危険のない、簡単な仕事。
指定された時刻、私は転送ゲートを使ってひとり目的地付近に移動した。ここは目当ての本丸の外で、徒歩三分ほど離れた場所だ。あらゆる状況に政府が対応するため、本丸の内外には審神者の管理外のゲートが用意されている。こういうときにも、役に立つのだ。
今回の仕事は、政府との連絡を絶った本丸への訪問。そこの審神者が歴史修正主義者と通じている、と密告があったことが発端だった。
穏やかでない話に聞こえるが、実際は他のブラック本丸だとかの案件に比べて、安全で簡単な仕事だという。なにしろ、本丸の武力たる刀剣男士たちこそが、政府に審神者の裏切りを告げた味方なのだ。
彼らの所有権を審神者以外の人間に移して縁を絶ってくれさえすれば、自分達で元主を拘束するという。審神者に背くことへ抵抗を感じている者も、派遣された政府の人間へ危害を加えるつもりはないと意思確認が済んでいる。
そして現状起きているのは業務放棄、各種アクセス拒否、および管狐こんのすけの無力化。今日でこの状況発生から三日。普段であれば、腰の重い政府が直接人員を派遣するにはまだ早い段階だった。
前日の話だ。念のため、その本丸の政府連絡用以外の回線を遮断しながら、担当職員がコンタクトを取り、応答を待っていた。不具合が重なっていたのだ、とでも急ぎ連絡があればまだ始末書で済む。
そこに音声通信ではない、簡素なメッセージ機能へ反応があった。
『審神者は歴史修正主義者に寝返ろうとしている。本丸の刀剣の多くは是に従う意無し。協力求む』
これがその本丸から届いた最初の文章だった。
事情を聞けば送り主は長く近侍をしていた刀剣男士で、連絡機器の使い方がわかる唯一の存在だったために、代表して連絡を取ったのだという。審神者の目を盗んでやり取りしているらしく、以降こちらからの質問には短く答えるのみ。彼らの提案する作戦に協力し、人材を派遣してほしいという、半ば一方的な依頼だった。
審神者は今も、彼をそそのかした歴史修正主義者たちと連絡を取ろうとしている。政府側の通信妨害が功を奏している状態。急いでほしい。本丸の中に職員を手引きできる日時は明日の午前五時、九時、午後五時。××××××××。
指定日時と、担当職員に理解できない文言を最後に、連絡は途絶えた。
審神者が完全に寝返り、向こうの支援を受けてからでは確かに問題が大きくなりすぎる。解決を急ぐべきだ。
そして、刀剣男士たちには、主従という枷がある。強制には至らなくとも主命は彼らの心理に強く影響する。また、主人に直接の害が及ぶ行動も同様に心理的制限がされているため、乱暴や拘束はできない。外部の助けが必要だというのも、間違いなかった。
この連絡は本当に刀剣男士からのものなのか。審神者が人質目的で企てたことではないか?
末端職員がすぐに意見したが、いくつかの会議・検討を経て、連絡は刀剣男士からのものとほぼ断定された。連絡の最後に綴られていた謎の文章は、彼らと一部の職員しか知りえない事柄の一節だったという。機密事項により、私は知らない。
刀剣男士だと確信が持てるのであれば、彼らは善性の存在だ。人間よりはずっと信頼に足る。
審神者も職員も、命の危険については理解して職に就いている。戦時中のいま、彼らを信じて末端職員を派遣するのは、政府にとってリスクの少ない一手だった。
問題の本丸が見えてきた。一見して、空気は清浄とは言いがたいが、淀んでいるという程でもない。これは本丸内の刀剣男士たちの精神状態のバロメータとして、かなり信頼できる。人間に対しての悪意が強くないのなら、政府の期待通り、彼らはよい神様のままだということになる。私の身の安全への期待値も高まるというものだ。
現場職員用の、気休め程度の防刃スーツを撫でる。正直、緊張はしている。今まで、平和な本丸を訪ねる仕事ばかり担当してきたから。道具類を入れた鞄を体にぐっと寄せて、指定の場所まで回りこんだ。
時間は三つあった指定のうち、真ん中の午前九時だ。最初の指定時刻には、遠隔操作で偵察が行われた。刀剣男士がひとり現れただけだったと聞いている。
身を潜めていると、外壁沿いに歩いてくる小さな人影が確認できた。見知っている刀剣男士だ。私が立ち上がるより先に、彼がこちらへ目を留める。さすが短刀、隠れた意味なんてほとんどなかった。
現れたのは粟田口揃いの制服を着た、薬研藤四郎。すごく細身だけれど、存在感のある少年だ。その一切迷いを感じない眼差しが、私をずっと見定めているようだった。
薬研藤四郎に会うこと自体は初めてではない。でも、きな臭い案件を担当したのはこれが初めてだ。そういう本丸の刀剣男士相手だと思うと、妙に身構える。彼が口を開くと、落ち着いた大人の声がした。
