第9話

❀ 第9話 ❀




 水都さんが東卍を抜けたのは、場地さんが死んでニ年が経とうとした頃だった。ろくに別れも告げず姿をくらました彼女は、再び俺の前に現れるまでの七年間一体何をしていたのだろう。


「久しぶりだな千冬。お前が来るのを待っていた」


 七年振りに見た彼女は、時が止まってるかのようにあの頃のままだった。前髪をかき上げているから少しだけ大人っぽく見えるが、昔から綺麗過ぎるほど綺麗だったから特に驚くことはなかった。
 でも、彼女が今手にしている立場を知って驚きよりも絶望が勝った。表向きは完全なる善良な経営者だが、裏では東卍を始め反社会集団と取引をするとんでもない組織のトップだ。


「水都さん…なんでアンタが」


 あんなに優しかったアンタが何でこんなことをしてるんだ?俺たちについていけないと思ったから離れたんじゃなかったのか?
 聞きたいことは山ほどあるけど、冷たい微笑みを浮かべる彼女の瞳に捕らわれるとそれ以上聞くことはできなかった。


「私と手を組まないか?」
「え?」


 突拍子もないその言葉に思わず眼を見張る。既に協力関係にある人間に言う言葉にしては違和感があるし、そもそも表舞台には現れないことで有名な彼女が敢えて俺の前に姿を表したのが不思議で仕方なかった。


「お前は稀咲を東卍から追い出したいんだろ」


 ドクン、と心臓が波打った。今まで誰にも打ち明けたことのない考えをいとも簡単に読み当てた彼女が怖い。
 今や完全なる悪へと染まった東卍だが、俺はずっと場地さんが守りたかった東卍に戻りたいと思っていた。でも、周りはどんどん悪い道へと進んでいき誰にも切り出せる状態ではなかった。


「…なんで」


 分かったんですか?そう聞こうとしたが、彼女は俺に一時の猶予も与えなかった。初めて会った日と変わらない、冷ややかに目を細めて口角を上げた。


「ならば良い案件だぞ、互いに。私はアイツが欲しいんだ」
「え?」
「アイツの全てを奪いたい」
「…!!」


 言葉が出てこない。彼女の声音があまりにも冷たいものだから、綺麗な顔を思いっ切り歪めて恐ろしく笑うものだから何も言えない。
 この人はこんな顔をする人だったか?この世の全てを憎む殺人鬼のように、背筋が凍り付くような笑い方をする人だったか?俺の記憶の中の彼女は、冷ややかではあってもどこか温もりある綺麗な笑顔のよく似合う人だった。


「これだけの人を不幸にしておいて、これから先ものうのうと生きようなんざおこがましいわ。八つ裂きにしてやる」


 復讐──その二文字が頭に浮かんだ。俺の前ではいつも飄々とした態度を取っていたこの人が、今日初めて憎しみという感情を顕にしている。眉間に皺を寄せて低い声で呟いた彼女を見ると、九年前の自分の無力さを突き付けられているようで胸が傷んだ。


「お前が望むものは全てくれてやる。だから千冬、お前も私のコマになれ」
「…コマ、ですか」


 変わっちまった。この人はコマなんて言う人じゃなかったのに。淡々としているように見えてもいつだって仲間のことを一番に考えている人だったのに。場地さんのように、強くてカッコいい人だったのに。


「一つだけ、言わせてください」
「…言ってみろ」


 アンタの涙を見た日から、俺はずっと後悔していた。場地さんが死んだあの日、アンタの側を離れることに何の躊躇もなかった。この人は強いから一人でも生きていけると信じて疑わなかった。本当は心の中で泣いていたはずなのに、誰よりも稀咲を恨んだはずなのに、俺は気付くことができなかった。


「俺はアンタが東卍を抜けた時安心した。この人は真っ当な道を歩むと思ったからだ」


 守ると誓ったのに無責任だと思いながらも、すっかり悪い方向に進みかけていた東卍から去ってくれて安心した。これ以上彼女が危険な目に遭うことも傷付くことも無くなると思ったからだ。


「でも今のアンタを見て失望した。アンタは今の俺らと同じくらい腐ってるよ」


 どうして俺らと同じ場所に堕ちてしまったんだよ。真っ当に生きて、いつの日かなりたいと言っていた医者になれば良かったじゃないか。こんな大きな組織を作り上げるくらいの頭脳があるんだ、アンタなら絶対なれたでしょう。


「正しさだけじゃ何も変えられない。それを私に教えたのは東卍だ」


 口元に冷笑を浮かべた彼女の言葉を聞いた瞬間、俺の中の何かが崩れた。心の奥底に閉じ込めて蓋をしていた淡い期待とも言える想いが、真っ黒な霧に包まれて消えていく。


「…そうですか」


 こんなにも悲しいと思ったのはいつ以来だろう。あの日からずっと、彼女が俺たちに見ていたのは軽蔑以外の何ものでもなかったんだ。腐っていく東卍を軽蔑し、それを糧に違う方面から成功する道を選んだんだ。東卍おれたちは、俺はとうの昔に切り捨てられていたんだ。一緒にいたい、離れたくないと思うことすらあり得ない存在に成り下がっていたんだ。


「…その取り引き、受けます」


 それでも俺は彼女から離れられない。もう二度と会うことは無いと思っていたから、この機会を逃したら本当に終わってしまう。それだけじゃない、これを逃せば俺はきっと何も変えられない。志だけで行動を起こせぬまま今まで来てしまった俺の過去を、彼女と手を組むことで精算する。


「交渉成立だな。…念の為言っておくが、変な真似したら命は無いと思え。私は執念深いからな、どこに隠れても必ず見付け出す。…例え相手がお前でも、容赦なく切り捨てる。今の私はそういう人間だ」
「…よぉく分かってますよ」


 脅されているはずなのに、冷ややかな目は恐ろしく光っているはずなのに、何故だか胸が高鳴った。
 理由はどうあれこの人に執着して貰えるなら幸せかもしれない──そう思ってしまうのは、久々に会った初恋の相手があまりにも変わり果てていたショックのせいだろう。




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