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第十三章

♢♢♢ 第十三章 ♢♢♢




 夏休みはあっという間だった。私にとっては日本で過ごす中学生になってから初めての夏休みで、テニスも辞めてしまったから大層暇なんだろうと思っていたけど予想以上に充実していたから人生何があるか分からない。
 全国大会は晴れて兄の夢が叶い、あの日の夜は興奮して眠れなかった。私の忠告を聞かず無茶をしてまたもや腕に負担をかけた兄だけど、そんな兄の熱い思いが他のメンバーの士気を上げていたことに間違いはない。
 それでも一言くらい文句は言いたくなるもので、「結局私の言う事は聞いてくれなかったね」とわざと冷たく言い放てば、兄は「すまない」と困ったように眉をひそめていた。


「本当、あの人は何でああなんでしょうね」
「本当だよ。もっと強く言っておいて」


 キャンバスを組み立てながらぼそりと呟いた私に不二さんが同調する。今日は始業式で、午前中で授業も終わりだから部活の開始時刻が早い。私の所属する美術部は今日の部活は休みだけど、夏休み中ほとんど顔を出さなかったこともあって久しぶりに筆を動かしたいと思った私は誰もいない部室を貸し切りで使用している。


「今日は何描くの?」
「今から決めます」


 不二さんたち3年生はあの大会で部活は引退らしいが、暫くは自由に参加したりしなかったりすると兄が言っていた。正直、今の青学は3年の実力が大き過ぎたから彼らが引退したらどうなるのか大層不安だが、今日学校に来てみれば同じクラスの桃城武が時期部長がどうこうみたいな話をしていたので当事者たちは前向きのようだった。


「次の部長は決まったんですか?」
「まだだよ。これから決めていくとこ」
「そうですか」


 キャンバスを組み立て終わった私はデッサン用の鉛筆を持つと首を傾げた。桃城君は明るくて面倒見も良いから後輩から慕われそうだけど、部長と言えば兄や精ちゃんみたいに威厳のある人がなるイメージだから少し違う。


「…海堂君、ですかね」


 心の中で留めておくつもりが声に出てしまった。私は彼と同じクラスになったことがないからよく知らないけど、この夏何度か試合を見る中で彼のストイックさは部として必要なものだろうと思った。


「優里ちゃんは海堂推しなんだね」
「いえ、消去法です。桃城君は部長って感じじゃないですから」
「クスッ…そう」


 咄嗟に失礼なことを口走ってしまったけど、相手は不二さんだから問題ない。悔しいけど彼は私の為人を見抜いているから、今の発言も本心じゃないと分かっている。


「そういえば、兄とはいつ試合するんですか?」
「取り敢えず、手塚の腕が治ってからかな」
「なら当分先ですね」


 正直、彼らの勝負はかなり興味がある。全国大会での不二さんの試合を見て、私の彼に対するイメージは結構変わった。勝つために必死になる彼の姿はなかなか心にくるものがあって、中学生最後の年にしてようやくその闘争心を引き出せたのかと思うと何だか感慨深い。


「僕も一つ聞いていい?」
「どうぞ」
「あれから幸村たちには会った?」


 一瞬時が止まった。あまりにも予想していなかった問いかけに心臓が暴れ出す。彼はいつも突拍子ないことを言ってくるからそれなりに耐性は付きかけているものの、まだまだ彼の方が上手らしい。


「…何故そんなこと聞くんです?」
「ん〜…何となく、気になって」


 そう言って眉を下げる不二さんは何だかいつもと違う。からかっているのかとも思ったが、私を見つめる緑色の瞳からはそんは感情読み取れなくて、むしろ心配しているような感じがした。


「貴方が気にすることじゃないです」
「まあそうなんだけどさ」


 素っ気なく答えた私に苦笑いした不二さんは、顎に手を当てて何やら考え込む素振りをした。本当に、何から何まで絵になる姿の人だなんて呑気にも感心してしまう私は結構彼に絆されている。
 私は鉛筆をキャンバスの縁に置くと、椅子から立ち上がって窓辺に近付いた。美術室の教室からはちょうど校門が見えて、下校する生徒の姿がちらほらあった。


「近くに住んでるわけじゃないから、そう簡単には会えないんですよ」


 本当はそれだけじゃないけど。あの日決勝戦が終わった後、私は誰にも会わず真っ直ぐ家に帰った。兄の悲願が叶った喜びと、あの二人の夢が敗れた悲しみで情緒がおかしくなっていたから。誰かの顔を見たら泣いてしまうと思ったから。
 それでも夜になったら兄に祝福の言葉をかけ、精ちゃんと弦ちゃんには労いの言葉を送った。兄とは色々語ることがあったけど、あの二人にはそれ以上何も言えなかった。


「それならさ、ちょうど良い話があるんだよ」
「…ちょうど良い話?」


 怪訝そうな顔で振り返った私は、思いの外近くにいた不二さんに驚いて後ずさった。ドン、と小さな音を立てて背中が窓にぶつかり、わずかな痛みが体中を走り回る。
 声は出ないけど微かに顔をしかめた私を不二さんは見逃さない。彼は優しく私の腕を掴むと、そのまま窓から引き寄せて軽く背中をさすってくれた。


