薬研のおしりを触る話
一日で一番執務室が静かになるのは、おやつ休憩の少し前だ。ほとんどの刀剣が出陣、遠征、内番、生活当番にあたっていることが多い時間で、誰か訪ねてくるのも稀。もう少しで休憩なのだからと、皆もうひと踏ん張りする時間だった。
踏ん張っているということは、本当は今すぐ休んでしまいたいのを我慢しているというわけで、意識の面ではぼろぼろだ。集中力はささいなきっかけで途切れてしまう。部屋が暑い寒い、小腹がすいた、手が疲れた。……隣に座る、近侍の気配。
机に向かう、本日の近侍を横目に見る。刀派粟田口、薬研藤四郎。稀に読めない行動をするけれど、基本的には仕事を真面目にやる、執務中物静かな刀剣男士だ。内番の白衣を畳んで隣に置き、正座で黙々と書き物をしている。粟田口のなかでは年長の部類だが、華奢な体つきと丈の短いズボンが、彼も確かに短刀なのだと知らせていた。
姿勢正しいシャツ姿は、本当に薄い体が際立つ。胸から腰まで、すとんと線が平らに落ちている。横顔は生白くて、銀フレームの眼鏡と合わせて冷たい印象があった。
「大将、集中」
こちらを一瞥もせず、藤色の瞳は書類に向けたままきっぱりと注意される。私の手が止まっていることに気付くなんて、案外薬研も集中してないんじゃないか。失礼な疑惑を向けてから、小さくため息を吐いた。時計を見たら、二時五十分だった。こういう時の十分は、本来の二倍くらい長い。
ほんの数箇所書類を記入して、紙をつんつんとペン先で突く。集中力なんてとうに空っぽだった。
もう一度薬研のほうを見るが、薬研はロボットみたいにさっきと変わらない働きをしている。
なんというか、うちの薬研は何かと落ち着いていて、目に見える態度がかなり凪いでいるのだ。感情はもちろんあるんだけど、一回理性を経由している感じがする。出会い頭にぶつかりそうになれば「おお、驚いた」と普通の音量で言うし、出陣前も、闘志や殺気は静かに昂ぶらせていくタイプだ。兄弟と遊んで豪快に笑うこともあるけれど、それはそういう「遊ぶ時間」として区切られた中だけのことに思えた。
仕事のことを考える気がおきないので、薬研についてふんわり仮説を立てる。彼の中には、刀剣男士としての「仕事中」の区切りがはっきりとあって、オフのとき以外はその集中力が感情を弱めているんじゃないか?
次の角で何かが現れるかもしれないと欠片でも思っていれば、気を抜いているより驚かない。出陣の時間は決まっているのだから、それより前に気がはやったところで持て余すだけだ。近侍の仕事は、執務室の周囲に気を配りながらの事務作業。単調に見えて神経を使うから、今の薬研はこんなに無機物じみているのかもしれない。
ふと、思いつきが頭を駆ける。
あ。この薬研に、いたずらがしてみたい。
ひらめいた瞬間から、もう決行するのは確定していた。なんか反応に乏しくなっている、仕事中の薬研の感情を揺さぶりたい。驚くのでも、軽く怒るのでもいい。薬研のスイッチを入れてみたいと思った。
さて何をしようと薬研を眺める。正座中の足の裏に目が留まって、突然くすぐりでもしようかと考えてみた。続いてその上の、平坦なお尻に視線が移る。
女とは脂肪の付き方が違うというのは分かっているが、とにかく肉が薄い。腰の延長、という言葉が一番しっくりくる。クッションの役割を果たしている感じがしないけれど、あれでも触れば柔らかいんだろうか。
お尻を触るなんて、当然セクハラだ。だけど、冗談は許される程度の仲だし、薬研は嫌ならすぐにはっきり言える性格だろう。
