【連載】模造刀を買ったら薬研が顕現した話
最近、薬研はいつも機嫌がいい。あと、何かにつけて声をかけてくれる……気がする。以前がそうじゃなかったわけではない。ただ、前よりもそう感じることが多かった。
私はどうも、その必要のない時に薬研がこちらを気にかけてくれるシチュエーションが、かなり嬉しいらしい。こう言うと、なんだか余計に気を遣わせているようにも思えてくる。けれど当の薬研は、面白いことを見つけた子供のように、そっと宝物でも見せるみたいに、いつも声を掛けてくれた。
「大将、味見してくれないか」
駅まで迎えに来てくれた薬研とふたりで帰宅して、早々に彼がコンロへ火を点ける。片手鍋の中身は、薬研が最近練習中の煮物だろう。
「はーい」
「今日こそ、たぶん丁度いいぞ。色がいい感じだ」
味見もなにも、この後すぐ夕食なので味を手直ししてもう一度煮ることはほぼない。ほとんど、ただのつまみ食いだ。薬研が菜箸で芋を割って、半分私の口へ運ぶ。あまり薬研の方へ開けた口を向けないように気を付けて、横から迎えにいく感じで食べた。火は通っている。味は、ちょっとだけ醤油がつよい。続けて薬研も、割ったもう半分の芋を食べる。まぁまぁか、と言っていた。これだって、今まではしていなかったことの一つだ。
ちょっとこれ見てくれと、へんな形の野菜を持ってくる。帰りにコンビニに寄ろうと言って、デザートコーナーを冷やかす。ひよこの形のケーキが昨日売ってたからなんて理由で、必要な買い物がない時もある。どれもささやかな、なんて事のない変化だった。
でも、初めて会った頃はもっと、訊いたことへきちんと答えて、わからないことを尋ねてくるような、シンプルな間柄だった気がする。少しずつ、お互いが望んで一緒に暮らしているような感じがしてきて、随分仲良くなったなぁと思った。
このところ薬研が現代関係で困るような出来事もなく、私たちの生活は平穏だ。ずっとここで生きてきたみたいに、自然に過ごしている。
守り刀の薬研にとって、主人の側で無事を見守るのは本人の望みのはずだ。私は、薬研が本心からここに居たいと思ってくれるのであれば、なるべく長くこうしていたいと思っている。現状維持ができたなら、少なくとも私は、幸せだった。
夕食後、薬研の後頭部越しにぼうっとテレビを見ていたら、メッセージアプリの通知音が鳴った。薬研がちらと一度振り返るけれど、私のスマフォだと仕草で伝えて確認する。
内容は、少し不安のよぎるものだった。私がというか、伝えたらまた、薬研の表情を多少曇らせるんじゃないかと思った。
連絡をくれたのは同僚の女性。この間の合コン代役ニセモノ男の件で、男性側がお詫びをしたいから食事をご馳走させてほしいと言ってきたのだ。相手が防げたことではあるけれど、正直なところ、その人に怒っているかと言われると迷う。ただ、そうして向こうの気が済むなら、断らない方がいいんじゃないかとは思った。
さすがに二人きりなんかではなく、メンバーは男女両方の幹事と私、そして当日ドタキャンした人の四名。女性は奢り。私が行こうと言えばこれから日程調整、という段階だ。同僚は「しっかり奢ってもらおう」と言っている。
あくまでお詫びであって、出会いが欲しくないからと突っぱねる必要もないように思う。すごく行きたいわけでもないけれど。たぶん、以前の一人暮らしだったらとりあえず応じただろう。こういうのは、確固たる行きたくないという意思がないと、なかなか断れない。
薬研との間に波風立てたくないなぁ。なんて言おうかな。思うのはそれだけだった。
少し考え込んでいた私を、薬研がじっと見ている。その表情だけで、どうしたと尋ねられた気分になった。