「この本丸の、近侍の薬研だ。よろしく頼む」
私から目をそらさず淡々と名乗った彼に一礼をして、身分証明証を見せる。本丸を訪ねる洋装の人間なんて、政府の職員だとすぐにわかるだろう。だけど一応、「協力要請に応じて派遣された者です」と添えた。先程から私を見つめていた瞳が、少しだけ苦く細められる。
「しかし、娘か。こっちからの要望は見てくれたんだろうから、いいのか……?」
独り言とも聞かせているともつかないことを言って、彼は思案するような仕草をした。聞いた限り力仕事でもないし、何が気にかかるんだろう。後から大変なミスに繋がっても困るので、話は聞いておくことにする。
「なにか、要望に沿いませんでしたか?」
「俺たちが手引きするとはいえ、目立つ霊力の人間では難しい。なるべくおとなしいのにしてくれと言った」
危ない現場に慣れていない私が派遣された理由は、ここにあった。審神者も万能ではないが、異質なものが堂々近づけば気付かれる可能性はある。迎撃態勢を取られたら事態は大事だ。今回は、静かに平和的に解決するのが刀剣男士たちの希望でもある。普段は胸を張る話じゃないけれど、今日は霊力があまり高くないことが重要な条件だった。
「それなら大丈夫だと思います。審神者になれ、と熱心に言われなかったくらいですから……」
愛想笑いをする私の言葉にかぶせるように、さらりと衝撃的な話が続けられる。
「で、おとなしかろうと、流石にそのまま入れるわけにいかない。庭を抜ける間、俺の血を口に含んでもらう。できるか?」
初対面から五分も経っていない、非常時の薬研藤四郎。嘘や冗談を言う要素が全くない。
彼がなんと言ったか頭で反芻する。血を口に含む。……すごく物騒だ。
「えっ……ええ!?」
「できないと言われても困るがな。そっちも仕事だろう、割り切ってくれ」
音量を抑えながら、「そんな必要があるのか」の意味も込めた声をあげる。彼は聞き捨てて、迷いなく鞘から刃を抜き、親指を押し当てた。手袋を余計に広く切り、その裂け目から白い指と、痛そうな傷口を見せる。
娘にやらせるのは、こっちも気が引けるさ。ごく小さい声でそう呟いたのも耳に入った。支度を終えた薬研の、伏せられていた瞳がこちらへ向く。
「垂らすから、少し上向いて、口開けてくれ」
指先に血を集めるように腕や手を揉みながら、そう指示をする。私が躊躇する間にも、指からは一、二滴地面にしたたってしまった。
彼のほうが、私よりは霊力という概念に詳しいだろう。覚悟を決めるしかない。恐る恐る口を開き、ついでに目を閉じる。待っていると、頬にごつごつした手の骨の感触が添えられた。
生暖かい雫がぽたぽたと舌に落ち始める。いま口の中にあるのは、小さなスプーン一杯くらいの量の、血液だ。
独特のにおいを意識しないように、息を潜めて彼のほうを窺う。薬研藤四郎はよしと頷いて、私の手を引き歩き出した。裏手の小さな木戸から、中に入るつもりのようだ。普段はあまり使っていないのか、周りの外壁同様砂が吹きつけて汚れている。
戸をくぐる前に、薬研が私の肩をとんとんと叩いて、耳元に口を寄せた。
「驚いても飲むなよ。後で吐き出させるから、我慢しな」
頷いてみせると、彼がわずかに微笑む。離れたので囁き声は聞き取りにくいが、唇は単純な動きで内容を伝えた。
「わかったか。いい子だ」
少年の姿で、私に向かって兄のような顔をする。……噎せそうになるから、なんかやめてほしいと思った。
事前に地図を確認しているが、この本丸はかなり広い。現在味方になる全振りが揃っていても部屋があまるだろう。気配でなんとなく、侵入したこっちの方には今は刀剣たちがいないように感じられた。それについて解説はなく、静かに、でも足早に手を引かれる。
靴を持って、縁側から建物内へ入った。雨戸が閉まっている屋内はあまり陽が入らず、板張りの床が冷たい。人の気配がないせいで、私たちの歩く音だけがいやに気になった。
「ここだ」
一つの部屋の前で、薬研は足を止めた。他の部屋と外観の違いもなく、突き当たりでもない半端な場所だ。地図無しではこの場所を覚える自信がない。
彼に続いて入ると、色々な道具が畳にそのまま置かれている。隅には布団が畳まれている雑然とした部屋だった。薬研が襖をきっちり閉める。それから置かれた盆の上の水差しとコップを拾い上げ、注いで私に手渡した。
「すすいで、吐きな」
そばにあった木桶をついと指差されたので、頷く。指示通り、何度か口を洗った。刀剣男士の血を飲んでしまったら、正直なにが起こるのかわからなくて怖い。用意の良さを見るに、血を含ませるのは予定通りだったのだろう。その間、薬研は背を向けて簡単な止血処置をしているようだった。
