第9話




 千冬の去った部屋はいつもに増して静かに感じる。久々に会った千冬は何も変わっていなくて、安心のような寂しさのような何とも形容し難い感情を抱かずにはいられなかった。


「私を軽蔑しただろうな」


 椅子に腰掛けると、いつ吸い始めたのかも分からない煙草に火をつける。口の中に心地良い苦味が広がって、目の前をゆらゆらと舞う白い煙に自然と口角が上がった。


「それで良い。私に無駄な情を抱くな」


 弟が死んだあの日からずっと考えていた。この先どうやって生きていくのか、どうやって稀咲を始末するかを一人で黙々と考えていた。マイキーと約束したこともあり東卍を去ると決意するまでに時間を要したが、日々変わっていく彼らを見ているうちに迷いは消えていった。


『…そうですか』


 私が最初にそのことを打ち明けたのは千冬だった。恐らく当時の東卍で一番私を気にかけていたのは彼だったから、最初に話すのが義理だと思ったのだ。


『私は私の道を行くから、お前はお前の道を行け』
『…はい』


 あの時の千冬の顔を見て、私は全てを悟ったのだ。彼が私に向けていた感情は純粋な好意なんかじゃなくて憐れみだったと──。彼はずっと、私が東卍から去っていく日を待ち望んでいたのだ。
 別にそれについて何か思うことなど無いのだが、彼が私を憐れむきっかけとなった出来事は何だったか思いを馳せた記憶はある。彼の前で弱音を吐いたことなど無いと自負していた私にとって、それは屈辱以外の何ものでもなかった。


「首領、入っても宜しいですか?」


 ノックと共に聞こえてきた声に返事をすれば、扉が開き一人の男が姿を表した。彼は私が起業してからというものずっと側に仕えてきた、今最も信頼している部下にあたる。


「かつてのダチに会った割には冴えない顔してんな」


 彼は私の顔を見るなりそう言って苦笑した。昔は乏しかった表情が今となってはよく動く。拾ったばかりの頃は死にそうな顔してたくせに、随分と活きが良くなったものだ。


「憶測に過ぎなかったモンが確信に変わっちまったからさ。面白くないんだ」


 かつて誰よりも信頼していた松野千冬という男も、今となっては如何に上手く利用できるかを考えなくてはならない人間へと変わってしまった。あの男が私を憐れんでいたと知った時、僅かながらも悲しいと思ったのだ。


「…お前も難儀な性格してんなぁ」
「難儀なのは性格じゃない。立場だよ」


 互いに心の内を明かせない立場になってしまった。忘れもしない10月31日、弟さえ生きていれば、稀咲さえいなければこんな現在いまになることも無かっただろう。過去を嘆いても仕方ないから前だけを見据えてきたが、時々堪らなく悔しくなる。


「でも、ようやく役者が揃った。…あとはひたすら行動するのみ」
「…最後まで着いていきますよ、首領」
「当たり前。君は私のものだから」


 かくいうこの男も、そのまた大昔私が憧れた漢の一人だった。やはり人間は成長と共に悪に染まるのだと、苦悩する彼を見て確信した。彼は珍しく腐っていなかったが、私の知る限り大昔の知り合いたちもすっかり悪い道へと進んでいた。


「もしも私に何かあったら、その時は頼むよ」
「安心しろ。もしもなんて起こさねぇから」


 彼を見ていると千冬を思い出す。あの男もずっと苦しんできたのだろう。周りが腐っていく中で一人、真っ当な心を持ち続けてきた彼は本当に立派だ。それだけ場地圭介という存在が彼に残したものは大きかったのだろう。


「ねぇワカ君…。アイツかっこいいでしょ?」


 久々にあだ名で呼ばれたから驚いたのか、はたまた私の突然のデレに驚いたのか、彼は一瞬大きく目を見開いた。しかしすぐに目を細めると、そうだなと言って小さく笑った。


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