「今度、また会社の人と食事して帰ってこようと思うんだけど、いい?」
やましいことがないと思うんだから、事情を全部話す方がややこしい。そう思って、シンプルに伝えた。薬研の反応はというと、むしろお伺いを立てたことそのものへ、引っかかったように見えた。
「……俺の許可なんかとらなくても、大将が行きたいと思うなら、行ったらいいだろ」
怒っているようでもなく、ただただ「なんで聞いた?」という顔だ。ガラスみたいにきれいな目にそうやって見られると、反対に私の方に何か濁ったものは無いかと、思わず自分の気持ちを振り返ってしまう。私は……薬研は嫌かなってちょっと思っただけ。薬研が嫌なら、会社の人との空気を読まず、断ってしまってもいいと思っていた。
「うん。義理というか、人付き合いで必要かなと思うので行ってきます。また、何か作っておくから」
「いいよ。……カップ麺もうまいから、色々食ってみたいしな」
今度はあの辛そうなやつを食うんだと、笑顔を見せてくれる。カップ麺を食べる薬研、私も見たい。薬研が真面目に炊事をしてくれるので、見る機会がない。休みの日に、たまには一緒にインスタント食でも……と地味な空想にふけった。
薬研が、自分のスマフォを軽く掴んで見せる。
「帰りが遅くなるなら、駅着く前に連絡くれ」
それだけ付け加えると、私を安心させようとするみたいに、優しく微笑んでみせた。
◆
ここぞとばかり、ちょっと優雅なお値段の女性好みの店を同僚が予約した。果物のお酒や、前菜の盛り合わせがとてもいいらしい。
このお店は、薬研とふたりだとちょっと浮いてしまうかもしれない。カップルかOL向けという感じの店だった。暖色の明るい照明の下、少量ずつ可愛く盛られたプレートが運ばれてくる。薬研なら、どれも一口だ。酒のつまみにしても、もうふた口ほしいなと頭の中の薬研が言う。どこに行っても「薬研なら」と考えてしまうのは、今に始まったことではない。彼が現れてから、ちょっと具体的にはなったけど。
変な人のいない飲み会は、思ったよりも楽しかった。最初はかなり謝られて、少し居心地が悪かった。それも乾杯してからは、場の空気を楽しませようとしてくれていたように思う。酔わない程度のお酒のあとに、ソフトドリンクを挟んでもう一杯いただいた。
幹事の男性には、実は彼女がいるという。あの日も今日も彼女公認。合コンって、結構いいかげんで良いんだなと思った。
薬研はカップラーメンを食べてるのに、私ばかりいいものを食べた気がする。一瞬見えた値段は、一皿でカップラーメンが何個か買えてしまうものだ。
薬研がご馳走や贅沢を望んでいなくても、私は彼よりいい思いをしたくはない。駅で薬研が好きそうなお惣菜でも買って帰ろうかな、と考えて、迎えに行くと言われていたのを思い出した。
普段の帰宅より二時間遅いので、これは言わないと怒るだろう。お会計の時に、薬研にメッセージを送った。
『もう少ししたら、お店を出ます』
まだ画面を見ているうちに既読がつく。いま、薬研がこれを見たんだ、と当然のことを思う。このメッセージアプリを使って数年目とは思えない感想だ。
今、なにか書いてるのかな。今にも薬研から返事が来るんじゃないかと、トーク画面をじっと見つめる。
『わかった』。たったそれだけの返事に、頰が緩んだ。
「もしかして、彼氏さんですか」
まとめて支払いをしていない方の男性が、ちょっと茶化す感じで聞いてくる。画面が見えたわけじゃなく、なんとなくだろう。
また会うかもわからない人に、律儀に親戚がどうとか説明する必要はない。どう言ったって、問題はない。一瞬そういう考えがよぎる。
「……いえ、家族です」
