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危険のない、簡単な仕事。

 午後五時を回っていくらか経った。よう、と片手をあげて部屋に入ってきた薬研は、皿に盛ったおにぎりを抱えていた。私と顔を見合わせてすぐ、部屋を見て怪訝な顔をする。

「なんか朝より散らかってねぇか?」
「物置としての利用が何回かあったので……」
「なるほど」

 何も絶対に物を運べとは言ってねぇんだけどな、とため息をついて、彼は足で物を寄せ、座るスペースをあけた。畳に置かれた皿のおにぎりは、すごく美味しそうだ。昼は携帯食料一本で済ませたので、かなりお腹が空いている。

「うちは自分の飯は自分で作れが鉄則なんだ。客人向けに手の込んだ料理をすると目立つ。俺の握った飯で悪いが……なに、味はついてる」
「ありがたいです、すごく」
「好きな具食いな」

 薬研の握ったおにぎりは、ラップに具を置いて米を乗せ、そのまま握りましたという感じの見た目だった。何個か味付け海苔をはりつけてある。私が空腹に任せて三個食べる間に、薬研は薄い体に次々おにぎりを消していった。
 食べながら、彼が作戦の進捗状況について話す。

「うちの大将は相変わらずだ。向こうさんと落ち合うための時代指定までしか事前に聞いてない。場所や、俺たちをどう持ち込むかの相談がまだ済んでないから、ここで細切れの通信を繰り返してる」
「繋がってはいるんですね……」
「こっちからはからきし駄目だが、向こうからのが時々繋がるんだ。国を裏切ること自体はもう伝えてるからな」

 簡潔に記録して、端末で送信する。携帯用端末での音声通信は、混線する可能性もゼロではないからやめておいた。今のところ、作戦は無事に進んでいる。
 ひとつ謝ることがある、と言って、薬研が私を見つめた。

「事を急ぎたいのは山々なんだが、縁切りを済ませておきたい蛍丸ほか数振りが抜け出す算段がつかない。ここには灯りが入れられないから夜は何かと不都合だし、明朝に仕事の続きを頼みたい。拘束は明日の昼になりそうだ」

 練度の高い大太刀、とくに蛍丸は戦況をひっくり返すほどの実力がある。たしかに、彼は間違いなく味方につけておきたい。

「わかりました。政府には泊まりになると連絡しておきます」
「悪いな。風呂は貸せないが、桶と手ぬぐいを持ってくる。そこの布団はきれいだから使ってくれ」
「充分です」

 状況によって何がどうなるのかわからないのが現場、とくに問題本丸絡みだ。泊まり支度を用意してもらえるだけ待遇はいいと思う。
 しかし、食事やお風呂の心配をしてもらえるのなら、もう一つ、決めておいてほしかったことがある。……あまり水を飲まないようにしていたけれど、いいかげんトイレに行きたい。

「あの、すみません。お手洗いを借りたいのですが……」

 おずおずと申し出ると、薬研はきょとんとした顔をした。
 えっ、お手洗いで伝わるよね。いくら人形みたいにきれいでも、人の体をしてるんだから、トイレに行ったことくらいあるよね? と心配になってしまう。
 他の刀剣男士に訊ねにくくて我慢してしまったので、そろそろ真剣にトイレに行きたい。答えを待つと、彼はばつが悪そうに視線を流した。

「……失念してた。近くの便所を案内するよ」

 この物言いの気安さが、薬研藤四郎のいいところだと思う。優良な本丸でも何度かお世話になったことがあるし、平職員の私には馴染み深い。
 薬研は私をじっくり眺めて、目を眇める。なんでしょうか。少し首を傾げて、言外に促した。


「部屋の外を歩くには、目くらましが薄れてきたな。もう一度今朝のをやっておこう」

 言うやいなや、薬研は柄に手を掛けた。
 これで「今朝の」と言うなら、また彼は指を切るのだろう。慌てて身振りをして、それに待ったをかける。私がトイレに行くために手を切らせるだなんて、どう考えても釣り合いが取れない。

「それ、どうしてもやらなきゃ駄目ですか!? もっとこう、血を見ないような方法ないですか? ええと、服を借りるとか……」

 柄に手を添えたまま、彼は何を言うんだという顔をしている。
 いや、感覚としては、何をするんですかと言いたいのはこっちの方だ。

「別にこれくらい、たいした怪我じゃない」
「いや、薬研さんだって痛くないわけじゃないでしょう。私だって、ひとの血を口に入れるのなんて、今朝が初めてですし……」
「今度は、もっと少なくていい」
「量の問題ではなくて」
「……血の味が嫌なのか?」

