第十三章

* * *




 テニスコートで試合をする彼らを見て、言わんこっちゃないと顔をしかめた。切原君は例の悪魔化で相手をボコボコに痛め付けていて見ていられない。一体どこに悪魔化のスイッチがあるのか謎だが、あんな危険なこと繰り返してたら周りだけじゃなく彼自身にも害が及ぶ。
 とにかく辞めさせないとマズいけど、今の私に彼を止められる力はない。ここは本当に申し訳ないけど、直々の先輩の力を借りよう。
 私は携帯を取り出すと、LINEのトーク履歴を開いて彼の名前を探す。私は友達が少ないからすぐに見付けられるのが不幸中の幸いだ。焦りで速まる鼓動を押さえ付けて電話をかければ、彼はすぐに出てくれた。


「もしもし?」
「もしもし精ちゃん!?貴方のとこの後輩が他校の連中と揉めてるの、悪いけど来てくれない!?」


 平静を装おうとしても声が昂ぶってしまうのは、目の前で繰り広げられる残虐行為とも言える一方的な野試合に恐怖を覚えているからだろう。目と肌が赤く染まって、髪の毛は真っ白に変色した彼が本当の悪魔みたいで恐ろしい。


「何だって?もしかして赤也が?」
「そう、そうなの…!!事情は後で説明するから、すぐに……きゃあっ!!」


 突然頬を殴られた私は、そのまま地面に倒れ込む。左頬に激痛が走り、口の中に血の味が広がっていくのを感じながらもスマホが無事であることにホッとする。


「優里!?大丈夫!?何があった!?」


 機械の向こうから聞こえてくる精ちゃんの声に答えようと、地面に落ちたスマホに手を伸ばせば、私を殴ったであろう犯人がすぐ側まで迫っていることに気付いた。


「てめえこのアマ、誰に連絡してやがる!!」
「うっ…!!」


 何があってもスマホは死守したい私は咄嗟に身を丸めたが、脇腹に容赦なく入れられた蹴りのおかげで大きく咳き込む。


「優里!!今どこにいる!?」
「第一公園!」


 私はそれだけ答えると、ブチッと通話を切り男から距離を取った。頬と脇腹の痛みは全然消えないけど、こう二度も直に食らってしまうと相手への恐怖より怒りが勝ってくる。私は彼らの身を心配して止めてくれそうな人を呼んだのに、こんな仕打ちはあんまりだ。


「余計なことしてんじゃねぇぞテメェ!」


 腹が立って仕方ないけど、私には護身術の心得なんてほとんどないから反撃なんてできやしない。せめてあの二人が駆け付けてくれるまで耐えるしかない。
 覚悟を決めた私は、ギュッと目を瞑ると振り下ろされる拳を受け入れようとした──が、次の瞬間悲鳴を上げたのは私ではなく目の前の男だった。


「何逃げようとしてんだ?次はテメエの番だろーがっ!!」


 そう言って高笑いをする彼に私は助けられた。きっと彼にはそんなつもり微塵もないんだろうけど、ただこの場にいる全員叩き潰したいだけなんだろうけど、それでも私が殴られるのを阻止してくれたことに変わりはない。悪魔化してる彼は完全に我を失ってると思ってたけど、どうやらそうとも限らないようだ。


「来ねえんならそこで染めてやるよっ!!」


 高笑いと共に、豪打が目の前の男を直撃する。言葉どおり流血する男があまりにも痛そうで、私は思わず口元を手で覆った。自業自得とはいえ、さすがにこれはやり過ぎだ。


「切原君!!もうやめて!!」


 それでも彼は手を止めない。まだ動けそうなコート内の男目掛けけて強烈なショットを繰り出す。男の悲鳴と悪魔の高笑いが公園内に響き渡って頭がおかしくなりそうだ。


「もう嫌だ…。精ちゃん弦ちゃん、早く来て…」


 私は頭を抱えて俯くと、友人二人に救いを求めた。誰の耳にも届きやしない、それでももう少ししたら彼らが駆け付けてくれると思って心を静めようとした。
 でも、このまま彼らを待ってたらあの人はどうなるの?怖いからって、自分には無理だからって何もせず見殺しにするの?そんなの絶対後悔する。
 私は意を決すると、コート内に転がっているラケットを拾い上げ、彼が打ってきたボールを打ち返した。私の打ったボールは彼の顔の横すれすれを通って後ろの壁に直撃し、そのままコート外を静かに転がった。