どっちにしろ嘘なのに、家族って言うのは良いんだな、と自分に思った。一緒に暮らしていて、友達とのルームシェアって感じでもなくて、あえて他人に言うなら。
薬研のことが家族くらい大事だけど、完全にそれだと思うほどしっくりはこない。嘘をついているような、上っ面感がある。
……なんだろう。推し? 健やかな生活と笑顔を願い、色々な姿が見たい。前からずっと薬研に抱く気持ちとずれているのに、言葉にすると、ほぼ推しだ。語彙のないオタク……と自分に思うと、しょっぱい気持ちになる。
「あ、実家暮らし?」
「実家じゃないですよ」
「そうなんだ」
相手も酔っているので、つまりどういうこと? という顔をしているけれど、もう笑ってごまかす。そうしているうちにお会計は終わって、四人で駅まで一緒に戻った。定時より人のまばらな電車の中で、同方向だったさっきの男の人と別れた。
スマフォを確認すると、七分前に薬研からメッセージが来ていた。
『着いた』。それに薬研が親指を立てているスタンプを返して、早足で改札を抜ける。明るいところにいてほしいと頼んだので、改札のすぐそばで彼の姿を見つけた。薬研も、既に私に気がついていた。
周りに空間をあけてぽつんと立つ薬研へ近寄っていく。約束していたことでも、本当に来てくれた、と嬉しくなる。迎えに行くから連絡をしてくれと言われて、連絡をしたから来てくれた。どう考えても薬研がこうして駅まで来ているのは当たり前だが、なんだか面白い。
言葉通りのほろ酔いだ。深酒ではないし、まっすぐ歩ける。気持ちの面で、なんだかふわふわしていた。
「薬研、ありがとうねぇ」
「俺が頼んだことだ。帰ろう」
「うん」
隣を歩いてくれる薬研が、軽く肩にぶつかる。冷静な表情で静かに見つめてくる彼の様子を見ていると、いつでも何があっても対処できそうに思える。もし私が突然転んでも、神がかった反射神経と筋力、体幹バランスで支えてくれそうだ。
薬研が私の二の腕あたりを、支えるように弱く掴む。この辺りは、歩道の幅が少しだけ狭い。すぐ隣の薬研が、ふうと息を吐くのが聞こえた。
「酒を飲んでるとわかる。今まで、これで一人歩きしてたのか?」
優しい、呆れたような呟きだ。別に怒っている感じではない。
お酒を飲んでそうな雰囲気って、ほんの少しでもわかるものだ。今の私は歩けるし、はっきり話せる。大人だから、これくらいなら一人歩きでも問題はないと思う。でも薬研にとっては、守る対象だから心配なんだろう。
「お店から駅までみんなで歩いたから。大丈夫だよ」
「俺があんたの家へ来る前の、今までずっとの話だ」
それは、飲み会があればそうだったけど。具合が悪くなるほどには飲まないので、タクシーを使ったこともない。送ってもらうのも申し訳ない上に、信頼できる人じゃないと、かえって危ない感じがする。
迎えだって、大人の帰宅を駅まで迎えに来てくれるのなんて、世話焼きの家族か、彼氏くらいだろう。
「薬研が来てくれたから、もう安心。ね、大丈夫でしょ」
「……まぁ、そうだな」
すぐに簡潔な返事をくれる薬研相手に、上機嫌で話しかけ続けた。時間は遅いけど、帰宅は薬研とするものだと脳が学んでいる。帰り道で、口を開く癖がついているのだ。
部屋に入るなり、ドアの傍に鞄を置いてベッドに横からどすんと座る。朝から晩まで活動しているとなんだか体もだるくて、そのまま背中をマットに沈めた。続いて部屋に入った薬研が、入り口から声をかける。
「風呂入らないのか?」
「はいる。入るし、お化粧も落とすよ」
お肌に悪いし、シーツも汚れてしまう。絶対絶対、化粧は落とす。ただ、あと少し休みたい。
