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【連載】模造刀を買ったら薬研が顕現した話

 独特の臭いがする病院の中、ふらふらした足取りで廊下を進む。二つの理由で、足元が覚束なかった。
 待合室に戻ると、コートを腕に抱えた薬研が、こちらをじっと見つめて待っていた。マスクで顔の半分が隠れていて、目で私の報告を促している。

 昨日から少し不調ではあったが、朝起きた瞬間に「これはまずい」と思った。目元が異様に熱くて、体がだるい。喉も腫れぼったい感じがする。恐る恐る熱を測れば、朝方なのに三十七度後半だった。この後、さらに高熱が出そうだ。
 軽く朝食を済ませると、とりあえず自分と薬研にマスクを装着。少し待ってから会社に欠勤の連絡を入れ、病院に行く支度をした。そうこうしているうちに、徐々に熱は上がっていく。そんな私を心配して、薬研も病院に付き添うと言って譲らなかった。
 一人でも歩けるけれど、高熱のなか外へ出るのが心もとないのは確かだ。薬研は歩調を合わせて、私の隣を歩いてくれた。

 こうして一緒に近くの病院へやって来て、診察を受けた。これが今朝から今までのことだ。
 診断結果を聞いてから、私は今後の不安と対策で頭がいっぱいだった。待っていた薬研の顔を見て、申し訳ない気持ちが湧き上がってくる。すごく迷惑をかけてしまうだろうと、わかりきっていた。

「本っ当に、ごめん薬研……。風邪じゃなかった」
「まさか。どう見ても病人だぞ」

 頭を下げた私に、薬研の驚いた声が降ってくる。風邪じゃない。健康体だと言われたのではなく、もっと悪い結果だったのだ。

「インフルエンザ。……高熱が出る、風邪みたいなやつで、人にうつしたら、すごく大変なの」

 問答無用で出勤停止、ノロウイルスに並ぶ要注意の感染症。横文字じゃピンと来ないだろうと、簡単な補足を添えた。薬研は眉を寄せて、神妙に頷く。

「……ひどい風邪ってことか。そりゃ大変だ」

 大変だ。何がって、あの狭い部屋で私が自宅療養していたら、薬研にうつしてしまうかもしれない。そして、仮に感染するからといって、私達と同じ薬が効く保証はない。
 うつさないために、寝室の外で暖かく寝てもらう方法はあるか。他に気をつけられることはないか。さっきからそればかり考えているけれど、高熱で頭がぼんやりして、全然まとまりそうにない。診察室で今すぐ使うよう言われてなにか粉薬を吸入したが、すぐに熱が下がるはずはなかった。
 薬研に腕を引かれて、そのまま隣のソファに腰掛ける。足腰がだるいので、座ると沈むみたいに立つことが億劫になった。きれいな目が気遣わしげに覗きこんできて、手の甲に冷たい手が重なる。

「大将。早く帰って寝たほうがいい。薬はあるのか?」
「これ……。この紙をあそこの窓口に持っていったら、買える」
「わかった。財布、借りるぞ」

 薬研は抱えていたコートを私に掛けて、処方箋をひったくる。思わず顔を見ると「待ってろ、使いくらいできる」と言われ、頭を軽く撫でられた。あとなんだっけ、財布……。言われたことを頭で反芻して鞄を探り、薬研に手渡す。
 軽い足音が離れていくのを聞きながら、生暖かい目蓋をおろした。


 帰り道のことは、あんまり印象に残っていない。普通に歩いて帰ってきた。コンビニで何か食べ物を買おうと思っていたのに、寄るのを忘れてしまったことを思い出す。消化によさそうなものは、買ってこないと家にはない。
 怖いもの見たさで、ひとまず朝より上がった気がする体温を測った。

「うわ、三十九度……」

 私の呟きを聞き取って、薬研が額に触れてくる。その熱で彼は顔をしかめ、マスクの中で息をつく。

「さぁ、着替えて、横になってくれ。タオル使うぞ」

 何か世話を焼いてくれそうな様子で、薬研は部屋を出て行った。台所のほうでは勢いの良い水の音がする。私の着替えもあるから、気を遣ったんだろう。
 薬研の言うとおり、外出着から部屋着に着替えて布団にもぐりこむ。節々が痛くて、こうして寝ている以外本当に何も出来なさそうだった。スマフォを見る気も起きないのだから、我ながら重症だ。
 そのうち戻ってきた薬研が、濡れタオルを手渡してくれた。顔が冷やせて気持ちがいい。ふう、ふう、と吐息の音が聞こえてタオルをめくれば、薬研がマスクをずらして、湯呑みの何かを冷ましていた。それを見て、薬研に話をしなくちゃ、と意識が少しはっきりしてくる。