そーっと手を伸ばし、ぺしりと手を当ててみる。
「ん……?」
薬研はぼそりと疑問符を口にして、少し首をこちらに向けた。目が淡々と「何してるんだ」と問いかけてくる。その無言の圧力を無視して見つめ返せば、薬研は諦めて前を向いた。やめろって、言わないなぁ。
しかし、腰のすぐ下あたりを触っているとはいえ、本当にお尻を触っている感じがしない。手全体で軽く押してみるが、この感触はほぼ腰だ。
足の裏に近い、より下の方まで撫でてみる。少しだけ柔らかくなった気がする。これがこの薄べったい薬研のお尻なのか。カーキ色のズボンを撫でる衣擦れの音が延々続く。薬研は完全に無視を決め込んだように、書き物をしていた。動じなさすぎる。
他人のお尻を撫でたことなんかなかったので、なんだか新鮮な感じだ。いい加減何か言ってくれとばかり、薬研のお尻をわし掴む。揉む。もう絵面が完全に痴漢のそれだ。
「……薬研」
「なんだ」
やってる私が言うのも変だけど、なんだじゃないでしょう。そんなに平然としていられると、私がいつもこんな事をしてるみたいじゃないか。
何か言わないかな、と薬研の反応を待ちながら、惰性でお尻を撫で回す。意外とこの感触はくせになる。
考えたり、不埒なことをしていたら、時間が経っていたらしい。三時を知らせる鐘が鳴った。薬研がわずかに息を吐いて、ペンを机に置く。ついに注意するか、と思ったがまだ文句を言わない。
随分さぼっていた私を振り返って、薬研がじっと見つめてくる。揉むのはやめたが、まだ手はお尻の上だ。
「大将」
「はい」
体も私のほうに向けられたので、自然とお尻から手は離れた。少しだけ呆れているような気配はあるが、心底怒っている感じではない。軽く怒られておしまい、そんなオチが容易に予想できた。
たしっと軽く、でもしっかりと、薬研が私に手のひらを当てた。胸に。
薄手の黒革の手袋が、私の胸の丸みに添ってやわく食い込んでいる。薬研の視線も本人の手に向けられているし、表情は冷静そのもの。……どう見ても、故意だった。
女であればだいたい知っていることだが、胸は基本的にひんやりとしている。押し上げるようにくっついた手のひらから、じわりと体温が伝わってきて、左胸だけ熱くなってきた。
これ、胸、揉まれてますよね。どう見てもそうなんだけど、信じ難くて頭が真っ白になっている。あの薬研が、私の胸を揉んでいる……? 気のせいでは? 頭の中の薬研藤四郎像に全然そぐわないからと、なぜだか庇いはじめてしまう。しかし、胸に触れている指は弱く揉む動きをし始めた。
「な、ちょ、やげ……」
いまだ動揺のなかにいる私の胸を、薬研が淡々と揉む。こんなに堂々とされていると、きゃーとか騒ぐタイミングもない。身長にしては大きめの手が、持ち上げる動きでむにむにと指を沈ませる。
「……やわらかいな」
素の感想、といった様子で薬研がこぼす。言葉でも揉んでいることを肯定されて、かえって私のほうが気まずくなった。真面目な顔で胸を揉まれて、固まっていたとはいえ私も無抵抗で、これじゃまるで、そういう関係みたいだ。
耳が熱い感じがするので、たぶん赤くなっているんだろう。薬研は私の顔をちらりと見ると、揉むのをやめて手を離した。
「な、なんで揉んだの、私の胸」
「おあいこだろ」
まぁ、手を出したのは私が先だし、触ってた時間も私のほうがずっと長いけどさ……! 男女平等じゃないことを言うけど、私の胸と、薬研の薄いお尻が等価値だっていうのか!