薬研がなにかを片付ける音がする。私がその辺に置いてしまった、鞄かもしれない。何か飲むか、と聞かれて喉が張り付くのを感じた。お腹は水分でたぽたぽだけど、喉は渇いている。ほしい、と言ったら、薬研はわかったと言って台所へ行った。お湯を、沸かしてくれている。
一度部屋へ戻ってきた薬研の足音を聞きながら、ぽろりと問いかけた。
「薬研は、わたし、彼氏見つけたほうがいいと思う?」
仕事以外で男性と長い時間向かい合って話して、ふと、薬研の外見はやっぱり幼いんだなと思った。薬研の滑らかな手の甲は、少しも乾いた感じがしない。そういう手の女性もいるな、くらいのすらりとして節がちょっと目立つ手だ。成人男性にはまずいないだろう顔の輪郭、私よりも華奢なんじゃないかと思える背格好。隣に立っていて、私たちを保護者と子ども、姉と弟以外のものだと思う人なんて、いないかもしれない。
きっと私に相応しいのは、薬研のような美術品じみた子ではなく、同じくらいの年齢の普通の人間。私が、たとえ薬研に恋をしていたとしても。誰に何を言われずとも、ふとそう思った。
しばらく黙っていた薬研が、声を発する。
「……なんでおれに聞くんだ。あんたが決めることだろ」
「そうだよねぇ。そう思うよね」
薬研は、そんなこと聞かれても困ってしまう。わかっているのに、なぜ聞いてしまったんだろう。……もしかすると、私はこうやって、俺には関係ないと突き放してほしかったのかもしれない。
目が乾くなぁと思って目を閉じる。今日は朝からずっと外にいて、本当に疲れたんだ。
私が腰掛けたあたりのマットレスが、軽く沈んだ感覚がした。寝そべる体勢にはたいして影響せず、気にならない。
「化粧落とすんだろ。起きろよ、大将……」
そうだ、薬研がお茶を淹れてくれているかもしれない。起きる、飲む、と声に出した。
起きろよ、なんて言うのに、ゆっくり弱く、指先が髪と地肌をくすぐっていく。記憶にはっきりと残っていない、子供のころ自分を撫でてくれた誰かがいたことを、思い出した。
私はどうも、その必要のない時に薬研がこちらを気にかけてくれるシチュエーションが、かなり嬉しいらしい。こう言うと、なんだか余計に気を遣わせているようにも思えてくる。けれど当の薬研は、面白いことを見つけた子供のように、そっと宝物でも見せるみたいに、いつも声を掛けてくれた。
「大将、味見してくれないか」
駅まで迎えに来てくれた薬研とふたりで帰宅して、早々に彼がコンロへ火を点ける。片手鍋の中身は、薬研が最近練習中の煮物だろう。
「はーい」
「今日こそ、たぶん丁度いいぞ。色がいい感じだ」
味見もなにも、この後すぐ夕食なので味を手直ししてもう一度煮ることはほぼない。ほとんど、ただのつまみ食いだ。薬研が菜箸で芋を割って、半分私の口へ運ぶ。あまり薬研の方へ開けた口を向けないように気を付けて、横から迎えにいく感じで食べた。火は通っている。味は、ちょっとだけ醤油がつよい。続けて薬研も、割ったもう半分の芋を食べる。まぁまぁか、と言っていた。これだって、今まではしていなかったことの一つだ。
ちょっとこれ見てくれと、へんな形の野菜を持ってくる。帰りにコンビニに寄ろうと言って、デザートコーナーを冷やかす。ひよこの形のケーキが昨日売ってたからなんて理由で、必要な買い物がない時もある。どれもささやかな、なんて事のない変化だった。
でも、初めて会った頃はもっと、訊いたことへきちんと答えて、わからないことを尋ねてくるような、シンプルな間柄だった気がする。少しずつ、お互いが望んで一緒に暮らしているような感じがしてきて、随分仲良くなったなぁと思った。
このところ薬研が現代関係で困るような出来事もなく、私たちの生活は平穏だ。ずっとここで生きてきたみたいに、自然に過ごしている。
