第十四章
* * *
緩んだ頬のまま携帯を見れば、画面にいくつかメッセージが並んでいる。指紋認証でロックを解除してLINEを開けば、私の大好きな名前が一番上にきていて幸せな気持ちになる。
『いざとなればテニス部の誰か誘いなよ。なんならお兄さんでも良いし』
『さっき兄さん誘ってきた』
『行動が早い(笑)どうだった?』
『来てくれるって。あともう一人交渉中』
『へえ、それは誰?』
『不二さん』
『不二?仲良かったっけ?』
『兄さんが仲良いの』
『ああ、なるほど』
そこまでのやり取りを終えた私はふうっと大きく息を吐く。普段あまりLINEでやり取りをしないから、こんなに立て続けで文字を打つと疲れてしまう。今時の若者らしからぬ発言だからあまり外では言わないようにしているが、私はやっぱり話すなら対面が良い。
「優里」
「あ、兄さん」
「さっきの件だが、不二も行けるそうだ」
「本当!?…不二さんも案外暇なのね」
「そんな言い方をするな」
呆れたようにため息をつく兄に手招きすれば、兄は私の枕元に腰掛けると私の髪を優しく撫でた。懐かしい感触に胸が熱くなった私は、兄の手に頬ずりすると上半身だけ起こして寝返りを打つ準備をする。
「精ちゃんに報告しとくね」
「ああ」
兄の相槌と共にゴロンと寝返りを打った次の瞬間、手の中のスマホがバイブ音と共に震え出した。驚いて画面を見れば着信中の表示が出ていて、その相手はずっとやり取りを続けていた彼だった。
「もしもし?」
「あ、もしもし優里?」
「精ちゃん…どうしたの急に」
「どうもしてないよ。優里の声が聞きたかっただけ」
本当にこの人は恥ずかしげもなくこんなこと言えてしまうのだから罪な男だ。彼にそんなこと言われて喜ばない女子がどこにいるのか。多分、この地球上のどこを探してもいないと思う。
「精ちゃんねぇ…そうやって思わせぶりなこと言って女の子たくさん泣かせてきたんでしょ」
「まさか。君にしか言わないよ」
私は肩をすくめると、ゆっくり起き上がって枕元に腰掛けていた兄の隣に並んだ。兄のたくましい腕に自分の腕を絡め、そのまま寄りかかって彼の顔を見上げれば、兄は少し困ったように眉を下げたが特に何も言わずされるがままになってくれた。
「土曜日ね、不二さんも行けるって」
「それは良かった。今年は来客が沢山で嬉しいよ」
「精ちゃんは何の出し物するの?メイド喫茶?」
「さすがにメイドは嫌だなぁ」
向こうで苦笑いをしてるであろう彼の顔を思い浮かべて笑顔になる私は悪い子だろうか。最近気付いたことだけど、私は結構人を困らすのが好きなのかもしれない。精ちゃんとか弦ちゃんとか兄さんとか、好きな人を困らせるのが好きなんだ。もちろん本気で困らせたいわけじゃないけど。
「精ちゃん女装似合うと思うよ。多分私よりずっと似合う」
「それは絶対にない。俺が今まで出会った人の中で一番可愛くて綺麗なのは優里だから」
「随分とお上手になったこと」
昔から人当たりの良い人ではあったけど、再会してからの彼は更に口が上手くなっていた。きっと深い意味は無くて、言葉遊び感覚で言ってることだと思うからあまり真に受けてないけどいきなり言われると心臓に悪い。私よりもずっと美しい男の子に言われたって説得力ないけど、そういった言葉が嬉しくない女の子はいないと思う。
「昼前にはそっち着く予定だから」
「分かった。会えるの楽しみにしてる」
「…うん、私も」
思わずギュッと携帯を握りしめた。もう電話を切らなきゃいけない、そう思うと急に寂しくなってしまう。私から別れを切り出したも同然なのに、どうしてこんなにも泣きそうになるのだろう。
そんな私の心境を察したのか、隣で黙ってやり取りを聞いていた兄が私の頭に手を乗せる。俺がいるから大丈夫──まるでそう言ってくれてるかのように温かく優しい手だった。
「…それじゃあ、おやすみ精ちゃん」
「…うん、おやすみ優里」