口に出さないまでも、わなわなとを唇を震わせる。薬研はすっと立ち上がって「八つ時だな」なんてのんきなことを言っている。
お茶を持ってくるつもりだろう、白衣を羽織って部屋を出る支度をした薬研と目が合う。なんにもなかったような顔をしているけれど、薬研はそのまま自分の右手のひらを見て、何かを揉むように指を動かす。
「やっぱり、男の尻より女の乳のほうがずっといいな」
とんでもない爆弾発言を残して、薬研は颯爽と執務室を去っていった。
薬研藤四郎、本当にまったく読めない男だ。
踏ん張っているということは、本当は今すぐ休んでしまいたいのを我慢しているというわけで、意識の面ではぼろぼろだ。集中力はささいなきっかけで途切れてしまう。部屋が暑い寒い、小腹がすいた、手が疲れた。……隣に座る、近侍の気配。
机に向かう、本日の近侍を横目に見る。刀派粟田口、薬研藤四郎。稀に読めない行動をするけれど、基本的には仕事を真面目にやる、執務中物静かな刀剣男士だ。内番の白衣を畳んで隣に置き、正座で黙々と書き物をしている。粟田口のなかでは年長の部類だが、華奢な体つきと丈の短いズボンが、彼も確かに短刀なのだと知らせていた。
姿勢正しいシャツ姿は、本当に薄い体が際立つ。胸から腰まで、すとんと線が平らに落ちている。横顔は生白くて、銀フレームの眼鏡と合わせて冷たい印象があった。
「大将、集中」
こちらを一瞥もせず、藤色の瞳は書類に向けたままきっぱりと注意される。私の手が止まっていることに気付くなんて、案外薬研も集中してないんじゃないか。失礼な疑惑を向けてから、小さくため息を吐いた。時計を見たら、二時五十分だった。こういう時の十分は、本来の二倍くらい長い。
ほんの数箇所書類を記入して、紙をつんつんとペン先で突く。集中力なんてとうに空っぽだった。
もう一度薬研のほうを見るが、薬研はロボットみたいにさっきと変わらない働きをしている。
なんというか、うちの薬研は何かと落ち着いていて、目に見える態度がかなり凪いでいるのだ。感情はもちろんあるんだけど、一回理性を経由している感じがする。出会い頭にぶつかりそうになれば「おお、驚いた」と普通の音量で言うし、出陣前も、闘志や殺気は静かに昂ぶらせていくタイプだ。兄弟と遊んで豪快に笑うこともあるけれど、それはそういう「遊ぶ時間」として区切られた中だけのことに思えた。
仕事のことを考える気がおきないので、薬研についてふんわり仮説を立てる。彼の中には、刀剣男士としての「仕事中」の区切りがはっきりとあって、オフのとき以外はその集中力が感情を弱めているんじゃないか?
次の角で何かが現れるかもしれないと欠片でも思っていれば、気を抜いているより驚かない。出陣の時間は決まっているのだから、それより前に気がはやったところで持て余すだけだ。近侍の仕事は、執務室の周囲に気を配りながらの事務作業。単調に見えて神経を使うから、今の薬研はこんなに無機物じみているのかもしれない。
ふと、思いつきが頭を駆ける。
あ。この薬研に、いたずらがしてみたい。
ひらめいた瞬間から、もう決行するのは確定していた。なんか反応に乏しくなっている、仕事中の薬研の感情を揺さぶりたい。驚くのでも、軽く怒るのでもいい。薬研のスイッチを入れてみたいと思った。
さて何をしようと薬研を眺める。正座中の足の裏に目が留まって、突然くすぐりでもしようかと考えてみた。続いてその上の、平坦なお尻に視線が移る。
女とは脂肪の付き方が違うというのは分かっているが、とにかく肉が薄い。腰の延長、という言葉が一番しっくりくる。クッションの役割を果たしている感じがしないけれど、あれでも触れば柔らかいんだろうか。
お尻を触るなんて、当然セクハラだ。だけど、冗談は許される程度の仲だし、薬研は嫌ならすぐにはっきり言える性格だろう。
そーっと手を伸ばし、ぺしりと手を当ててみる。
「ん……?」