「白湯だ。胃のから温めたほうがいい」

 重い体を起こして、湯呑みを受け取り口をつける。喉からじんわり、お腹まで白湯が流れていくのを感じた。

「ありがとう。……薬研」
「なんだ?」

 横目に見た薬研は、優しく微笑んでいる。言い出しづらいけれど、仕方ない。薬研のほうに顔を向けて、もう一度しゃっきりしようと自分を奮い立たせる。

「軽い風邪なら会社に行っちゃう人もいるけど、インフルエンザは絶対に休む規則なの。だから私、何日か家でこうして寝てると思う」
「あー、その、イン……。それに限らず、あんたはふらふらだ。休んで当然だろう」

 何か頼みごとをされると思っていたのか、私の休む宣言に薬研は拍子抜けした様子だった。インフルエンザが言えていない。相変わらず、長めの新しい単語は苦手らしい。

「それであの、図書館開いてる時間だけでも、私のそばにいない方がいいかも」


 薬研の表情が、すこんと落ちたように無になった。私が言ったことが聞こえなかったのかも、と思えるような、何の反応もない顔だ。追い出すみたいで悪いけど、と続けると、やっと薬研に表情が戻ってくる。眉根を寄せて口を引き結ぶ顔は、どう見ても不愉快そうだった。

「……何言ってんだ」

 わ、こわい。幼さの残る容姿でも、声は立派に成人男性のそれだ。怒りを込められたら十分な迫力がある。弁解が要りそうな圧力を感じて、私は弱気ながらも口を開いた。

「同じ部屋で寝なくちゃいけないってだけで、うつしちゃうかもしれない。せめて昼間くらい、離れた方がいいと思って。平気だよ、私元々は一人暮らしだから」

 手の中の湯呑みを回収して、薬研がこちらをじろりと見下ろす。

「余計なこと考えてないで、寝てくれ。……そうだ、昼飯とか、どうするつもりなんだよ」
「それは……、ごめん。コンビニで買ってきて、置いといてほしい……」

 強い語気の薬研に情けない返事をすると、思い切りため息をつかれてしまった。帰りにちゃんとコンビニに寄ってればこうはならなかったんだけど、後悔しても遅い。
 病院から帰ったままの服装だった薬研が、上着を取って袖を通す。黒のPコートは最近寒くなったから買ったもので、彼によく似合っていた。薬研のほうを見ていると、こちらを流し見た瞳と目が合う。

「……俺は買出しに行く。昼まで、寝ろよ」

 有無を言わせない言い方で、今日何度目かもわからない「寝ろ」とのお言葉を頂いた。不機嫌そうな薬研は本当にさっさと支度をして、玄関に向かう。普通に閉めたドアの音が、少しだけ荒いように聞こえた。
 かわいそうだけど、インフルエンザの人間と同じ部屋にいるよりは、薬研にとってずっとマシなはずだ。コンビニで買ってもらいたい物を伝えなかったけど、薬研は何を買ってくるだろう。この際、焼肉弁当とかを買ってきたとしても、気持ちごと頂こう……。


 すぐに帰ってくるはずだから、起きて待っていようと思った。何もしないで横になっているせいか、案外長く感じる。そうして待っているうちに、私は眠ってしまったようだった。
 目を覚ましたら、額に生ぬるい濡れタオルが乗っていた。横目にテーブルを見たが、何も乗っていない。部屋の外から人の気配がして、なにか独特な匂いが漂っていた。

「薬研? 何か作ってるの……?」

 まだ昼食を食べていないので、症状を抑える薬は飲んでいない。口を開いたら、思った以上に喉が腫れていて、病人っぽい声が出た。マスク越しのこんな声、台所まで届かないかもしれない。
 薬研は部屋の入り口まで来て顔を覗かせ、その心配を蹴散らした。家を出たときの険しい表情はなく、いつも通りの気遣いを感じる声色だ。

