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第十三章

* * *




 約一ヶ月ぶりに訪れた神奈川は、ホッとすると同時に緊張する。駅に着くなり用事を済ませてくるからと私とは反対方向に歩いていった不二さんたちの背中を見送りながら微かに首を傾げる。
 心配そうな顔で私に手を伸ばした兄を半ば引っ張るように去って行った不二さんと、相変わらずオドオドしつつも二人に着いて行ってしまった大石さん。一人残された私はこれから数時間自由の身だけど、いざあの二人の近くにやって来ると思うように体が動かない。


「無理だわ」


 取り敢えず一度休憩しよう。このまま彼らに会ってもまともに話なんてできやしない。正直、何も話せなくたって彼らの姿が見れれば充分だと思ってるけど、今はその準備すらできてない。
 駅の近くにあるファストフード店で一息つくことにした私は、店に入ると適当にココアだけ頼み広々とした四人がけのテーブルを陣取った。時間帯的には混んでいてもおかしくないが、幸いにも今日は空いていたから、いるかも分からない神様に心の中で手を合わせる。
 紙コップに入った淡い茶色の液体をくるくるかき混ぜながら、頬杖をついて窓の外に目をやる。今、あの二人はどこで何をしてるんだろう。今日私がここに来ることを彼らには告げていないから、彼らが学校にいなければ会うことは叶わない。その時は会うなということだったんだと思って諦められるから全然問題ないんだけど、会えてしまった時はどんな言葉をかければ良いんだろう。


「そういやさ、今年は立海準優勝だったらしいぜ」
「らしいな。何でも、優勝は東京の青春学園とかいうとこらしいぜ」


 すぐ後ろから聞こえてきた会話に手が止まる。今までただの雑音だったはずの会話が、その二校の名前を出しただけで何やらとんでもなく重要な話に思えてしまう。私は微かに横を向くと、会話の続きを聞くべく耳を澄ました。


「無名の学校にやられるなんて立海も情けねぇよなぁ」


 なんだ、そういう感じか。どうやらこの会話の主達は大層性格が悪いようだから聞くに値しない。やることがなくて暇だから、偶然仕入れたタイムリーな情報で盛り上がりたいだけだろう。
 私は視線だけを上に向けると小さくため息をついた。本当、自分は大したことないくせに人の苦労を想像しようともせず無神経に笑い話にしてしまう人間には嫌気が差す。


「幸村精市も大したことねぇな」
「そもそもアイツ病気だったんだろ?」
「マジ?大事な時期に病気とかウケるんだけど!」
「今なら俺アイツに勝てる気するわっ!!」


 プツン、と私の中で何かが切れた。考えるよりも先に体が動いて、いつの間にか私は後ろの席で騒いでいた男の一人に熱々のココアを被せていた。


「うっわ!!あっちい!!何すんだテメェ!!」


 大きな悲鳴と共に立ち上がった男と目が合う。いかにも醜い顔立ちをしているその男は、私を見るなり目を大きく見開いたが、すぐに元の形相に戻ると間にある背もたれを叩いて大きな音を立てた。まるで私を脅すような仕草だが、先程の発言で怒りが沸点に達した私には何の効果も無い。


「ああ、ごめんなさい。あまりにも耳障りだったから、つい」


 むしろこれだけじゃ足りないくらいよ。本当は店の壁に備え付けてある消化器を取り出してこの人たちの顔面にぶち撒けたい。醜くて汚らわしい思考回路を奇麗にしてやりたい。
 怯むどころか敵意剥き出しの私が気に入らなかったのか、隣に座っていた男が勢いよく立ち上がると物凄い形相で私に顔を近付けてきた。


「ああ!?なんだテメェこのクソ女!!ふざけてんじゃねぇぞ!!」
「ふざけてるのはそっちでしょ」


 そうよ、貴方たちが精ちゃんの何を知ってるの。彼の強さも苦しみも、何一つ知らないじゃない。ほんの一部の情報だけ切り抜いて、分かったような口振りで彼の人生をあざ笑う。この人たちがしているのはそういうことだ。


「あんたらなんて幸村精市の足元にも及ばない」


 馬鹿にしないで、精ちゃんは貴方たちが想像する何千倍も強いんだから。私は今まで色んな人のテニスを見てきたけど、言葉を失うくらいに強いと思った人は彼が初めてだったんだから。


「何だとテメェ!!調子に乗ってんじゃねえぞ!!」


 ココア色のシャツに染まった男が私の胸ぐらを掴んで揺さぶる。きっとここで引き下がらないと殴られる、そう思ったけど引き下がる気にはなれない。別にこんな奴らに殴られたところでダメージはないに等しいし、徹底的に罵らないと私の気持ちが収まらない。
 だから私引かないわ。どうせなら今思いつく限りの最高の罵倒でこの愚か者たちを怒らせてやろう。幸いにも短気そうな人たちだから、どんなにくだらない文句でもちゃんと怒ってくれるでしょう。