「大丈夫?痛い?」
「そこそこ痛いです」


 真顔で即答した私がおかしかったのか、不二さんは小さく吹き出すと肩を震わせた。それでも私の背中をさする手は止めない辺り、彼も相当面倒見が良くて優しい人だ。
 そんな彼の優しさから逃れるように距離を取ると、私は正面から彼を見上げた。口元に手を当てて困ったように笑う彼は一体どんな心境なんだろう。


「それで、ちょうど良い話とは?」
「聞きたい?」


 そう言って目を細めた彼を見た瞬間、やられた、と心の中で頭を抱えた。この人の性格は分かっているはずなに、いとも簡単に騙されるのだから私は結構バカな部類に入るのかもしれない。
 私は視線を天井に向けると、大きくため息をついて首を横に振った。


「いえ全然」


 そう、この人は私をからかうのが好きなのだ。私の反応は決して良いものじゃないはずなのに何故だか気に入ってるみたいだから訳が分からない。そして何より、普通に優しい時もあるから尚更分からないのだ。
 私はもう一度大きくため息をつくと本来の目的を果たすべく元の場所へ戻ろうとするが、彼が咄嗟に腕を掴んだものだから叶わなかった。


「ごめんごめん、からかい過ぎた」


 そう言いながらも笑いを抑えきれてないあたり腹が立つ。それでも彼に強く言えないのは、私もいつの間にか彼に好意を抱いていたからだ。あまりにも頻繁に絡んでくるから、彼のいない日に退屈を感じるくらいには毒されてしまった。
 世の中には惚れた方が負けという言葉があるが、恋愛に限った話ではないよなと最近思うようになってきた。


「次の土曜日、湘南に行くんだ。君も一緒にどう?」
「…湘南?」


 今の私はさぞかしアホ面を晒していることだろう。全く想像していなかったどころの話じゃなくて頭がちっとも働かない。何故彼の口からその地名が出てきたのか、その理由が全然分からない。


「…それはまたどうして?」
「ちょっとね、用事があるんだ。手塚と大石も行く予定だから、一緒においでよ」


 兄さんはそんなこと一言も言ってなかった。いや、別に言ってもらう必要も無いんだけど、兄よりも不二さんの口から聞いてしまうというのが何だか悲しい。私と兄の間にある壁はまだ崩れていないと、そう言われてるようで寂しくなる。
 私は小さく息を吐くと、目の前に立つ不二さんを真っ直ぐに見据えた。誰もが見惚れる美貌とは彼のような容姿を指すのだろう、改めて見るとこの人はかなり美しい男性だ。きっと彼の誘いを断る女の子なんてこの学校にいないんだろうけど、私は敢えて真逆の道を選ぶ。だって私、今はあの二人に会わせる顔がないの。


「私は…」
「立海の近くに用があるんだ。僕らが用を済ませてる間に、お友達と会っておいで」


 何それ、決定事項なの?私の返事なんて最初から聞くつもりなかったの?私が首を横に振ることなんてお見通しで、それでも私を連れ出すつもりでいたの?


「…何故そこまで気にかけてくれるんですか?」


 でも不思議と悪い気はしない。むしろホッとしている自分がいる。彼が強引に話を進めてくれたことに救いを見出してる私は一体何なの?
 考えるまでもない、会わせる顔がないだけで本当は常に会いたいの。どんな小さな機会でも、彼らに会う言い訳にできるならこれ以上の幸福はない。


「…全部全部お見通しなのね」


 本当、この人には敵わない。人の本質を見抜く能力に長けているだけじゃなく、ちょうど良い強引さも兼ね備えているのだから大したものだ。きっと私みたいな内向的な人間にとって、彼のような人は必要なんだと思う。
 ふっと小さく笑うと、私はキャンバスの前に腰を下ろした。デッサン用の鉛筆を手に持ち、脳裏に焼き付いて消えない景色を描き下ろそうと息を吐く。そしてキャンバスに芯を立てようとしたその瞬間、不二さんが私の手を止めるように上から握り締めてきた。


「僕ね、あの二人と話す君の表情が好きみたいなんだ」


 耳元で囁くその声に目を見開く。あの大会のどこかで、私が彼らと話しているところをこの人は見ていたのだ。それは別に構わないのだが、彼らと話す私の頬はさぞかし緩んでいるのだろうと思うと恥ずかしい。私は結構表情を殺すのが得意だけど、彼らの前では貼り付けている仮面が崩れ落ちてしまうんだ。


「…もしかして私、結構分かりやすい?」
「うん、ものすごくね」


 すぐ隣にいる不二さんと目が合う。きっと彼とこんなに接近したのはこれが初めてだ。それくらい距離は縮まっていたけど全然嫌な気はしなくて、むしろ楽しい気持ちになった私は咄嗟に顔を横に向けると盛大に吹き出した。




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