このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

【連載】模造刀を買ったら薬研が顕現した話



 いやな夢を見た。リアルで、精神的にくるタイプの夢だ。

 定時で仕事を終え、いつも通りの時間に家に着くのだが、部屋が暗い。薬研がバイトしている八百屋も閉まっている時間だし、出かけているとは、考えにくいのに。
 ドアを開けた先、見慣れていたはずの真っ暗な室内に怖気付く。こんなに、次のドアも見えないほど暗くなるものだっただろうか。最近いつも明るかったから、思い出すことができない。
 薬研。暗闇に向けて一度呼びかける。寝ているなら、気配や声には気がつくほうだったはずだ。しんとした部屋が不気味で、私は焦れながら生活のほとんどを過ごす部屋へ向かい、明かりをつける。
 何の変哲もない、一人暮らしの自分の部屋がそこにあった。薬研と暮らし始める前の、一人で暮らしていた部屋だ。
 壁にかけていた、薬研の戦装束がない。彼のために買った服も、日用品も、何ひとつ無い。
 薬研、ともう一度声に出してみるが、当然誰もいない部屋からの返事はない。いやに早く事態を理解して、どうしようもない絶望感で満ちていく。
 薬研がここにいたなんて、夢だったんだ、と。



 体を揺すられて、跳ね起きるんじゃないかというほど驚いた。びっくりしすぎて、どこを揺すられたのかももう思い出せない。目元がかなり濡れていて、どっどっ、と心臓が荒く脈打っている。ベッドの傍らでは、薬研が陽の光を浴びながら、心配そうな顔を向けていた。
 部屋着は私のお古のまま。華奢な体つきで、病弱そうな色白で、さらさらの黒髪に寝癖が少しだけついている。うちで暮らしている、薬研藤四郎だ。

「大将。寝苦しそうだったから、予定より早いが起こしたぞ」
「……ありがとう」

 夢の内容がああだっただけに、薬研のいる場所を、気配を、噛みしめるように確認する。まだ現実感がなくて、今この状態こそ夢かもしれないと本気で疑う。せっかく目を拭ったのに、余韻で泣いてしまいそうになった。……堪えたけど。
 なかなか気持ちが切り替えられずにいる私を、薬研はじっと見つめていた。

「具合でも悪いのか。会社、休むか?」
「ううん。嫌な夢、見ただけ……。心配させてごめんね」
「嫌な夢……」

 復唱して、薬研がほんの少し目を眇める。いい大人が悪夢でこうも気遣わせて、恥ずかしい。
 確かめたい、という個人的な欲求もあって、薬研の二の腕あたりをぽんぽんと叩く。私のぎこちない笑顔に合わせて、「朝飯できてるぞ」と笑ってくれた。


「初対面のときも思ったんだが、あんたは、よく夢を見るんだな」

 小さなテーブルで向かい合って、白米と味噌汁、残り物が並ぶ朝食をつつく。その途中で、薬研が口を開いた。視線を上げると、やはり薬研は話すとき相手の目を見ている。特に彼から目立った喜怒哀楽を感じない、静かな雑談だった。

「そうかな?」
「俺は見ない」
「なら、薬研よりは見るね」

 初めて会ったとき、あまりの都合の良い状態に、私は正面きって「夢か」と言ってしまった。こんな綺麗な男の子が、好きなキャラクターの格好をして側に座っているんだ。そりゃあ、誰でもそう考えると思う。そうじゃなければ、有料の予約制サービスだ。
 すすった味噌汁のお椀を置いて、薬研の喉が上下する。生身の人間らしさを感じると、今日は妙に安心した。

「今朝みたいに、悪い夢を見ることも多いのか」

 うなされている姿なんて見せたせいで、薬研の意識に引っ掛かってしまったらしい。掘り返さず忘れてしまいたかった気もするけれど、話題に出てしまうなら仕方ない。心配してくれてるのかもしれないし、好奇心なのかもしれない。どちらにせよ、私は薬研に甘かった。

「今朝みたいにっていうほどじゃないけど……。仕事に遅刻する夢を見て飛び起きたり、失敗する夢見て嫌な気分になったりはするよ。誰でもあるんじゃないかな」
「そうなのか」

 夢を見ないという薬研には、どういう感じなのか全然伝わらない様子だった。私がそうと言ったものを、そのまま信じてくれてしまう。

「嫌な夢にもドキドキするけど、その分楽しい夢を見たら、すごく得した気分になるよ。普通じゃできないことが出来たり、行けない場所に行けたり」
「へぇ」
「空を飛んだり……、あっそうだ。薬研がうちに来る前に、薬研の夢を見たこともあるよ」

 近年の嬉しかった夢といえば、それしかない。薬研の夢なんて見たら、起きて五秒で詳細を呟いて記録する。
 薬研はぱちぱちと瞬きをしたが、特にコメントはしなかった。……いいことのつもりで思いつくまま言ったけど、気持ち悪かっただろうか。冷や汗をかきそうになる。薬研は気にした様子もなく、おかずを口に運んで飲み込んだ。