「ああ、大将起きたのか。腹はすいてるか」
「少しだけ……」
「粥を作った。俺も食べるから、てぇぶるで待っててくれ」

 この匂い、お粥なのか……? と少し心配になったけれど、出てきたのは普通に美味しそうなお粥だった。薬研にしては細かく刻んだにんじんや白菜が入っていて、出汁の粉の匂いがする。部屋に香ってきた匂いとは、少し違う。目の前に置いてもらうと、急にお腹がすいたような気がした。

「お昼、作ってくれたんだね。ありがとう」
「俺は普段から、昼飯は買わないからな。まとめて作った方が安上がりだ」

 私が食べるのを待っている感じがする。初めて作ったメニューだからだろうか。視線がちょっと恥ずかしいけれど、匙に手を伸ばして、口元に運ぶ。野菜と卵の優しい味がした。

「おいしい」
「おっ、そうか。……ん。味薄くないか?」

 続けて食べた薬研はあまり納得がいかなかったらしい。なにか冷蔵庫のおかずと一緒に食べることを勧めておいた。
 お皿一杯分のお粥を食べ終え、処方された薬を飲んで、少しお腹が慣れるまでベッドに寄りかかる。温かい物を食べて、いっそ熱いくらい体が温まった。
 薬研が席を立って持ってきたのは、白湯、ではなかった。さっき嗅いだ匂いの正体だとすぐにわかる。これは? と訊ねる私の前に、薬研は湯呑みを置いた。

「生姜湯だ」

 なるほど、お粥と生姜湯の匂いが混じって、不思議な匂いになっていたらしい。砂糖か何かを入れてくれたようで、甘い匂いもする。

「不思議なもんだなぁ。刀の頃に作り方を聞いたわけでもないのに、わかるんだ」

 生姜をすり下ろしただけ、だけどな。そう続けて、薬研は笑った。一口飲む。生姜湯はピリッとして、甘くて、温かい。
 ひとに看病してもらったのなんて、学生の頃以来だ。風邪で一人寝ていた時のことを思い出すと、随分違う。なんというか、ちゃんと療養しているという感じがした。


「……薬研、この後図書館に行く?」

 伏せていた目をそろりと薬研に向けると、薬研は頬杖をついて、わざとらしくため息を吐いた。不機嫌というよりは、呆れているような顔だ。

「素直な方が可愛げがあるぞ、大将」
「かわ、ちょっ、もう……」

 何を言うんだこの子、と挙動不審になってしまったが、私も冷静になるべきだ。可愛げ、であって、可愛いと言ったわけじゃない。
 薬研は私の反応をほんの少し笑ってから、じっと見つめてくる。

「正直に言えば、俺は珍しくあんたの世話が焼けて嬉しいんだ。あんたは、どうしてほしい? 俺がいない方が、気が休まるか?」

 訊ねる薬研は、それを真面目に言っているんだとわかった。
 私はこれから眠って、目が覚めても布団の中で大人しく過ごして、薬が効くのを待つ。さっき目が覚めたときは台所で人の気配がして、小さな声でも薬研が気付いてくれて、温かい食事をとらせてもらえた。
 腫れて痛む喉のすぐそこまで、言いたい言葉がつっかえている。

「本当にうつってほしくない。だから、マスクはずっとしてて。換気もして。……でも、薬研が家にいてくれたのは、嬉しかった……」

 薬研のほうをまともに見られない。少し長く話しただけで声は悲惨なほど掠れて、自分にも聞き取りづらかった。ちらりと窺った先の薬研はどこか嬉しそうで、私はますます気恥ずかしくなる。

「ん。寝るまでここから見てるから、寝ろ。寝たら、台所にでも出て行ってやるから」

 そう言うと彼は立ち上がり、私物唯一の鞄から、模造刀を取り出した。いつも彼の管理下にあるので、久しぶりに見た。いわく彼自身であるというそれを、私の枕の上に、横向きに置いてみせる。

「枕刀。病のときに枕元に守り刀を置いて、悪いものから病人を守るんだ。どうだ、俺は役に立つだろう?」


 役に立つなんてものじゃない。当たり前みたいに傍にいてくれることがどんなに嬉しいか、薬研はわかっているんだろうか。
 病気のせいか、目が潤みそうになってしまった。ごまかすように、ベッドに登って布団を首まで引き上げる。薬研はテーブルのところで、図書館の本を取り出してこれから読むつもりのようだった。私と目が合って、薬研は柔らかく笑った。