守り刀の薬研にとって、主人の側で無事を見守るのは本人の望みのはずだ。私は、薬研が本心からここに居たいと思ってくれるのであれば、なるべく長くこうしていたいと思っている。現状維持ができたなら、少なくとも私は、幸せだった。
夕食後、薬研の後頭部越しにぼうっとテレビを見ていたら、メッセージアプリの通知音が鳴った。薬研がちらと一度振り返るけれど、私のスマフォだと仕草で伝えて確認する。
内容は、少し不安のよぎるものだった。私がというか、伝えたらまた、薬研の表情を多少曇らせるんじゃないかと思った。
連絡をくれたのは同僚の女性。この間の合コン代役ニセモノ男の件で、男性側がお詫びをしたいから食事をご馳走させてほしいと言ってきたのだ。相手が防げたことではあるけれど、正直なところ、その人に怒っているかと言われると迷う。ただ、そうして向こうの気が済むなら、断らない方がいいんじゃないかとは思った。
さすがに二人きりなんかではなく、メンバーは男女両方の幹事と私、そして当日ドタキャンした人の四名。女性は奢り。私が行こうと言えばこれから日程調整、という段階だ。同僚は「しっかり奢ってもらおう」と言っている。
あくまでお詫びであって、出会いが欲しくないからと突っぱねる必要もないように思う。すごく行きたいわけでもないけれど。たぶん、以前の一人暮らしだったらとりあえず応じただろう。こういうのは、確固たる行きたくないという意思がないと、なかなか断れない。
薬研との間に波風立てたくないなぁ。なんて言おうかな。思うのはそれだけだった。
少し考え込んでいた私を、薬研がじっと見ている。その表情だけで、どうしたと尋ねられた気分になった。
「今度、また会社の人と食事して帰ってこようと思うんだけど、いい?」
やましいことがないと思うんだから、事情を全部話す方がややこしい。そう思って、シンプルに伝えた。薬研の反応はというと、むしろお伺いを立てたことそのものへ、引っかかったように見えた。
「……俺の許可なんかとらなくても、大将が行きたいと思うなら、行ったらいいだろ」
怒っているようでもなく、ただただ「なんで聞いた?」という顔だ。ガラスみたいにきれいな目にそうやって見られると、反対に私の方に何か濁ったものは無いかと、思わず自分の気持ちを振り返ってしまう。私は……薬研は嫌かなってちょっと思っただけ。薬研が嫌なら、会社の人との空気を読まず、断ってしまってもいいと思っていた。
「うん。義理というか、人付き合いで必要かなと思うので行ってきます。また、何か作っておくから」
「いいよ。……カップ麺もうまいから、色々食ってみたいしな」
今度はあの辛そうなやつを食うんだと、笑顔を見せてくれる。カップ麺を食べる薬研、私も見たい。薬研が真面目に炊事をしてくれるので、見る機会がない。休みの日に、たまには一緒にインスタント食でも……と地味な空想にふけった。
薬研が、自分のスマフォを軽く掴んで見せる。
「帰りが遅くなるなら、駅着く前に連絡くれ」
それだけ付け加えると、私を安心させようとするみたいに、優しく微笑んでみせた。
◆
ここぞとばかり、ちょっと優雅なお値段の女性好みの店を同僚が予約した。果物のお酒や、前菜の盛り合わせがとてもいいらしい。
このお店は、薬研とふたりだとちょっと浮いてしまうかもしれない。カップルかOL向けという感じの店だった。暖色の明るい照明の下、少量ずつ可愛く盛られたプレートが運ばれてくる。薬研なら、どれも一口だ。酒のつまみにしても、もうふた口ほしいなと頭の中の薬研が言う。どこに行っても「薬研なら」と考えてしまうのは、今に始まったことではない。彼が現れてから、ちょっと具体的にはなったけど。