「起きてる間の出来事と、区別はつくのか」
「寝てる間はわからないかな……。起きてみれば、ほとんど現実じゃありえないんだけどね」

 何か考え込むように、会話が途切れるたび薬研の視線が落ちる。今日はなんだか、薬研もいつもと少し違った。黙って思案する姿は、見た目通り知的で物静かだ。
 観察していると、視線を上げた薬研とばっちり目が合った。ご飯の残りをかきこむ姿で、印象はすぐに「薬研」に書き換えられる。動くと彼の仕草はだいたい雄雄しい。

「……決めた。今日は夢についての本を読んでくる」
「あ、図書館行くんだね。気を付けて」

 今日の予定をわかった時点で教えてくれるあたり、律儀だ。私のいない時間くらい、好きに過ごしてくれていいのに。
 すっかりお皿を空にした薬研は、箸を置いて、私が食べ終えるのを眺めて待っている。

「どんな言葉でも、検索すると山ほど本があるんだ。いい夢だけ見る方法が書いてあるかもしれない」

 微笑みかけられて、逆にこっちの微笑みが強張ったような気がした。
 薬研は好奇心旺盛なほうで、本人の気を引いたもの、必要なことは細かに知ろうとする。でも薬研は、夢を見ないと言った。……興味だけじゃなくて、私のため、なのかもしれない。



 いつも通り玄関で薬研に見送られ、家の扉が中から施錠された音を聞く。薬研が私のために調べ物をするかもしれない、と思って、なぜか素直に喜べなかった。悪夢を見ないようにと私のために考えていてくれる薬研に、私が真っ先に思ったのはなんだ。

 そんなことをしてくれるのは、私が薬研の主だから?

 優しさの理由まで知りたがるなんて、きっとわがままだ。でも考えずにはいられない。すごく喜びたいのに、彼にとっては仕事みたいなものなのかもしれないと思えば、曇ってしまう。

 薬研に悪いから、彼に特別な気持ちを抱いちゃいけない。そういう常識人ぶった言い方もしたけれど、私がはずむ気持ちを抑えてしまうのは、たぶんそれだけが理由ではない。
 薬研に悪い、と思うのは、困っている彼の顔が浮かぶから。私の一方的な好意なんだと気付く瞬間が、怖くないはずがない。優しくしてもらえるのが忠義のためだけだと、思い知らされたくない。

 悪夢の内容だってそうだ。私は、突然理屈もわからず現れた薬研が、突然消えてしまうことをすごく恐れている。……そのうえ彼に特別な気持ちを持ってしまったら、そのときに失うものが多すぎる。

 純粋に薬研を気遣うなら、伝えるかどうかの段階でしか影響しないはずだ。嬉しいことをただ嬉しいと、好きだなと感じる気持ちをそのままにできないのは、私が臆病だからだった。

 今朝見た夢は、私が何を怖がっているのか気付かせた。


   ◆

 会社の都合で、いつもより早く帰れることになった。まだ夕方といえる時間に最寄駅へ降り立って、ふと思いつく。もしかすると、まだ薬研が八百屋で手伝いをしているかもしれない。
 薬研は休日はアルバイトに行かず、私と一緒にいることが多い。というか、図書館内別行動以外、一緒にいなかった例が思い当たらない。だから薬研が働いているところを見たことがなかった。

 商店街の人混みを一人ですり抜け、よく通っていた八百屋を目指す。聞き慣れた声が聞こえた気がして、店の少し手前で足を止めた。
 黒のTシャツに膝下丈の半ズボン、頭にタオルを巻いて手には軍手をはめて、美少年はそれはもう多くの奥様に囲まれていた。平日のこの時間帯に八百屋に来ることがほぼないので、この混雑がいつも通りなのかは分からない。でも薬研が人気者なのは遠目にもなんとなく伝わってくる。というか、頭のタオル可愛い。いつも真ん中に垂れている前髪が分けられている。おでこ可愛い。
 旧式のレジを打ち込んでいる八百屋の奥さんが、店先で空のカゴを片付ける薬研に声をかける。

「藤四郎くん、ほうれん草いくらだったっけ?」
「あー、九十円!」

 売り場の方を見て、振り返った肩越しに大きな薬研の声が通った。棒立ちで遠巻きに眺めていた私を、薬研の瞳が捉える。わりと驚いた顔をしていた。

「おっ。えーと……姉ちゃん。帰り、早いな」

 薬研が声をかけてくれる。姉ちゃん。そういえば、そういう設定もあったなぁ。
 それぞれ野菜を選んでいた、様々な年齢の奥様方が何人か私の方を見る。やっぱり薬研は多少注目を集めているらしい。

