 聞いたことのない男の声だ。内容と合わせて、これが審神者だろうとわかる。

「俺たちを喚び出した理由は『歴史を守る戦いのため』と、かつてそう言ったな。主、なにか言うことがあるだろう」

 三日月の声だ。審神者が、ふんと鼻を鳴らす。そう訊く時点で知っているじゃないか、と呟く。

「お前たちの主が、命を賭けて使われるだけの立場を卒業するんだ。正当な、俺に見合った待遇が向こうにはある」

 スピーカーからノイズに混じって言葉らしきものが聞こえた。イシン、維新。維新。声の主が人かそれ以外かも分かりづらいほど音声は歪んでいた。
 男が苛立ち混じりに「ざ、ひょ、う」と一音ずつ口にする。なにかのキーを叩く音が続いた。

「分岐点まで遡れば、歴史は些細なことで変わる。この血筋も、ほんの少しの労力でもっといい家になる。いい家に仕えるのは、お前らにとっても誉だろう」

 三日月は男の言葉に応えない。男はノイズに目当ての情報が混じっているのではないかと集中しては、小さく悪態をついていた。

「大将」

 薬研の声がした。この雑音が響く部屋の中で、静かに通る響きをしている。

「あんたはまだ、やり直せる。今ならお咎めもそう重くないと、政府の役人に確認は取った。あんたの足で出向いちゃくれないか」

 薬研が審神者に語りかけた言葉には、政府へ報告をしたことと、彼らの立ち位置が表れていた。長い沈黙が続く。
 やがて、私にもわかるような霊力の乱れを審神者から感じた。感情が昂っているのだ。

「俺を裏切ったのか」

 審神者は、忌々しげにそう吐き捨てる。
 外にいる私も胸がざわめいて、思わず縁側から庭に下りた。身を潜めて位置を変え、小さな木の陰から部屋を覗く。三日月たちの後ろ姿と、その合間にごく普通の男が見えた。不遜な発言の似合わない、おとなしそうな男だった。

「いつの間に、誰が……。くそ、レア刀を持ち込めないのは条件が変わるな」

 その場に並ぶ刀剣たちを眺め回して、審神者がぶつぶつといくつか名前を挙げる。私が権利を預かっていない、彼の手にある刀剣を確認しているのだ。
 薬研藤四郎。元主を説得するために集まった刀たちの前にいる彼の名を呟き、審神者は目を留めた。

「薬研。お前のことを近侍として重用したもんだ。お前は、主に刃を向けるような刀だったのか?」

 嫌味な言い方で、男は薬研を標的にする。
 彼らは皆、審神者を両手放しで見捨てる存在ではない。手入れを怠る男にだって、所有権を移した三日月も最後まで男を「主」と呼んだ。先に従えなくなるほどの裏切りをしたのは、審神者の方だ。薬研を責める権利なんて、あるはずがない。聞いているだけで、男に腹が立った。

「……俺の主は、半分は国であり人の歴史だ。その務めを果たした」

 薬研が抑揚のない声で男に答える。
 そうだ、薬研は悪いことなんてしていない。心の中で、届かない応援を続ける。審神者は、尚も薬研へ迫った。

「ではもう半分はどうだ。お前はまだ俺の刀だろう、薬研藤四郎!」

 男を見つめる薬研の表情は、私からは見えない。その小さな背中が遠く感じられて、唾を、飲んだ。静かで深い、誰かのため息が聞こえる。

「大将、分が悪いぜ」

 進み出ていた薬研が、体ごとこちらを向く。瞳の藤色は暗い光を宿して、胡乱な目を仲間の刀剣男士たちへ向けていた。
 審神者に背を向けて、そのまま、彼は主へ語りかけ続ける。

「練度が高かろうと、所詮短刀だ。太刀連中相手に、あんたはどんな命を下す」
「俺が転送装置まで退避できるよう、時間を稼げ」
「……承知した」


 私は、頭の中が真っ白になっていた。
 男が鞄や書類を拾い上げ、部屋の奥へ続く襖を乱暴に開けて走り去る。残された刀剣男士たちが、それぞれ抜刀する音が続いた。私が庭から廊下へ上がり、部屋の障子を掴んでも皆驚く様子がない。彼らは私が覗いているのに気付いていたんだろう。
 薬研が短刀を握り、男が去っていった襖の前に立ち塞がるように、構えを取る。