変な人のいない飲み会は、思ったよりも楽しかった。最初はかなり謝られて、少し居心地が悪かった。それも乾杯してからは、場の空気を楽しませようとしてくれていたように思う。酔わない程度のお酒のあとに、ソフトドリンクを挟んでもう一杯いただいた。
幹事の男性には、実は彼女がいるという。あの日も今日も彼女公認。合コンって、結構いいかげんで良いんだなと思った。
薬研はカップラーメンを食べてるのに、私ばかりいいものを食べた気がする。一瞬見えた値段は、一皿でカップラーメンが何個か買えてしまうものだ。
薬研がご馳走や贅沢を望んでいなくても、私は彼よりいい思いをしたくはない。駅で薬研が好きそうなお惣菜でも買って帰ろうかな、と考えて、迎えに行くと言われていたのを思い出した。
普段の帰宅より二時間遅いので、これは言わないと怒るだろう。お会計の時に、薬研にメッセージを送った。
『もう少ししたら、お店を出ます』
まだ画面を見ているうちに既読がつく。いま、薬研がこれを見たんだ、と当然のことを思う。このメッセージアプリを使って数年目とは思えない感想だ。
今、なにか書いてるのかな。今にも薬研から返事が来るんじゃないかと、トーク画面をじっと見つめる。
『わかった』。たったそれだけの返事に、頰が緩んだ。
「もしかして、彼氏さんですか」
まとめて支払いをしていない方の男性が、ちょっと茶化す感じで聞いてくる。画面が見えたわけじゃなく、なんとなくだろう。
また会うかもわからない人に、律儀に親戚がどうとか説明する必要はない。どう言ったって、問題はない。一瞬そういう考えがよぎる。
「……いえ、家族です」
どっちにしろ嘘なのに、家族って言うのは良いんだな、と自分に思った。一緒に暮らしていて、友達とのルームシェアって感じでもなくて、あえて他人に言うなら。
薬研のことが家族くらい大事だけど、完全にそれだと思うほどしっくりはこない。嘘をついているような、上っ面感がある。
……なんだろう。推し? 健やかな生活と笑顔を願い、色々な姿が見たい。前からずっと薬研に抱く気持ちとずれているのに、言葉にすると、ほぼ推しだ。語彙のないオタク……と自分に思うと、しょっぱい気持ちになる。
「あ、実家暮らし?」
「実家じゃないですよ」
「そうなんだ」
相手も酔っているので、つまりどういうこと? という顔をしているけれど、もう笑ってごまかす。そうしているうちにお会計は終わって、四人で駅まで一緒に戻った。定時より人のまばらな電車の中で、同方向だったさっきの男の人と別れた。
スマフォを確認すると、七分前に薬研からメッセージが来ていた。
『着いた』。それに薬研が親指を立てているスタンプを返して、早足で改札を抜ける。明るいところにいてほしいと頼んだので、改札のすぐそばで彼の姿を見つけた。薬研も、既に私に気がついていた。
周りに空間をあけてぽつんと立つ薬研へ近寄っていく。約束していたことでも、本当に来てくれた、と嬉しくなる。迎えに行くから連絡をしてくれと言われて、連絡をしたから来てくれた。どう考えても薬研がこうして駅まで来ているのは当たり前だが、なんだか面白い。
言葉通りのほろ酔いだ。深酒ではないし、まっすぐ歩ける。気持ちの面で、なんだかふわふわしていた。
「薬研、ありがとうねぇ」
「俺が頼んだことだ。帰ろう」
「うん」
隣を歩いてくれる薬研が、軽く肩にぶつかる。冷静な表情で静かに見つめてくる彼の様子を見ていると、いつでも何があっても対処できそうに思える。もし私が突然転んでも、神がかった反射神経と筋力、体幹バランスで支えてくれそうだ。
薬研が私の二の腕あたりを、支えるように弱く掴む。この辺りは、歩道の幅が少しだけ狭い。すぐ隣の薬研が、ふうと息を吐くのが聞こえた。
