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とにかく優しい許容の権化

 この本丸の若い女主は、とてつもない甘ったれだ。正確には、短刀・薬研藤四郎に対してだけ。
 全ての審神者に等しく課される任務のリストを前にして、彼女は考える仕草をする。それから毎日すべき作成書類の束を手に取ると、きりりと気合いを入れた顔で近侍の薬研に向き直り、のたまう。

「薬研。頑張るから、終わったら十五分膝枕してください!」

 審神者なら誰でもやる任務なのだとここで再三注釈を入れる。その言葉に、本丸の刀剣男士の大半は呆れた顔をするだろう。
 少年らしい丸みの頭に、柔らかく黒い髪が流れている。腿の辺りからあらわになった白い脚は、寝巻きのとき以外常に晒されている。面立ちは美しい刀の化身に相応しい美少年だ。彼を前にして膝枕を要求することが、かなり大胆で欲求に正直すぎるとよくわかる。
 しかし彼女の近侍は、その頼みを微笑んで聞き入れてしまう。

「ああ。かまわないぜ、大将」
「やったー!! 早く終わらせます!」

 返事を見越していたのだろう、喜びの声が食い気味にあがる。早速執務に取り掛かった審神者の背中を見て、薬研は慈しむように笑みを深くした。

 最初の頃の審神者は、こんな風に褒美を要求する癖を持っていなかったと、皆記憶している。就任して数ヶ月、慣れと若さゆえの怠けたがりは顔を覗かせていたが、仕事だからと日々取り組んではいた。変化は、審神者が薬研に懐き始めた頃から始まった。
 脇差や打刀に比べれば見た目は幼いが、薬研は短刀の多い粟田口の中では兄気質だった。その面倒見の良さから、持ち回りだった近侍の当番に当たるたび、審神者の手綱を上手く握っていたらしい。集中力が途切れるタイミングで小まめに休みを与えてやり、達成すれば褒めてささやかな褒美の菓子までくれてやる。
 しゃんとしろ、真面目にやれ、仕事だろうと一喝されると気持ちが下向きになる彼女にとって、節々で甘やかしてもらえるこの扱い方は、非常に合っていた。少し先の褒美に向けて、せっせと働くことができる。少しの休息や茶菓子、労いの言葉。そのうち、これを与えてくれる薬研そのものに癒しを見出し始めたのが、きっかけだったのかもしれない。薬研に出くわしただけで、褒美を思い出した犬のように心の尻尾を振ってしまうようになった。

 薬研としても、審神者が仕事を放り出して逃げるほどの怠け者であれば対応も変えただろう。実際近侍になってみれば、他の者に聞いたほど審神者は不精ではなかった。こうして薬研が気持ちよく働かせてやろうとはからえば、むしろ活き活きと励んで可愛らしくさえ思える。薬研が近侍の固定を承諾したときなど、彼に救いを見出すかのような眼差しで喜び、どちらが主人なのかわからなくなるほどだった。

 審神者が薬研に救いや癒しを見出してから、徐々に表れたのが「褒めてほしい」という要求だった。言われずともそうしてきたので、厳密に言うと、それを期待した顔で薬研に報告してくるようになった。あれを終えた、これを済ませた、上手にやれた。きらきらと輝くように見つめられれば、彼も期待通り彼女を褒める。思わず弟にする調子でその頭を撫でてやれば、どうもそれが癖になったらしい。

 大人の男の見た目をしていないというだけで、スキンシップへの抵抗は低いのだろう。褒められた嬉しさと連動するように、審神者は薬研に近付きたい衝動に駆られた。
 ただ、これは恋というには随分幼く粗末なもので、まさしく「懐く」が正しい表現だ。審神者にとって、薬研に愛されたいというより、よくやったと褒めてもらいたい、その感覚のほうが強い。
 これらをずっと拗らせてきた結果生まれたのが、今の、短刀にべったりと甘ったれる審神者であった。

「主。君に文が届いて……、薬研。何をしているんだい」

 初期刀の歌仙兼定が執務室を訪ねたとき、執務室ではちょうど件の膝枕休憩中だった。机の上には記入を終えた書類。それを分けている薬研の正座した太ももに、本丸の主が腕ごと突っ伏してだらけている。
 審神者に文句を言っていた時期はとうに過ぎた。いま刀剣男士たちが一番物申したいのは、薬研が彼女を甘やかしすぎるという問題だ。ただ、彼は肝が据わっていて、自分で考えて決めたことは簡単には譲らない。

「なに、大将は仕事はかっちり片付けてんだ。休む時くらい、好きにさせてやったらいい」
「歌仙、手紙ありがとう。あと五分休憩したらちゃんとお仕事します!」

 その体勢に不釣合いなはきはきとした声で、審神者が携帯端末のアラーム画面を歌仙に見せる。
 薬研の言うとおり、休む時間はかなり増えて、だらしなく見えるはずの現状で、彼女は滞りなく働いているのだ。歌仙に言わせれば「主の佇まいとして美しくない」ので、思わずため息は出てしまう。手紙を審神者の顔の上へ置いて、歌仙は踵を返していった。