「おやすみ、大将……」


   ◆


 きちんと処方された薬を飲んで、よく寝て食事もして、もう熱っぽさも無くなった。薬研が寝ていろと言うのでまだベッドの中だけど、さすがに明日からは家の中でくらい動いてもよさそうだ。
 上半身を起こしてスマフォをいじっていると、玄関の扉が開く音がした。買い物に行っていた薬研が帰ってきたんだろう。寒さで指先を赤く染め、コンビニ袋をがさがさと鳴らしながら、部屋へ入ってきた。

「大将、大分良くなったか? プリンとゼリー、買ってきたぞ」
「わー、食べたい。ありがとう!」

 食べるときくらいはベッドから出ても何も言われない。布団をよけて、すぐにテーブルの前に座る。薬研は台所でなにかしていたので、私は袋から二つを取り出し、片方を薬研の位置に置いた。たぶん、私の好きな方を選ばせてくれるだろう。勝手にプリンを選んで、手を合わせてからフタを開けてしまう。

「あっ。こら、大将。冷えるだろ、白湯待ってろ」

 ……部屋を覗いた薬研に叱られてしまった。大人なので、言うことをきいて彼を待つ。
 戻ってきた薬研は湯呑みをすぐに渡さず、マスクをずらして、息をふう、と吹きかけた。思わず「あれを飲むのか」と妙な緊張が走る。

「やげん。あの、私、自分で冷ますから」
「なんだ、いきなり。ずっとこうしてたろ」


 言われてから、この光景を見るのが初めてじゃないと気がついた。

 あれ、私、ずっと薬研に飲み物冷ましてもらってから受け取ってた……?
 あまり覚えてないけれど、直近のことだ。思い出そうと頑張れば、いろいろあった気がしてくる。病院で、なんか薬研のコート羽織らせてもらったかもしれない。あと、家でも何度か、おでこを触るついでに頭を撫でられたし、立ち上がるときに手を取ってもらった、ような。

 自分がどさくさに紛れて薬研にとんでもなく甘えていたことに、今更気がついてしまった。三十九度も出ていたのだ、正気じゃなかったと言えなくもないけれど、今思い出すと恥ずかしいことばかりだ。
 動揺するそばから、薬研が額に冷たい手をあててくる。「まだ熱があるんじゃねぇか」なんて言ってくるが、それはベタな勘違いだ。たぶん余計に体温が上がるので、手は引っ込めてもらった。薬研は外から帰ったばっかりだから手が冷えてる。そう言えば、納得してくれた。

 プリンを少しずつ口に運ぶ。甘くておいしいが、どうも味わうことに集中できなかった。横目に見た薬研は、大きなスプーンでみかんを掘り出している。
 勘がいいのか、薬研はすぐに視線に気がつく。私のほうを見て、左手でついと指をさす。

「大将、白湯飲めって」
「あ、ごめんなさい。……熱っ」

 慌てて口をつけた白湯はまだ冷めていなくて、舌の先がやられてしまった。薬研の目が、言外に「それ見たことか」と言わんばかりだ。

「俺が冷ましてたの、止めなきゃ良かっただろ」

 言った……。
 プリンを口に運んで、火傷しかけた舌に乗せる。そこだけ味がわかりにくくなってしまったし、ひりひりした。少年に世話を焼かれて、甘えて、呆れられている成人女性。こうして文字にすると、結構ダメな感じがする。

「大将、舌平気か。ほら、見せてみろ」

 薬研が手本みたいに赤い舌を見せてくれるが、さすがに遠慮した。


 いつもの定位置に二人とも座って、いつも通りに喋りながらおやつを食べているだけ。初めて食事したときから距離は変わらないのに、なんだか色々、近くなった気がする。薬研も躊躇せず私に近付くし、私だって、ついうっかりそれを当たり前みたいに受け取ってしまった。

 なんか、これ、ダメなんじゃないかな。
 それとも、「ダメなんじゃ」って感じる私が、意識しすぎてて一番ダメなのかもしれない。

 体はすっかり元気なのに、考えすぎて熱が出そうだ。「薬研藤四郎」が身近にいて、当然のように格好良くて……私はちゃんと、彼の保護者になれるだろうか。
 薬研の気持ちを裏切りたくない。初めて、薬研に対してブレーキを踏む審神者の気持ちがわかってしまった。
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