「月とスッポン…いいえ、太陽とゴキブリね」


 こんなこと言ったらゴキブリに失礼かしら。でもごめんなさい、これ以上の悪口が思い付かないの。最近はあまり人を煽るという行動を取ってなかったから、これが今の精一杯なの。
 私の胸ぐらを掴んでいた男の目が見開かれる。これは思った以上に効果があったなと微かに口角を上げた瞬間、男が片手を大きく振り上げた。殴られる──そう思った次の瞬間、大きな笑い声が店内に響いた。
 驚いた私は咄嗟に声のした方に視線を向ける。私たちよりも少し前方に座っていたらしきその人物を見た私は絶句してしまった。何故って私、その人物には見覚えがあったから。きっと向こうは私を認識してないと思うけど、私は彼を、いや彼らをあの大会で見ていたの。
 ああもう最悪──そう心の中で頭を抱えた私をよそに、おかしそうに笑っていた赤髪の男子が席から立ち上がって近付いてくる。


「おいお前ら、そこら辺にしとけよ。女子に手ぇ出すのはダサすぎんぜぃ?」
「ああ!?なんだテメェ」 


 さっきからずっと窮屈だった胸ぐらが開放されて呼吸がしやすくなるけど、サーッと頭から血が引いていく感覚が襲ってきてそれどころじゃない。
 どうしよう、私のせいで精ちゃんと弦ちゃんの仲間をトラブルに巻き込んでしまった。そんな、放っておいてくれて良いのに何で止めに入るのよ。面倒事には首を突っ込むなって教わらなかったの?
 堪らなくなった私は、ギュッと目を閉じると片手で心臓を抑えた。どうして私はいつも抜群なタイミングで余計なことをしてしまうのだろう。このまま喧嘩になったらどうすれば良いのか──そう思っていたが、不幸中の幸いと言うべきか無神経な男の一人が彼の正体に気付いて顔を引きつらせた。


「おい寄せ!…こいつ立海だ」


 何よ、本人たちに聞かれてまずいと思ってるなら最初から言わなければ良いのに。ギロリと男を睨み付ければ、いつの間にか私の横に立っていた色黒の男子が視界の隅に映ってドキリとした。
 彼はドンっと椅子の背に手を付くと、下世話な話をしていた男三人を睨み付けて低い声でこう言った。


「今すぐこっから出てくんなら、これ以上は何も言わねぇよ」


 私に言われたわけじゃないのに心臓が縮まる。この人のこと、あまり知らないけど常識人で優しいって精ちゃんが言ってたけど本当かなって思うくらいには怖い。
 慌てて店を出ていく男たちの背中を見送りながら、そもそも彼らはどこの学校の生徒だったんだろうと首を傾げる。


「よっ!お前幸村君と真田の知り合いだよな?」


 考え込んでいた私の顔を覗き込んで明るい笑顔で話しかけてくる少年のせいで更に心臓が跳ね上がる。反射的に睨んでしまったけど、彼は少しも気にした様子を見せずニカッと笑って自分を指差した。


「俺は丸井ブン太。そんでこっちはジャッカルな、シクヨロ!!」
「よろしくな」


 名乗って貰わなくても知ってるわ。貴方たちに限らず、立海テニス部のことは友人から聞いてるの。でも、彼らが私を認知していたことは予想外だ。話だけなら聞いててもおかしくないけど、私の姿を見てあの二人の知り合いだと判断できるのは不思議な話。
 私は小さく息を吐くと、空になったコップを握り潰し、机に備え付けてある紙ふきんを数枚取ってこぼれたココアを拭き取るべく彼らの横を通り過ぎる。


「おいおい待てよぃ!!今の流れで無視はねぇだろぃ!?」


 驚いたようにも焦ったようにも取れる口調で私に近寄ってくる赤髪の少年から逃れるようにゴミ箱へ向かおうとした私の通路を彼が遮る。


「…予定がありますので」


 敢えて彼と目を合わせないのは、これ以上面倒事を起こしたくないから。この二人に恨みはないし、むしろ助けて貰って感謝してるけど今の私は一刻も早くこの場から立ち去りたくて仕方ない。


「あれ、もしかして俺警戒されてる?心配すんなよぃ、俺ら幸村君と真田のダチだから!」
「本当に、予定があるんです」


 もう嫌だ、泣きそう。羞恥心と罪悪感で押し潰されそう。あんな場面に出くわしたのに、何故この人たちは涼しい顔して笑ってるんだろう。
 俯いたまま視線だけを上に向ければ、親しみやすい笑顔を浮かべた丸井さんと目が合う。でも、私があまりにも情けない顔をしていたせいか、彼は少しだけ眉を下げて困ったように笑った。


「ならさ、少しだけお礼させてくれよぃ。俺らの部長を庇ってくれたお礼」


 その言葉を聞いた私は首を大きく横に振った。だって私、そんな立派な気持ちであの行動を取ったわけじゃないもの。彼らに感謝される理由なんて一つもない。


「…別に、貴方たちの部長を庇ったわけじゃない」


 私は、私の友人を庇ったの。貴方たちが敬う立海部長の幸村精市じゃなくて、私の友達の精ちゃんを庇ったの。何も知らない無神経な外野が、彼の名前を口にするのが許せなかっただけだもの。



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