 一日の仕事は執務室の外にもある。審神者の身辺警護も兼ねて付き添った薬研が、鍛刀部屋の熱気を離れたところで見ている。もはや鍛刀で新たな仲間は来ないとわかっているので、神を降ろすことはせず、そのまま刀解する。政府が任務として定めているから取り組む、ただの審神者の鍛錬に近い。終えた審神者は薬研を振り返った。

「薬研、日課の任務終わりました!」
「ん」

 何のための報告なのか心得た薬研は、迎え入れるように両腕を少し広げる。凛とした少年が微笑むその腕の中へ、審神者は勢いよく飛び込んだ。人目もはばからず、細身の身体にぎゅうと抱きついて、肩のところに顔までうずめている。

「はぁ~~、薬研のおかげで頑張れる~! いい匂いがするよぉ~!」
「そうか? よくわからんが、良かったなぁ」

 薬研もぽんぽんと子供をあやすように審神者を抱きとめ、大げさな褒美が執り行われる。すっかり気を抜いた審神者がその体勢のまま、はぁと息を吐いた。日課の終わりとこの少年に縋りつける権利がごっちゃになって、彼女はとにかくこうすれば、一日の仕事を終えたという実感がわくのだ。

「もう、ほんと薬研すき……。近侍のプロ……私のトレーナー……」
「横文字が多いが、褒められてる感じはするな」

 薬研は目を細めて、すぐ近くにある頭を撫でてやる。大将、今日も偉かったな。そう添えれば、審神者は嬉しそうに笑った。



 非番組も入浴を済ませた時刻、粟田口の短刀部屋の戸が叩かれた。そんなことをするのは他の刀派のものか、審神者のみだ。時間を考えれば意外ではあったが、訪ねたのは審神者だった。

「薬研、いる?」
「どうした、大将」

 短刀たちは畳にそれぞれ楽な姿勢で座り、談笑しているところだった。その中に薬研の姿を見つけて、審神者はそそくさと寄ってかがみ込む。いつもの褒美をせがむ空気に加えて、少しだけ緊張が見て取れる。

「月間任務、全部達成しました! それで……もしよかったら今日、私が寝るまで添い寝とか……お願いしちゃっても……?」

 断ることをしない薬研が相手とはいえ、これはダメかもしれない。さすがの審神者も、そう考えながらここまで来たようだった。薬研はいつも通り、穏やかに微笑みを返す。

「ああ、偉いな。承知した」
「やったぁぁぁ!!! ありがとう!! 嬉しい、ほんと嬉しい!!」

 絶対安眠効果高いよ、と浮かれる審神者を、薬研以外の短刀が何か言いたげに見つめる。あいにく彼女は周囲のそんな眼差しには慣れていて、特別気にすることがなかった。なにせ彼女にとって、優しい短刀に甘えることは、やましいことではない。好きなものを傍に置けて嬉しい。それだけのニュアンスだった。

「それじゃあ今日、湯たんぽ入れて待ってるね!」


 審神者が去っていくのを見届けて、乱藤四郎が聞こえよがしのため息をつく。

「薬研さぁ、断るってことを知らないよね。二人とも子供じゃないのに添い寝なんて。主さんがこれ以上堕落したら、薬研の責任もあるよ」
「他の誰も困っちゃいないだろ」

 薬研はいつも通り、聞き入れる様子がない。確かに、審神者と薬研の両方が了解している以上、他に困る者はいない。
 けれど明らかに、「褒美」は主従の度を超し始めている。だから皆も、少し苦い顔をして二人を咎めるのだ。とくに、無邪気……悪く言えば考えなしに見える審神者ではなく、しっかりした感覚を持っているであろう薬研の方へ、苦言を呈する。
 薬研は立てた片膝に肘をついて、指で頭を支え口の端を上げた。


「俺が断らんとわかったら、あの人はだんだん近くにくる。何か遂げるたび、褒美と称してすり寄ってくる」

 一見して、審神者に向けていた笑顔と大きな違いはない。しかし彼の兄弟には、その瞳の奥が真剣な色をしていることがすぐにわかる。きっと他の刀派の者の前では、薬研はこんな顔をしないということも、何とはなしにわかっただろう。

「今じゃ腕を広げたら、嬉しそうに飛び込んでくる。……いいだろ」

 薬研から審神者に特別何かを求めたわけではない。ただ彼は、求めに応じて許しているだけだ。



「……うわぁ、なんかもう、十分ダメっぽい」

 乱は思わず、じっとりとした目で薬研を眺める。薬研は、はは、と笑うだけで、何も言い返そうとはしなかった。

「それじゃあ、俺は大将に褒美をやらないといけないからな。大部屋には俺の分の布団はいらない。広く使ってくれていいぞ」

 ひらひらと手を振って上機嫌に去っていく背中を見送り、信濃がぽつりと呟く。

「大将はさ、絶対油断しすぎだよね。薬研はそりゃ優しいけど、それだけじゃないのにさ」

 言葉はなく同意した兄弟達が、先ほどの嬉しそうな女主人の顔を思い浮かべる。薬研の思い通り懐へ転がり込んでいく彼女は、近い将来、粟田口の身内になるのかもしれない。
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