 私が血を嫌がるんじゃないかとは思っていそうなのに、自分の怪我の話をされると彼は途端に話が通じない。刀剣男士は、戦場で何度となく傷を負っている。事実として知ってはいても、私の目の前にいる人がここで自分を傷つけるのは、すんなり受け入れがたい。
 ……でも、やらなくちゃこの部屋を出られないのだろうか。明日の昼まで我慢するのは、現実的じゃない。

「他に痛くない方法があったら、そっちのほうがいいなって思ったんです。無いなら、すみませんが、お願いします……」

 やめましょうと強く主張を推していた私が少し引き下がったからか、彼のほうも深妙な顔で口をつぐむ。ぼそりと言った言葉を、私はたしかに聞き取った。

「……無いでもない。あんたが嫌がると思っただけで」
「えっ、血が出ない方法の方が良いに決まってると思いますよ」

 反射的に答えた私を見て、薬研は呆れたような、諦めたような顔をした。
 柄に掛けていた手を畳について、彼が身を乗り出す。疑問に思うより先に彼の左手が輪郭を捉えて、ふに、と唇へ冷えた感触がした。
 すぐ目の前で、伏せられた目蓋が持ち上がって、薄い紫色がちらつく。薬研藤四郎が、私にキスをしたのだ。

 盛大に動揺した私の背中に、彼の右手のひらがぴたりと添えられる。驚きで鼓動がばくばくと大きく脈打つのを、なだめられたような気になった。
 ほんの少し唇が離されて、彼の髪が顔をくすぐる。

「……仕事だ。口開けてくれ」
「ふ、はい……」

 落ち着き払った声に、なんとか返事をした。開けろと言われれば予想できる通り、薄い舌がそっと隙間に入る。恋人同士がするような熱っぽさはないものの、私の舌を誘い出して、口内を探る。
 な、長い。鼻で息をしているとはいえ、ちょっと苦しい。
 息継ぎに失敗して微かにもれる声を封じて、触れる舌から唾液が伝う。苦しさで、うっかりそれを飲んでしまった。食道からじわりと、自分以外の強い霊力のようなものを感じる。私の喉に添えられた左手がそれを確認するように撫でて、薬研は顔を離した。
 少年とは思えない静かな色っぽい表情に、遅れて羞恥が湧いてくる。彼は自分の唇をぺろりと舐めると、一言簡潔に説明した。

「代替策」

 キスの直後に仕事だと言われた瞬間、大体理解はしていた。血の気配を借りる代わりとなれば、唾液を飲むとか、そういう話になるんだろうと。
 もう済んでしまった話なので、何を言っても覆らないことだ。ただ、このきれいな少年の神様に事務的に口付けられて、ばかみたいにドキドキしている事実が居た堪れなかった。彼の顔をまともに見られない。顔が赤くなりませんようにと祈るばかりだ。

「……あの、なんか、無理言ってすみませんでした……。薬研さんは、指切ったほうが、良かったんですよね。キ……口付けなんて、させちゃって」

 体の傷に慣れている彼らにとって、精神ダメージにあたるこっちの方が余程つらかったかもしれない。
 動揺のままに、しどろもどろ謝る私へ「なんで謝る」と言う声は、笑いが混じっている。ちらりと様子を窺った先の薬研は、声通りどこか愉快そうだった。

「指を切るのと、女の口を吸うので、指を切るほうがいい男がいるかよ。あんたは血の方がマシかと思ったんだが……、お互いこっちのほうがいいみたいだな」

 小慣れた感じで私をからかう言葉は、短刀詐欺という世の評価を再確認させる。短刀は見た目が子供なだけだとは何度も聞いてきたけれど、彼は顕著だ。

「なんか語弊が。でも、誰も痛い思いしませんからね。薬研さんが嫌じゃないなら、これでいきましょう」
「そりゃ、ありがたいね」
「……なんかニュアンスが。からかってますよね……?」

 視線を落とし気味に、なんとか平常心を保とうとする。そんな私を、薬研がにやにやと笑う。向こうも仕事。こっちも仕事だ。自分に言い聞かせるけれど、空気は変に浮ついていた。

「まぁ、さすがに次は必要ないだろ。明日で、全部終わりだ」

 話を真面目な路線に戻したと、声の雰囲気ですぐにわかる。私もそれに便乗して顔を引き締め、彼の方を見た。目が合って、そういえばと思い当たったことがある。

「薬研さんも、所有権の移譲をしておきますか? 明日の拘束の時までに、時間が取れるかわからないですし」

 彼の練度は九十だ。優先して権利を移しておきたい対象に入る。私の提案を耳に入れて、彼は困ったように笑った。

「俺は近侍だ。さすがにバレる」

 今日も就寝まで時間があるし、明日の昼まで審神者と目を合わせないのは、やっぱり難しいか。

「ううん、そうですね……では作戦遂行後に、他の人たちと一緒にやりましょう」

 この後はトイレを借り、入浴代わりの体拭きを済ませ、日の入りに合わせてかなり早く就寝した。
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