「酒を飲んでるとわかる。今まで、これで一人歩きしてたのか?」
優しい、呆れたような呟きだ。別に怒っている感じではない。
お酒を飲んでそうな雰囲気って、ほんの少しでもわかるものだ。今の私は歩けるし、はっきり話せる。大人だから、これくらいなら一人歩きでも問題はないと思う。でも薬研にとっては、守る対象だから心配なんだろう。
「お店から駅までみんなで歩いたから。大丈夫だよ」
「俺があんたの家へ来る前の、今までずっとの話だ」
それは、飲み会があればそうだったけど。具合が悪くなるほどには飲まないので、タクシーを使ったこともない。送ってもらうのも申し訳ない上に、信頼できる人じゃないと、かえって危ない感じがする。
迎えだって、大人の帰宅を駅まで迎えに来てくれるのなんて、世話焼きの家族か、彼氏くらいだろう。
「薬研が来てくれたから、もう安心。ね、大丈夫でしょ」
「……まぁ、そうだな」
すぐに簡潔な返事をくれる薬研相手に、上機嫌で話しかけ続けた。時間は遅いけど、帰宅は薬研とするものだと脳が学んでいる。帰り道で、口を開く癖がついているのだ。
部屋に入るなり、ドアの傍に鞄を置いてベッドに横からどすんと座る。朝から晩まで活動しているとなんだか体もだるくて、そのまま背中をマットに沈めた。続いて部屋に入った薬研が、入り口から声をかける。
「風呂入らないのか?」
「はいる。入るし、お化粧も落とすよ」
お肌に悪いし、シーツも汚れてしまう。絶対絶対、化粧は落とす。ただ、あと少し休みたい。
薬研がなにかを片付ける音がする。私がその辺に置いてしまった、鞄かもしれない。何か飲むか、と聞かれて喉が張り付くのを感じた。お腹は水分でたぽたぽだけど、喉は渇いている。ほしい、と言ったら、薬研はわかったと言って台所へ行った。お湯を、沸かしてくれている。
一度部屋へ戻ってきた薬研の足音を聞きながら、ぽろりと問いかけた。
「薬研は、わたし、彼氏見つけたほうがいいと思う?」
仕事以外で男性と長い時間向かい合って話して、ふと、薬研の外見はやっぱり幼いんだなと思った。薬研の滑らかな手の甲は、少しも乾いた感じがしない。そういう手の女性もいるな、くらいのすらりとして節がちょっと目立つ手だ。成人男性にはまずいないだろう顔の輪郭、私よりも華奢なんじゃないかと思える背格好。隣に立っていて、私たちを保護者と子ども、姉と弟以外のものだと思う人なんて、いないかもしれない。
きっと私に相応しいのは、薬研のような美術品じみた子ではなく、同じくらいの年齢の普通の人間。私が、たとえ薬研に恋をしていたとしても。誰に何を言われずとも、ふとそう思った。
しばらく黙っていた薬研が、声を発する。
「……なんでおれに聞くんだ。あんたが決めることだろ」
「そうだよねぇ。そう思うよね」
薬研は、そんなこと聞かれても困ってしまう。わかっているのに、なぜ聞いてしまったんだろう。……もしかすると、私はこうやって、俺には関係ないと突き放してほしかったのかもしれない。
目が乾くなぁと思って目を閉じる。今日は朝からずっと外にいて、本当に疲れたんだ。
私が腰掛けたあたりのマットレスが、軽く沈んだ感覚がした。寝そべる体勢にはたいして影響せず、気にならない。
「化粧落とすんだろ。起きろよ、大将……」
そうだ、薬研がお茶を淹れてくれているかもしれない。起きる、飲む、と声に出した。
起きろよ、なんて言うのに、ゆっくり弱く、指先が髪と地肌をくすぐっていく。記憶にはっきりと残っていない、子供のころ自分を撫でてくれた誰かがいたことを、思い出した。
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