最後、電話越しの彼の声に私と同じ感情を読み取った気がした。自惚れかもしれないけど、彼も私と同じ気持ちでいてくれたなら幾分か心が楽になる。寂しいのは私だけじゃない、そう思えると安心する。
「切れちゃった」
「…まあ、もう遅いしな」
「確かに」
時計を見ればいつの間にか22時を回っていた。そろそろ寝る準備をしなければならない時間だ。いつもなら当然一人で寝るけど、今日は何だか人肌が恋しい。きっと今日は、一人じゃ寝られない日だ。
「…ねえ兄さん。もう一つ、お願い聞いてくれない?」
「どうした?」
「…一緒に寝て」
変化の読み取りにくい兄の表情が分かりやすく動いた。それくらい私の発言は衝撃的で常識外れなものだったのだろう。いくら兄妹といえど、思春期の男女が寝床を共にするのは好ましくないことくらい私も分かっている。
「なーんて、冗談よ冗談」
だから今のはなかったことにする。もし兄が許してくれるのなら昔のように甘えたかったけど、今の反応を見るに無理なのだ。さすがに身の程をわきまえろ、そういうことなのだ。
「明日も学校だしさっさと寝ましょう。ごめんね巻き込んで」
携帯を置こうと立ち上がった私の腕を兄が掴む。思いの外引っ張られる力が強くてそのまま倒れ込んだ私を、兄が包み込むように受け止めた。後ろから抱き締められる形で兄の腕に収まった私は、驚きよりもホっとした気持ちが勝ってしまって兄の腕に顔を埋めた。
「お前は時々、脆くなるな」
「…時々じゃない、結構な頻度」
「何が原因だ?」
「…分かったら苦労しない」
そう、原因なんて分からない。何か引き金があるとすれば、遠い誰かに想いを馳せた時だろうか。精ちゃん、弦ちゃん、それからメイディ──簡単には会えない大切な人を想った時、堪らなく寂しくなってしまう。
「…精ちゃん」
無意識に彼の名前を呼んでしまったのは、彼との別れを惜しんだ名残。LINEだけなら良かったのに、電話までかけてくるんだもの。声を聞いたら会いたくなってしまうのに、彼は本当に酷い人。
「…ありがと兄さん。もう大丈夫」
心なしか、私を抱き締める兄の力が強まった気がする。きっと彼が本気を出せば私の骨の一本や二本は折れてしまうんだろうけど、少し苦しい程度で済んでるあたりやっぱり兄は優しい。
「…優里」
「なぁに?」
「…幸村が恋しいか?」
耳元で聞こえる兄の声に大きく瞬きをする。今まで私の人間関係に干渉することのなかった兄のその発言に驚いた。恋しいかなんて答えは決まってるけど、何故だか言葉が出てこない。これ以上は何も言ってはいけないと、私の中の私が声を上げている。
「…ねえ兄さん、もう良いよ。もう大丈夫だから、手を離して」
やっとの思いで発した言葉は、私が思っていたよりもずっと優しい声音で部屋に響いた。いつもと違う兄に一瞬だけ戸惑ったけど、こんな状況でも恐怖なんて一切無い。それはきっと私が兄を大好きで、例え何があっても大丈夫という安心感があるからだ。
「…兄さん」
兄の力はどんどん強まっていく。苦しい、そう訴えても解放してくれない。私は何か兄を怒らせることを言っただろうか、なんてほとんど寝かけている頭で必死に考えるけど分からない。それに多分、何となくだけど兄は怒ってるわけじゃない気がする。私と同じ、寂しい気持ちが生まれたんだ。
「優里」
「…なぁに?」
「…もう少しだけ、俺の側にいてくれ」
ほらね、やっぱり。兄さんは私が遠くに行くと思ったのね。私にそんな度胸なんて無いの知ってるくせに不安になったのね。
でも何だか嬉しいわ。私を離したくない、貴方がそう思ってくれてるだけで生きてて良かったと思えるの。私はちゃんと望まれた子だった、そう思えるの。
「あのね兄さん。…優里はずっと、お兄ちゃんの側にいるよ」
だから兄さんも側にいてね。ずっとは無理だって分かってるけど、どうせすぐにいなくなってしまうのも分かってるけど、今だけは私だけの兄さんでいて欲しい。誰もが憧れるテニス選手の手塚国光じゃなくて、たった一人、私だけの兄でいて欲しいの。