お互い身の回りが落ち着いてから、正座で向き合う。
「この部屋で、仕事と休養を済ませてくれ。手狭で悪いが、ここは俺たちが全力で隠す」
私が持ってきた端末でマップを表示すると、彼が現在地にマークをつけた。次に全体表示に切り替え、ちょうど対極のあたりに大きくマルをする。この本丸の主要な部屋が集まっているあたりだという。審神者の私室もその近くにあり、元々こちらには足を運ぶことが少ないらしい。早く敵方に拾ってもらおうと連絡に躍起になっている今は尚更、部屋からほぼ出てこない。
仕事の詳細……実作業は主にふたつ。審神者の注意が逸れている刀剣たちから、所有権を一時預かること。また、その刀剣たちの手入れ。そのための資材を少量呼び出す札など、必要そうなものを倉庫から持ってきている。鞄の中身はその支給品だ。
彼ら刀剣男士は職員の身を守ることを政府に約束してくれた。人間の、審神者にさえ見つからなければいいのだ。だったら、小手先の便利道具もかなり有効だろう。
「念には念を入れましょうか。たしか頼まれた資材の他に、防音札も持ってきたはずです」
こういった札類は刀剣男士には販売されていない。私の霊力をごまかすため指の先まで切ってくれた彼に、少しは職員も役に立つところを見せるべきだ。鞄の中の道具袋を意気揚々と開け、私は、ぴたりと固まった。
「……どうした?」
不自然に手を止めたので、薬研が首を傾げる。
気まずい。言い出しづらい。走馬灯みたいに、過去の同レベルの失敗が頭に浮かんでいった。……黙っていても仕方ない。
「あの、大変、申し訳ありません。荷物を、間違えました……」
何度見ても袋の中に入っている紙には『期間限定・特別通行手形プラス資材取り寄せ札四種セット、御守つき!』と書いてある。少し前の特別任務のときに、審神者に向けて販売していたものの残りだ。在庫と持ち出し品を同じ倉庫に置くほうも悪いが、間違えた私も相当まずい。袋の形と厚みで資材札が入っているのはわかるからと、確認もせず手にとってしまったのだ。
薬研が手元を覗き込んで「特別通行手形」と呟くのが、ひどく居たたまれなかった。私の顔を見て、苦笑じみた笑い方をする。
「気にするなって。資材は入ってたじゃねぇか。これで誰かの手入れをしてやってくれ。うちの備蓄に手をつけると、気取られるかもしれない」
はい。そういう意図で資材を持ってくるよう頼まれていたのは、承知しています……。というか、つまり頼まれたのは資材だけなので「防音札とかあるんですよ」なんて言わなければバレなかった失敗だ。
あまりに落ち込む私を見て、彼はいよいよ面白くなってしまったらしい。今まで事情のせいか、どこか憂鬱そうな雰囲気をしていた薬研藤四郎が、声を抑えてくくく、と笑い出してしまった。
このほうが、一般的な薬研らしくて健康的でいい。笑う理由が、私の失敗でさえなければ。
「もうやけです。弓矢とか飛んできたとき、きっとこの通行手形が私を守ってくれるんです」
資材札を取り出し畳に置き、ひらたくなった道具袋をスーツの懐に突っ込む。古くから聞く話だ。胸ポケットに入れていた手帳や端末で、銃弾を防いで助かった話。それを彼が知っているかは知らないけれど、楽しそうに瞳を細めていた。
「はは。大将の側にいる極の前田と平野は、特上銃兵を二つずつ積んでるな」
「……ダメかもしれません」
「あんたはここに隠れてりゃいいんだ。余計な心配だよ」
素早さと小回り、銃兵刀装を評価して極の短刀を警護につける審神者は少なくない。その二振りは所有権の書き換えが出来ないだろうから、大変なのは審神者を拘束する係だ。短刀二人も、悪意ある主命で仲間を傷つけてしまえば、心に穢れを溜めかねない。
作戦の主旨は、この本丸の武力を大勢政府側へつけて、やり合えば勝ち目がないと審神者に悟らせ降伏させること。ここの刀剣男士たちは、仲間や主人を傷つけたくないという、優しい神様だった。
その願いを叶える手伝いは、今私にしかできない。陰からしか力になれないけれど、やれるだけやろうと思った。
薬研がまた表情を仕事のそれに戻し、立ち上がる。さっき笑ったところを見たからか、冷めたような薄紫の瞳で見下ろされても、もう警戒心は湧かなかった。
「さて、そろそろ朝の報告会が終わる。俺は一度行かなきゃならないが、この後刀連中が何組かに分かれて来るだろう。気配でわかるな?」
「はい。審神者と刀剣男士の区別くらいはできます」
「よし。午後五時には俺もまた来る。……皆を頼む」
薬研は軽く会釈をして、部屋から出て行った。これから、長い仕事が始まる。