第十三章

* * *




 すっかり静かになった公園のベンチに腰掛け、濡れたハンカチで頬を押さえる優里の横顔をじっと見つめる。安心したのか、澄ました顔で遠くを眺める彼女はどこか冷めた表情をしていて、ついさっきまで必死に赤也を庇っていた少女とは別人みたいだ。
 問題を起こした張本人は柳に任せ、反省文を書かせる方向で落ち着いた。赤也は嫌だと騒いでいたものの、木陰で頬を冷やしている優里を見て罪悪感を抱いたのか渋々柳に着いていった。その後ろ姿にヒラヒラと手を振った優里は困ったような微笑みを浮かべていて、彼女はどこまでも優しい子だと改めて思った。


「悪かったね、怖い思いさせて」
「別に怖くなんてなかったわ」


 表情をピクリとも動かさず前を向いたまま即答した彼女に苦笑いする。今のは彼女の強がりで、同時に俺たちへの気遣いでもある。物凄く分かりにくいけど、自分は気にしてないからそっちも気にするなというメッセージだ。
 でも、例え彼女がそう言ったって気にせずにはいられない。電話越しに聞こえた彼女の悲鳴と鈍い音は、今でも耳に焼き付いている。あの時俺がどれだけ怖かったか、彼女はきっと分かっていない。赤也に殴られそうな彼女を見た時、俺がどれだけ焦ったことかこの子は少しも分かってない。


「…痛い?」
「大丈夫。私は外傷に強いから」


 一向に目を合わせようとしないのは、赤也に制裁を降す俺たちに失望したからだろうか。彼女は昔から暴力を嫌う子で、乱暴な連中には漏れなく軽蔑の眼差しを送っていた。


「ねえ優里」
「何?」
「どうして俺の方を見てくれないの?」


 軽蔑したならしたで構わない。それ相応の眼差しを向けてくれて構わない。例えどんな形であっても、彼女の瞳に映っていられるならそれで良い。だからせめて、冷ややかな眼差しでも構わないから俺の目を見て欲しかった。
 彼女はチラリと視線だけで俺を見ると、面倒くさそうにため息をついた。軽蔑ですらないその視線は、俺の胸をグサリと突き刺した。でも、優しい彼女は俺の僅かな心情の変化を見落としはしない。


「腫れてるのよ。見られたくないの」
「…ごめん」


 酷い目に遭わせたのもそうだけど、気を遣わせてしまったことも申し訳ない。今の彼女の言葉は半分本当で半分嘘で、本音は今すぐにでもこの場を立ち去りたいのだろう。


「それは何に対する謝罪?」
「…酷い目に合わせた」
「貴方のせいだって言うの?」


 彼女の声音が少しだけキツくなる。そしてようやく彼女は顔をこちらに向けてくれた。左頬は押さえたまま、人形のように固い表情で真っ直ぐに俺の目を見つめている。その表情からは何も読み取れなくて、彼女が今何を考えているのか理解しようとするけど難しい。
 しばらくの沈黙の後、固かった彼女の表情が徐々に崩れていく。形の良い眉を下げ、今にも泣き出しそうな顔で微かに口を開いた彼女を見て、今までの態度に込められた意味を理解した。


「ねえもう謝らないで?精ちゃん何も悪くないじゃない」


 そう、彼女は昔からこういう子だった。例えどんな状況であっても相手に罪悪感を抱かせるのが嫌なのだ。それは自分のためだと彼女は言っていたけど、少なくとも俺は他者への不器用な気遣いだと思っていた。
 俺は彼女の頬に手を伸ばすと、押さえている手にそっと触れた。頑なに見せようとはしないと思っていたが、意外にも彼女はすんなりとハンカチを退けてくれた。赤くなった左頬は痛々しくて、手を上げた犯人には直接的に制裁を加えないと気が済まないけど、きっと彼女はそんなこと望まない。


「腫れてても可愛いよ」
「それはどうも」


 素っ気なくそう言うと、彼女はふっと目を伏せて微笑んだ。綺麗だとか美しいとか、彼女に似合う言葉は山ほどあるけど、彼女の人となりを知ってからというもの一番似通う言葉は「可愛い」だと思っている。当の本人は真に受けていないみたいだけど、俺は心にも無い事を言えるほど器用な人間じゃない。
 俺は彼女から目を逸らすと、太陽の光を遮ってくれている青々とした葉を見上げた。葉っぱと葉っぱの間から差し込む光は星屑のようで、それをじっと眺めればさっきまで大きな音を立てていた心臓が徐々に静まっていった。