「切原赤也!!」


 彼の名前を叫ぶと、私は手に持っていたラケットを投げ捨てた。これ以上戦うつもりはないという意思表示と、これ以上傷つけ合う行為はやめようという願いを込めての行動だ。きっと今の彼には通用しないだろうけど、少なくとも私は今この場でラケットと共に恐怖心を捨て去れた。


「正気に戻りなさい」


 真っ直ぐに彼を見つめてそう言えば、彼の瞳が一瞬だけ揺れたような気がした。でもやっぱり、私では彼を正気に戻すのは役不足のようで、赤く充血した鋭い瞳にはすぐに敵意の炎が戻ってきた。今この瞬間、彼は私を敵と見做したのだ。


「さっきからごちゃごちゃうるせえんだよ!!引っ込んでろこのアマが!!」


 大声でそう叫ぶと、彼はラケットを持っている右手を勢いよく振り上げた。太陽の光がラケットの縁に反射して眩しいけど、そんなこと気にならないくらいにはマズいと思った。もう彼の手が止まることはないと分かっていてもその場から動くことができなくて、私は咄嗟に顔を背けると目を瞑って小さく両手を上げた。
 長らく痛い思いをしてこなかったから、直撃した時はさぞかし痛いのだろう。さっき殴られた時とは比べ物にならなくて、涙の一つや二つは流してしまうことだろう。悲鳴も上げてしまうかもしれないけど、これで少しは時間稼ぎになったと思う。
 走馬灯というのだろうか、ラケットが振り下ろされているのが分かる。物凄く速いんだろうけど、痛みと衝撃が走るまでにかなり時間があるからもしかしたら逃げれたかもしれない。でも、これは走馬灯だからきっと無理だ──そう思った時、誰かが私の側を通った気がした。とても懐かしい、安心できるこの感じはあの人しかいない。


「何をしている赤也」


 彼の声が聞こえると同時に目を開けた私は、恐る恐る顔を上げると目の前に立つ大きな背中を見つめた。振り下ろされたラケットを片手で受け止め、低く静かな声で後輩を叱る彼は全然知らない人みたいだ。


「…精ちゃん」


 痛い目に遭わずに済んだのは良かったけど、もしかしたら自分はとんでもない過ちを犯してしまったかもしれない。切原君の暴走を止めて欲しくて友人を頼ったけど、この後痛い目見るのは他でもない赤目の彼だ。


「…部長」


 ついさっきまで恐しい容姿だった彼がこの一瞬で元に戻っている。まだ目は充血しているものの、赤かった肌も白かった髪もすっかり元通りだ。あまりにも早い変化に、一体どういう仕組みなんだろうと眉をひそめたのも束の間、さっきよりも更に低い精ちゃんの声に心臓が縮まる。


「お前──自分が何をしたか分かってるのか?」
「待って、これには理由があるの!」


 ガチ切れモードの彼の腕を掴んで揺らせば、彼は少し驚いたような表情で私を見下ろした。澄んだ藍色の瞳が微かに揺れているところを見れば、彼は確かに怒っているけどそれと同時に動揺もしていたことが分かる。いくら大人びていると言えど中学生だ、後輩が問題を起こしたことへの焦りと不安で一杯一杯だったんだろう。


「あまり怒らないであげて、彼は…」
「赤也ー!!貴様、また問題を起こしおって!!いい加減にせんかー!!」


 空を切り裂くような声に驚いた私は、反射的に精ちゃんの腕にしがみ付くと彼の影に身を隠した。声の正体が誰かは分かっているものの、こうも立て続けに恐怖体験が続くと心臓が小さくなってしまう。


「げっ!!真田副部長…!!柳さんまでっ…!!」


 そう言っていかにもヤバそうな顔をする切原君はすっかり元に戻っていて、ホッとしたような焦ったような気持ちの狭間をウロウロしていた私は、ゆっくりと精ちゃんから離れた。そして、ボロボロになって地面に倒れている男たちに目をやると、もう行けという意味を込めて顎を上げた。
 幸いにも上手く伝わったようで、私と目が合った彼はフラフラと立ち上がるとその場から走り出した。続いて残りの3人も逃げるように立ち去ろうとするが、背の高い糸目の彼が行く手を阻んだ。


「話を聞かせて貰おうか」


 こんな状況でも彼だけは以前と全然変わらない。感情を昂らせることがあまりないのか、はたまた問題児の面倒を普段から率先して見ているためか。


「話なら私がします。帰してやって下さい」


 先に喧嘩を吹っ掛けたのは紛うことなく彼らだが、その報いは充分受けた。一刻も早く医者にかかるためにも、早くこの場からから逃してあげたい。誰が見ても結構重症なのは分かるはずなのに事情聴取しようだなんて、柳さんも穏和そうな顔して厳しい人だ。
 彼は少しの間私を見つめていたが、許可を得るかのように精ちゃんへ視線を移した。そんな一連の流れを見てると、精ちゃんは本当に威厳のある部長なんだなと改めて認識できる。


