第10話
薄暗い部屋の中には二つの人影がぼんやりと浮かび上がっていた。そのうちの一つは床に這いつくばっているように見え、もう一つは足元の人影を見下ろしているように見える。視界がはっきりしない中でも堂々たるオーラを放つ髪の長い人物は、床に倒れている男を蹴り上げると胸元から銃を取り出した。
「何か言い残したことは?」
冷ややかな声が建物内の空気を凍らせる。遠目から見ていても分かる、あの人の怒りは尋常じゃない。ガキの頃の四年間しか一緒にいなかった俺だが、彼女のことは誰よりもよく見ていた。感情を露にすることの少なかった彼女、怒る時は静かに顔を歪めていた。
「ど…どうか御慈悲をっ…」
「図々しいな。慈悲は十分与えたぞ」
「首領っ…」
「仏の顔も三度までというがな、実際は一度切りなんだよ」
彼女は床に膝をつき、男の顎を持ち上げ目を合わせると低い声でそう言った。何があったのかは分からないが、少なくとも俺の知る彼女は理由もなく暴力を振るう人間ではなかった。
「…ただの失敗なら許していた。でもお前らは違う。私の部下を苦しめた」
はっきりと聞こえたその言葉に、心臓が大きく震えた。すっかり悪い道を進み冷酷無比の恐ろしい人間に成り下がってしまったと思っていたあの人に昔の面影を見たからだ。
「それはっ…」
「どのみち東卍に戻っても殺されるんだ。ならばここで潔く死ね」
男の頭に銃を突き付けたかと思えば、次の瞬間には耳をつんざく銃声が部屋に響き渡った。床に広がる真っ赤な血は既に見慣れていたけれど、同じ色に染まった彼女の横顔は初めて見た。まるで魂の抜けた人形のように無機質な瞳で死体を見つめる彼女を、不謹慎にも美しいと思ってしまった。
暫しの静寂の末、彼女はゆっくりと立ち上がりこちらに顔を向けた。光のない瞳がほんの少しだけ揺れたところを見ると、俺が一部始終を見ていたことに気付いていなかったのだろう。それもそのはず、俺だってこんな殺人現場を目にする予定はなかったのだから。
「…若狭か。余計なことしやがって」
低い声でそう言うと、彼女は鬱陶しそうに血しぶきを拭った。前回会った時は上げていた前髪が今日は下ろされていて、黒髪から滴る艶やかな赤が彼女の美しさを際立たせていた。昔は赤く染まっていた内側の髪が今は黒一色に統一されているが、あの赤の代わりが彼女に殺された哀れな男たちの血なのだろう。
「その若狭さんから聞いた。アンタが切り捨てた奴、全員裏で東卍と繋がってたって。アンタは絶対、本当の仲間を無下にはしないって」
数日前、今日この時間にこの場所に来るようにと若狭さんから連絡を受けた。ここは彼女が経営する会社の地下室で、普段は決して入れないようにしてあると聞いた。そんな場所に何故俺が入れたのかというと、紛れもない若狭さんから鍵を預かっていたからだ。そう、あの日彼が俺に渡したものは彼女からの届け物ではなく彼自身からのものだった。
「誠意を見せてくれる者を切り捨てはしない」
血の匂いが広がるおどろおどろしいこの場にはそぐわない優しい声が、俺の鼓膜と心臓を揺らす。あの頃と少しも変わらない、俺の心を奪った温かい笑顔に喉の奥が熱くなる。
「お前も一緒だ。お前が私を助けてくれるのなら、私もお前を守ろう。この命に賭けて」
その時の水都さんの姿は一生忘れない。血の海の中で真っ直ぐに立つ凛々しくも儚い美しさはこの世の何よりも価値がある。そして俺は、この人になら命を差し出せると思った。あの日場地さんに抱いた大きな敬意を、同じ苗字を持つこの人に十年の時を経て抱いた。
「誓います」
何も変わっていなかった。俺の人生、唯一惚れた女がこの人で良かった。
彼女の手を取り、項に口付ける。血の匂いに紛れて薄っすらと漂う懐かしい香りが、ガキだった俺の淡い初恋を肯定してくれているようで泣きそうになった。