「彼…切原君はずっとあんな感じなの?」


 暫しの静寂を破った優里の声は鈴の音のように心地良いけど、聞かれた内容に関しては穏やかじゃない。そのうち聞かれるとは思ってたけど、赤也のアレをどう説明するのが正解なのか今の俺には分からない。


「怒りで暴走することはよくあった。…でも、悪魔化が完成したのは最近だよ」
「…そう」


 包み隠さず事実だけを述べれば、彼女は視線だけを下に向けて小さな声で相槌を打った。その横顔を見た俺は、やっぱり言わなければ良かったと後悔してしまう。全てを語ったわけじゃないのにこんなにも悲しそうな顔をするのは、俺が赤也に悪魔化を求めたことを察した何よりの証拠だ。


「…軽蔑した?」


 全ては立海三連覇のため──そう信じて疑わなかった。例え酷い選択だとしても、赤也のあの強さが俺たちには必要だった。誰に何と言われても、例え彼女がやめろと言っても、きっと結果は変わらなかった。だから後悔は無いはずなのに、こんなにも後ろめたい気持ちになってしまうのは結果が着いてこなかったからだろうか。
 そんな俺の暗い気持ちをかき消してくれたのは、全く予想していなかった彼女からの理解だった。


「何故?部長として、部に必要な選択をしたのでしょう?…立派なことじゃない、尊敬するわ」


 目の奥が熱くなる。今までも彼女は俺のことを否定したことはなかったけど、今回ばかりは拒絶されると思っていた。今の俺のスタンスは手塚率いる青学とは正反対のもので、他ならぬ彼女も青学に心を寄せていることに変わりはないはずだけど、それでも理解を示してくれる懐の深さに感銘を受けた。
 俺があまりにも情けない顔をしていたからだろうか、彼女は微かに眉を下げると俺の頭を優しく撫でた。でもすぐに手を下ろすと、視線を斜め下に向けて低い声でこう言った。


「でも、彼は成長するべきね。あんなことずっと続けてたら、命がいくらあっても足りないわ」


 ドクン、と心臓が大きく波打つ。同時にゾクッとした寒気まで襲ってきて、俺は思わず彼女の手を掴んだ。深い深い海の色をした彼女の瞳が闇への誘いに見えてしまって、戻ってきてと言わんばかりに小さな手を握り締めた。


「それって…」


 どういう意味──そう問おうとした瞬間、彼女のスマホが大きな音を立てて震え出した。驚いたのか目を見開いた彼女はすっかりいつも通りで、さっき抱いた恐怖の正体を暴くことは叶わなかった。
 俺は彼女の手を離すと、電話に出るよう目配せした。彼女は「ごめん」と手を合わせると、横に置いていたスマホに耳を当てた。


「はいもしもし。…今はね、立海の近くの公園にいる。…全然、大丈夫だからゆっくりしてきて。…うん、それじゃあね」


 淡々と受け答えする彼女だが、その表情は柔らかくて、電話の相手は彼女にとって大切な人だということがよく分かる。恥ずかしながら彼女の人間関係について詳しいとは言えない俺だけど、きっと相手はあの人だろうなという予想ならできる。


「誰から?」
「兄さん。用事が長引きそうだけど待てるかって」
「手塚と一緒に来てたの?」
「うん。なんか、課題の一貫みたいよ」


 予想は大方当たっていたけど、彼と一緒に来ていたとは思ってなかった。彼女は突然フラッと俺たちの前に現れるから、今日もそんな感じで気紛れに遊びに来ていたのかと思っていた。


「…君も、課題の一貫でこっちへ?」


 この子と手塚は兄妹だから、一緒に行動するのは何ら不思議なことじゃない。ただ、あの大会の日ですら一人で行動していた彼女が何の用事もなく兄に着いて行くとは考えにくい。
 俺の問いに、優里は少しだけ目線を上に上げて考え込むような表情をしていたが、意を決したように俺を見るとこう言った。


「私は貴方たち二人に会いに来たの。…会いたかったから、ここまで来た」


 また、心臓が大きく波打つ。今度はさっきと違う、胸の奥底から温もりが湧き出してくるような感覚だった。俺たちに会いたいという理由でここまで来てくれた彼女を愛おしく思うと同時に、あの大会以来無意識に彼女を遠ざけていた自分に気付いて苦しくなる。


「優里…」
「まあ、予想外に色んなトラブルに巻き込まれてしまったけど。それなりに楽しかったから良しとしましょう」


 そう言って軽く笑った彼女は、きっと俺の気持ちに気付いている。気付いているからこそ俺に先を言わせてくれないのだ。言いたくないことは言わなくて良い、そうやって態度で示してくれる彼女の素っ気ない優しさに心が軽くなった。
 
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