緩んだ頬のまま携帯を見れば、画面にいくつかメッセージが並んでいる。指紋認証でロックを解除してLINEを開けば、私の大好きな名前が一番上にきていて幸せな気持ちになる。
『いざとなればテニス部の誰か誘いなよ。なんならお兄さんでも良いし』
『さっき兄さん誘ってきた』
『行動が早い(笑)どうだった?』
『来てくれるって。あともう一人交渉中』
『へえ、それは誰?』
『不二さん』
『不二?仲良かったっけ?』
『兄さんが仲良いの』
『ああ、なるほど』
そこまでのやり取りを終えた私はふうっと大きく息を吐く。普段あまりLINEでやり取りをしないから、こんなに立て続けで文字を打つと疲れてしまう。今時の若者らしからぬ発言だからあまり外では言わないようにしているが、私はやっぱり話すなら対面が良い。
「優里」
「あ、兄さん」
「さっきの件だが、不二も行けるそうだ」
「本当!?…不二さんも案外暇なのね」
「そんな言い方をするな」
呆れたようにため息をつく兄に手招きすれば、兄は私の枕元に腰掛けると私の髪を優しく撫でた。懐かしい感触に胸が熱くなった私は、兄の手に頬ずりすると上半身だけ起こして寝返りを打つ準備をする。
「精ちゃんに報告しとくね」
「ああ」
兄の相槌と共にゴロンと寝返りを打った次の瞬間、手の中のスマホがバイブ音と共に震え出した。驚いて画面を見れば着信中の表示が出ていて、その相手はずっとやり取りを続けていた彼だった。
「もしもし?」
「あ、もしもし優里?」
「精ちゃん…どうしたの急に」
「どうもしてないよ。優里の声が聞きたかっただけ」
本当にこの人は恥ずかしげもなくこんなこと言えてしまうのだから罪な男だ。彼にそんなこと言われて喜ばない女子がどこにいるのか。多分、この地球上のどこを探してもいないと思う。
「精ちゃんねぇ…そうやって思わせぶりなこと言って女の子たくさん泣かせてきたんでしょ」
「まさか。君にしか言わないよ」
私は肩をすくめると、ゆっくり起き上がって枕元に腰掛けていた兄の隣に並んだ。兄のたくましい腕に自分の腕を絡め、そのまま寄りかかって彼の顔を見上げれば、兄は少し困ったように眉を下げたが特に何も言わずされるがままになってくれた。
「土曜日ね、不二さんも行けるって」
「それは良かった。今年は来客が沢山で嬉しいよ」
「精ちゃんは何の出し物するの?メイド喫茶?」
「さすがにメイドは嫌だなぁ」
向こうで苦笑いをしてるであろう彼の顔を思い浮かべて笑顔になる私は悪い子だろうか。最近気付いたことだけど、私は結構人を困らすのが好きなのかもしれない。精ちゃんとか弦ちゃんとか兄さんとか、好きな人を困らせるのが好きなんだ。もちろん本気で困らせたいわけじゃないけど。
「精ちゃん女装似合うと思うよ。多分私よりずっと似合う」
「それは絶対にない。俺が今まで出会った人の中で一番可愛くて綺麗なのは優里だから」
「随分とお上手になったこと」
昔から人当たりの良い人ではあったけど、再会してからの彼は更に口が上手くなっていた。きっと深い意味は無くて、言葉遊び感覚で言ってることだと思うからあまり真に受けてないけどいきなり言われると心臓に悪い。私よりもずっと美しい男の子に言われたって説得力ないけど、そういった言葉が嬉しくない女の子はいないと思う。
「昼前にはそっち着く予定だから」
「分かった。会えるの楽しみにしてる」
「…うん、私も」
思わずギュッと携帯を握りしめた。もう電話を切らなきゃいけない、そう思うと急に寂しくなってしまう。私から別れを切り出したも同然なのに、どうしてこんなにも泣きそうになるのだろう。
そんな私の心境を察したのか、隣で黙ってやり取りを聞いていた兄が私の頭に手を乗せる。俺がいるから大丈夫──まるでそう言ってくれてるかのように温かく優しい手だった。
「…それじゃあ、おやすみ精ちゃん」
「…うん、おやすみ優里」