「俺は半で上がることになってる。せっかくだから……十分待ってくれないか」

 一緒に帰ろう。そう続けられたことが、妙に嬉しかった。



 野菜をたくさんおまけしてもらった大盛りの夕食を終え、食休みに二人でテレビを見ていた。ドラマのいいシーンには興味がなさそうで、薬研は席を立って台所の方へ向かう。ガサガサと袋を鳴らしていたので、おやつでも買ったのかもしれない。
 彼がお湯を沸かした後に香ってきた匂いは、いつもの日本茶ではなかった。二人分の湯呑みに注がれるお茶は、薄い黄色をしている。

「この茶には気持ちを落ち着けて安眠を促す作用があるらしい。寝る前にどうだ」

 言われてみれば、ハーブティーの類の匂いだった。薬研とハーブティーとは、なんだか珍しい組み合わせだ。安眠という言葉が出たところを見ると、今日の図書館での成果らしい。

「薬研、お茶屋さんに行ったんだ」
「広い意味で言えば、薬みたいなものだよな。結構楽しかった」

 先に湯呑みへ口をつけた薬研が、変わった味だと呟く。確かにハーブティーは好みが分かれるし、薬と言って出されたら昔の人は納得しそうだ。ありがとう、いただきますと言って私も一口飲む。薬研が私のために買ってくれたものだ。是非効いてほしい。
 湯呑みの中身を揺らしてから、薬研はさっと飲み干した。熱くないのかなと様子を窺った先で、視線が合う。

「大将は『薬研藤四郎』をどう思う? あんたが好きだっていうほうの、薬研藤四郎の話だ」
「え?」

 突然の質問に思わず疑問の声を出してしまったが、聞き取れなかったわけじゃない。薬研は、私が以前から好きだった薬研と自分を、完全に別物だと思っている。だから、こういう訊き方になるのだ。
 今まで夢中になってきた画面のなかの薬研と、目の前の薬研。頭の違う部分同士が、その二人は別だ、同じだと主張しあっているような感覚があった。目の前の薬研は容姿から性格まで、画面の中の薬研ありきで存在している。でも、彼はもう画面の中の人物ではない。色々知って、変わっていく。

「……有名な逸話があるでしょ。主人に自害をさせない、縁起がいい刀だっていう。それを元にした人物像だから、あっちの薬研も薬研と同じで、持ち主を守ってくれるような、頼り甲斐のあることを言うんだよ」
「そう思ってるなら、話は早いな。俺も似たようなもんだ」

 急須に残っていたお茶を、薬研が二人の湯呑みへ交互に注ぐ。ことりとテーブルへ置かれた陶器の音が、なぜか緊張している今の気持ちを揺さぶった。
 薬研は、話をするとき目を見る。その不思議な色合いを向けてくる薬研には、私に話したいことがあるのだ。

「大将を狙う敵がいないのは知ってる。ただ、だからあんたに護りが必要ないかといえば、そうは思わない。
そりゃ専門は戦だが、それ以外だって構わないんだ。あんたを護るために控えてることを、忘れないでくれ」

 薬研との関係に少し考えるところのあった私には、胸に刺さるような話だった。
 私、なにか薬研に言ったっけ。思い返してみるけれど、特別いつもと違うことを言った覚えはない。私の中だけの葛藤なんて、わからないはずだ。

「……そんな改まって、どうしたの」

 普段通りの態度を心がけて、逆に問い返す。薬研の眼差しはまっすぐ私に向けられていて、受け止めるほかなかった。


「──俺が大将の助けになろうとすると、あんたはいつも遠慮する。俺には、あれこれ施そうとするのに」

 薬研の口から出た言葉にどきっとする。
 だって、薬研はここに住むしかない状態で、主と呼ぶ人を選べたわけでもない。戦うことも出来ない、馴染みのない時代で暮らす彼の助けを出来るのは私だけだから。
 私の無意識の引け目は、薬研にも伝わっていた。こちらを覗き見るように顔を傾げて、前髪がひとすじ目の上を横切る。それを気にもしないで、彼は私をじっと見つめていた。

「俺はいつまでも、あんたにとって転がり込んだ居候のままか?」
「そんな、居候なんて、思ってない」

 彼への扱いが、居心地の悪さに繋がっていたならと思うと肝が冷える。少しでも負担がないように……この暮らしが嫌にならないように。出来るなら、人として気持ちよく一緒にいたいと、思っている。
 焦って答えた私へ、薬研はやわらかく微笑んで、うん、と小さく頷いた。責めているわけじゃない、わかっている、とでも言うみたいだった。

「俺とあんたは、そんなに淡白な仲でもないだろ。……そろそろ、気を許してくれやしないか」

 な、と同意を求められて、目の奥が少し熱くなる。泣いたりなんかしないけれど、薬研の言葉は、ちょうど隙間をかいくぐるような言葉だった。

 洗うから、冷める前にさっさと飲んじまってくれ。こうして急かしたり、帰りを待たせる言葉が嬉しいのは、私をただの主だと思っていないように聞こえるからだ。

 その晩は、薬研の夢を見た。二人で、駅前の喫茶店に入る夢だった。
6/10ページ
    スキ