「そういうわけだ。後味の悪い思いさせて、すまねぇなぁ」

 取り乱しているのは私だけで、三日月や鶴丸、その他の刀剣男士たちは何も言わずに戦闘態勢に入っていた。まるで、こうなることを知っていたみたいだ。

「薬研さん、どうして」

 なんとか、それだけ言葉にする。彼は、私の方を見ずに答えた。

「あんたも、巻き込んで悪かった。どうしようもない大将だが、俺の主なんでな」

 動揺の抜けきらない状態で、部屋の奥で行動に迷っている前田藤四郎、平野藤四郎と目が合った。ただでさえ主人を国とするか審神者とするかの狭間で迷う局面、審神者が彼らに直接の指示を出さなかったので、立場が定まらないのだ。
 駆け寄って、彼らに私の立場と経緯を簡単に伝える。権利を預かることができた。

 薬研の兄弟刀である一期一振が一歩彼の前に出る。抜刀こそしていないが、その右手は、柄に掛けられていた。

「……薬研、考えは変わらないのか」
「織り込み済みだろう。……俺を斬ってから、あの人を止めてくれ」

 薬研の表情に揺らぎがないのを見て取ると、一期一振は静かに刀を抜いた。弟である薬研に向けて、真剣を構え、険しい面持ちをしている。

「来なさい、薬研。私がおまえを斬ってあげよう」
「いい兄貴だな」

 薬研が畳を蹴った直後に、刀がぶつかるような音が聞こえた。一期一振は薬研に斬りかかっているし、着地の隙には他の刀が薬研の脚を狙った。かすめて、白い脚に赤い線が走る。薬研の積んでいる銃兵が威嚇するように周囲の畳に穴をあけ、少しだけ薬研の周りに空間ができる。室内戦は多少有利かもしれないが、多勢に無勢だ。
 手も口も出せず、ただどうにかしたいと焦っている私のスーツの首根っこを、誰かが掴んだ。う、と呻く間に私を担ぎ上げたのは、三日月宗近だった。ゆったりと歩いて、私をあの場所から遠ざけていく。刀の交わる音が今も聞こえた。

「お、ろしてください! 歩けます!」

 言う間に顔の方を見上げるが、三日月は目が合っても歩みはやめなかった。

「怪我をされては困るな。部屋にいろと、薬研が言っただろう」
「すみません。争うことになったとして、この人数の差があれば、前田さん、平野さんも預かる隙があるかと思ったんです。それより! 薬研さんを止めないんですか!」

 刀を抜いた戦いになってしまった以上、私に彼らを止める手段はない。前に出たところで良くて身代わり、刀剣男士の手で私が死んだりなんてしたら、彼らが別の本丸に行けなくなってしまうかもしれない。
 でも彼らは、薬研を止められるはずだ。

「あれは、あそこで折れるつもりだ」

 三日月の声は冷静で、ぴしゃりと会話を終わらせるような響きがあった。でも、それでは困る。私は腹のところで担がれながら、三日月に食い下がる。

「だって、仲間ですよね!? 斬らなくたって、気絶させるとか、他に方法が──」

 歩く揺れに合わせて言葉がみっともなく詰まる。三日月が急に立ち止まったので、私はまた彼を見上げた。月の入った瞳が、私を見下ろしている。

「おまえに薬研の心がわかるか? 審神者がおとなしく捕まったところで、あの逸話持ちは刀解を選んだだろう。主を差し出して永らえるつもりなど、初めからあるはずがない」

 その言葉の説得力は、私の胸に酸のように沁み入る。そんなこと、認めたくない。だけど、彼を思えば、納得させられてしまう。

「仲間だからな。敬意を払って、手は抜くまいよ」

 三日月がまた歩き出す。彼はあの物置部屋へ向かっているんじゃないかと、景色でわかる。
 絶望的な気持ちが巣食っていても、少なくとも、あの部屋で茫然と待つなんて、したくなかった。

「……とにかく、審神者を止めます! 手伝ってください三日月さん! 転送装置の部屋まで案内を!」

 高そうな、三日月の雅な装束を引っ張って揺らす。そのつもりはなかったけれど、暴れたら膝が三日月の背中に強打してしまった。彼は特に声をあげなかったので、痛くもかゆくもなかったようだ。ただ私の方を見て、なんとも言えず愉快そうな顔をしている。

「はは、今の主は一応おまえだったな。良いぞ、しっかりつかまれ」

 太刀とはいえ刀剣男士だ。駆ければ私よりはずっと早い。
 急がねば、薬研が折れてしまう。その前に、この事件を片付けてやる。私は三日月の服を強く握った。
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