「良いだろう」


 精ちゃんが頷いたことを確認した柳さんは、男たちの通路を開けた。オドオドした様子で公園から出ていく彼らは大層情けないが、王者立海の頭三人衆はかなりオーラがあるから分からなくもない。
 取り敢えず、この問題の第1段は解決した──そう思った私がホッと息をついた次の瞬間、バアンッと鈍い音が公園に響き渡った。驚いて顔を上げた私の目に映ったのは、地面に倒れている切原君と仁王立ちする弦ちゃんの姿だった。


「ちょっと…!!何してるの!?」


 聞かずとも分かる、彼は問題を起こした後輩に制裁を与えたのだ。彼ならやりかねないと思っていたけど、こんな至近距離で見せられると黙っていられない。


「やめなよっ…!!」


 止めに入ろうとした私を、精ちゃんが邪魔した。こちらは見ずに腕だけで私を制し、行く先を阻んだ。彼なら暴力を止めるんじゃないかって、そう思ってた時期もあったけどやはり間違いだったみたい。


「立て赤也」


 低い声でそう言い放つ弦ちゃんが怖い。私の前ではあんなに無垢で憎めない人なのに、部活ではこんなにも威厳ある恐ろしい人だったのね。別に彼を否定するつもりは無いけど、せめて話だけでも聞いて欲しい。罰を与えるのはそれからでも遅くないはずなのに。
 話を聞いてと叫びたいけど、本当に恐怖を感じた時は声が出なくなるみたい。私も例外ではないようで、喉に手を当て彼らの背中に訴えることしかできない。


「言い訳はあるか?」


 でも、私の思いは届いたみたい。そうでなくても構わない、彼が後輩の話を聞く姿勢を見れただけでも安心する。少しだけど恐怖が薄らいだように感じた。


「…無いッス」


 なるほど、彼は罰を受け入れる姿勢なんだ。絶対弁明すると思っていたから少し驚いた。でも、どうしてこんな事になったかの説明は必要なはず。あの男たちがどんな事を言ってきて、自分がどのように返したのか、それは言い辛いし私も言いたくないけど、向こうが仕掛けた喧嘩だという事実は伝えるべきだ。
 再び制裁の手が振り上げられた次の瞬間、意を決した私は精ちゃんを押し退けると両手を広げて弦ちゃんの前に立ち塞がった。頭のすぐ横で止まった彼の手には目をやらず、険しい表情で私を見下ろす彼の目を真っ直ぐに見つめる。


「…何故庇う?」
「分かってるでしょう。先に仕掛けてきたのは相手方。彼は正当防衛だわ」


 正直かなり行き過ぎてはいたけど、そもそもあの男たちが余計なことしなければこんなことにはならなかった。それに、彼が怒った理由を思うと尚更庇いたくなってしまう。


「くだらん徴発には乗るなと何度も言っていた。それだけではない、無関係の人間にも手を上げたのだから当然非はある」
「そうかもしれない…そうかもしれないけど…」


 確かに彼は私にも手を上げようとした。でもそれは私が彼の邪魔をしたから。それに、偶然なのかもしれないけど私を助けてくれたのも事実。そして何より、自分のためじゃなくて仲間のために怒れる彼をこれ以上責めないで欲しい。


「──殴らないで…!」


 こういう時に限って上手く言葉が出てこない。きっと今の私は大層情けない顔をしているはずだ。だってすぐにでも泣き出しそうなの。
 情けない表情を少しでも隠したくて俯いた私だけど、彼の前を退けるつもりは微塵もない。一人だけの戦いだけど、ここで引いたら多分一生後悔する。ただのエゴでしかないけれど、これ以上誰かが傷付く姿は見たくない。


「真田」


 精ちゃんの声が聞こえたから恐る恐る顔を上げてみれば、彼は弦ちゃんに向かって小さく首を横に振った。それは後輩を許してやれという合図のようで、弦ちゃんは少し驚いた表情で彼を見つめた。でもすぐに私たちの方に向き直ると、険しい顔でこう言った。


「彼女に感謝しろ赤也」


 体の力が抜けていくのを感じた。その場に座り込みそうになったけど、人がいる手前そうもいかないから静かに長く息を吐いた。


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