薬研はぼそりと疑問符を口にして、少し首をこちらに向けた。目が淡々と「何してるんだ」と問いかけてくる。その無言の圧力を無視して見つめ返せば、薬研は諦めて前を向いた。やめろって、言わないなぁ。
しかし、腰のすぐ下あたりを触っているとはいえ、本当にお尻を触っている感じがしない。手全体で軽く押してみるが、この感触はほぼ腰だ。
足の裏に近い、より下の方まで撫でてみる。少しだけ柔らかくなった気がする。これがこの薄べったい薬研のお尻なのか。カーキ色のズボンを撫でる衣擦れの音が延々続く。薬研は完全に無視を決め込んだように、書き物をしていた。動じなさすぎる。
他人のお尻を撫でたことなんかなかったので、なんだか新鮮な感じだ。いい加減何か言ってくれとばかり、薬研のお尻をわし掴む。揉む。もう絵面が完全に痴漢のそれだ。
「……薬研」
「なんだ」
やってる私が言うのも変だけど、なんだじゃないでしょう。そんなに平然としていられると、私がいつもこんな事をしてるみたいじゃないか。
何か言わないかな、と薬研の反応を待ちながら、惰性でお尻を撫で回す。意外とこの感触はくせになる。
考えたり、不埒なことをしていたら、時間が経っていたらしい。三時を知らせる鐘が鳴った。薬研がわずかに息を吐いて、ペンを机に置く。ついに注意するか、と思ったがまだ文句を言わない。
随分さぼっていた私を振り返って、薬研がじっと見つめてくる。揉むのはやめたが、まだ手はお尻の上だ。
「大将」
「はい」
体も私のほうに向けられたので、自然とお尻から手は離れた。少しだけ呆れているような気配はあるが、心底怒っている感じではない。軽く怒られておしまい、そんなオチが容易に予想できた。
たしっと軽く、でもしっかりと、薬研が私に手のひらを当てた。胸に。
薄手の黒革の手袋が、私の胸の丸みに添ってやわく食い込んでいる。薬研の視線も本人の手に向けられているし、表情は冷静そのもの。……どう見ても、故意だった。
女であればだいたい知っていることだが、胸は基本的にひんやりとしている。押し上げるようにくっついた手のひらから、じわりと体温が伝わってきて、左胸だけ熱くなってきた。
これ、胸、揉まれてますよね。どう見てもそうなんだけど、信じ難くて頭が真っ白になっている。あの薬研が、私の胸を揉んでいる……? 気のせいでは? 頭の中の薬研藤四郎像に全然そぐわないからと、なぜだか庇いはじめてしまう。しかし、胸に触れている指は弱く揉む動きをし始めた。
「な、ちょ、やげ……」
いまだ動揺のなかにいる私の胸を、薬研が淡々と揉む。こんなに堂々とされていると、きゃーとか騒ぐタイミングもない。身長にしては大きめの手が、持ち上げる動きでむにむにと指を沈ませる。
「……やわらかいな」
素の感想、といった様子で薬研がこぼす。言葉でも揉んでいることを肯定されて、かえって私のほうが気まずくなった。真面目な顔で胸を揉まれて、固まっていたとはいえ私も無抵抗で、これじゃまるで、そういう関係みたいだ。
耳が熱い感じがするので、たぶん赤くなっているんだろう。薬研は私の顔をちらりと見ると、揉むのをやめて手を離した。
「な、なんで揉んだの、私の胸」
「おあいこだろ」
まぁ、手を出したのは私が先だし、触ってた時間も私のほうがずっと長いけどさ……! 男女平等じゃないことを言うけど、私の胸と、薬研の薄いお尻が等価値だっていうのか!
口に出さないまでも、わなわなとを唇を震わせる。薬研はすっと立ち上がって「八つ時だな」なんてのんきなことを言っている。
お茶を持ってくるつもりだろう、白衣を羽織って部屋を出る支度をした薬研と目が合う。なんにもなかったような顔をしているけれど、薬研はそのまま自分の右手のひらを見て、何かを揉むように指を動かす。
「やっぱり、男の尻より女の乳のほうがずっといいな」
とんでもない爆弾発言を残して、薬研は颯爽と執務室を去っていった。
薬研藤四郎、本当にまったく読めない男だ。
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