最後、電話越しの彼の声に私と同じ感情を読み取った気がした。自惚れかもしれないけど、彼も私と同じ気持ちでいてくれたなら幾分か心が楽になる。寂しいのは私だけじゃない、そう思えると安心する。
「切れちゃった」
「…まあ、もう遅いしな」
「確かに」
時計を見ればいつの間にか22時を回っていた。そろそろ寝る準備をしなければならない時間だ。いつもなら当然一人で寝るけど、今日は何だか人肌が恋しい。きっと今日は、一人じゃ寝られない日だ。
「…ねえ兄さん。もう一つ、お願い聞いてくれない?」
「どうした?」
「…一緒に寝て」
変化の読み取りにくい兄の表情が分かりやすく動いた。それくらい私の発言は衝撃的で常識外れなものだったのだろう。いくら兄妹といえど、思春期の男女が寝床を共にするのは好ましくないことくらい私も分かっている。
「なーんて、冗談よ冗談」
だから今のはなかったことにする。もし兄が許してくれるのなら昔のように甘えたかったけど、今の反応を見るに無理なのだ。さすがに身の程をわきまえろ、そういうことなのだ。
「明日も学校だしさっさと寝ましょう。ごめんね巻き込んで」
携帯を置こうと立ち上がった私の腕を兄が掴む。思いの外引っ張られる力が強くてそのまま倒れ込んだ私を、兄が包み込むように受け止めた。後ろから抱き締められる形で兄の腕に収まった私は、驚きよりもホっとした気持ちが勝ってしまって兄の腕に顔を埋めた。
「お前は時々、脆くなるな」
「…時々じゃない、結構な頻度」
「何が原因だ?」
「…分かったら苦労しない」
そう、原因なんて分からない。何か引き金があるとすれば、遠い誰かに想いを馳せた時だろうか。精ちゃん、弦ちゃん、それからメイディ──簡単には会えない大切な人を想った時、堪らなく寂しくなってしまう。
「…精ちゃん」
無意識に彼の名前を呼んでしまったのは、彼との別れを惜しんだ名残。LINEだけなら良かったのに、電話までかけてくるんだもの。声を聞いたら会いたくなってしまうのに、彼は本当に酷い人。
「…ありがと兄さん。もう大丈夫」
心なしか、私を抱き締める兄の力が強まった気がする。きっと彼が本気を出せば私の骨の一本や二本は折れてしまうんだろうけど、少し苦しい程度で済んでるあたりやっぱり兄は優しい。
「…優里」
「なぁに?」
「…幸村が恋しいか?」
耳元で聞こえる兄の声に大きく瞬きをする。今まで私の人間関係に干渉することのなかった兄のその発言に驚いた。恋しいかなんて答えは決まってるけど、何故だか言葉が出てこない。これ以上は何も言ってはいけないと、私の中の私が声を上げている。
「…ねえ兄さん、もう良いよ。もう大丈夫だから、手を離して」
やっとの思いで発した言葉は、私が思っていたよりもずっと優しい声音で部屋に響いた。いつもと違う兄に一瞬だけ戸惑ったけど、こんな状況でも恐怖なんて一切無い。それはきっと私が兄を大好きで、例え何があっても大丈夫という安心感があるからだ。
「…兄さん」
兄の力はどんどん強まっていく。苦しい、そう訴えても解放してくれない。私は何か兄を怒らせることを言っただろうか、なんてほとんど寝かけている頭で必死に考えるけど分からない。それに多分、何となくだけど兄は怒ってるわけじゃない気がする。私と同じ、寂しい気持ちが生まれたんだ。
「優里」
「…なぁに?」
「…もう少しだけ、俺の側にいてくれ」
ほらね、やっぱり。兄さんは私が遠くに行くと思ったのね。私にそんな度胸なんて無いの知ってるくせに不安になったのね。
でも何だか嬉しいわ。私を離したくない、貴方がそう思ってくれてるだけで生きてて良かったと思えるの。私はちゃんと望まれた子だった、そう思えるの。
「あのね兄さん。…優里はずっと、お兄ちゃんの側にいるよ」
だから兄さんも側にいてね。ずっとは無理だって分かってるけど、どうせすぐにいなくなってしまうのも分かってるけど、今だけは私だけの兄さんでいて欲しい。誰もが憧れるテニス選手の手塚国光じゃなくて、たった一人、私だけの兄でいて欲しいの。