第十一章
* * *
兄より一足先に家に帰った私は、今日一日の出来事をゆっくりと思い返す。朝は四天王寺の千歳さんに出会って、その後何故か不二さんに遭遇して六角中の試合を青学の人たちと見ることになった。比嘉中と六角中の試合は見ていて気持ち良いものじゃなかったけど、逃げ出した先で精ちゃんと会えたから嫌な気持ちは全て吹き飛んだ。
「千歳さん、菊丸さん…それから柳さん」
思えば今日は出会いの一日だった。新しい人と知り合えた貴重な一日だ。兄や精ちゃんたちとの共通の知人ができたことが嬉しかった。
「だからって何もないんだけど」
共通の知り合いができたからといって私に何か変化があるのかと言われたらそんなことはない。私に直接的な利益があるわけじゃないけど、大切な人がどんな人と話しているのかを知ることは私にとって結構重要だったりする。私の知らない彼らの姿を知っている人たちと話せたなら、もう少しだけ彼らに近付ける気がするから。
そろそろ日が暮れかけてくる時間だろうか。私が一番好きな時間で、私が一番寂しくなる時間帯。昔、あの二人と離れるのが嫌で嫌で仕方なくて、帰りたくない側にいさせてと言いたかったのに何も言えなかった幼い私を思い出すから寂しい。でも、人が少なくなっていく時間帯でもあるから好きなんだ。何だかミステリアスな雰囲気だから好きなんだ。
「優里」
「…兄さん!おかえりなさい」
今日は珍しく縁側から庭を眺めていたから兄に見付かるのが早かった。きっと帰ってきたばかりなのだろう、テニスバッグを背負ったまま私を見下ろす兄は私の知ってる手塚国光じゃなくて、青学を束ねる部長の手塚国光だ。だから少し近寄り難さも感じてしまうけど、次の瞬間には私の知る兄に戻ったからホッとした。
「まずは一勝だね、おめでとう」
「ああ、ありがとう」
「兄さん、カッコよかった。…私はこんな凄い人を妬んでたんだなって恥ずかしくなった」
自虐のつもりで言ったけど、思いの外兄は深刻に受け止めたようで表情が少し暗くなる。だから私は兄に近付き、彼の手をギュッと握り締めてそのまま甲に口付けた。
「尊敬してるの。私はずっと、兄さんになりたかった」
兄さんのように、強く優しい人になりたかった。でも、そう思えば思うほど苦しくなってどんどん真逆の人間になっていった。自分と周りを憎みまくって目の前が真っ暗になった時、救いの手を差し伸べてくれたのが精ちゃんで、そんな私の必死さを認めてくれたのが精ちゃんと弦ちゃんだった。
「…優里」
「ふふっ…。私って本当、すごい人を兄に持ったのね」
誇らしいことだ。私と兄は別の人間だから私が自慢できることじゃないけど、誇らしいと思うことに罪は無いはず。私が兄ばかり見ていた間、兄はもっと先の未来を見据えていたのだから追いつこうなんて無理な話だった。それに気付いたのは、恥ずかしながら最近だ。
「それなら俺は、こんなに優しくて美しい妹を持ったのだな。本当に幸せ者だ」
「…そんな、気を遣わないで」
「本心だ。…この際だから言ってしまうが、お前の存在を羨ましがられることは多い」
「皆見る目が無いんだわ」
それか、適当なこと言ってるだけ。どちらでも構わないけど、兄が私を良く思ってくれているならそれで充分。彼が私の存在を肯定してくれるなら、これ以上の喜びはない。
軽く握っていた兄の手が動いたかと思うと、私の頬を優しく撫でる。まるでそよ風のように心地良くて、夏にも関わらず温かくて気持ち良いと感じた。
「…優勝、できると良いね」
「ああ」
「応援してるから。負けないでね」
嘘、本当は負けても良い。どうか自分の体を大事にして欲しい。いつも誰かのために戦っている兄を尊敬しているけど心配もしている。また何かの拍子に怪我が再発しやしないか、不安で不安で見ていられない。
でも、例えどんな結果が待っていても最後まで見届けると決めた。兄の姿を、友の姿をこの目に焼き付けて忘れない。その代わりと言ってはなんだけど、少しだけ傷跡を残しても良いだろうか。
「…またあんな事になったら、私は相手を許さないから」
きっと兄にはこれが一番よく効く。試合がきっかけで腕の怪我が再発したなら、兄ではなく相手を恨む。例えそれが兄の選択の結果だとしても、選手生命を脅かすような戦い方は褒められたものじゃないはず。
「地獄に落としてやるからね」
だからどうか忘れないで。貴方が無茶することで得する人はいないってこと。例えチームが勝ったとしても、あの面子が貴方の犠牲を仕方のないことなんて思えるわけないってこと。結局誰も、幸せになんてなれないってこと。
「…心配するな。もう怪我は治っている」
「…それなら良いの」
頬に触れていた兄の手をそっと払うと、私は自室へと足を進めた。これ以上兄の前にいると、普段必死に隠している攻撃的な部分が出てきそうで怖かった。きっと兄は私のそういった一面も知っていると思うけど、少なくとも私はこれ以上誰かを傷付ける人間にはなりたくないのだ。
兄より一足先に家に帰った私は、今日一日の出来事をゆっくりと思い返す。朝は四天王寺の千歳さんに出会って、その後何故か不二さんに遭遇して六角中の試合を青学の人たちと見ることになった。比嘉中と六角中の試合は見ていて気持ち良いものじゃなかったけど、逃げ出した先で精ちゃんと会えたから嫌な気持ちは全て吹き飛んだ。
「千歳さん、菊丸さん…それから柳さん」
思えば今日は出会いの一日だった。新しい人と知り合えた貴重な一日だ。兄や精ちゃんたちとの共通の知人ができたことが嬉しかった。
「だからって何もないんだけど」
共通の知り合いができたからといって私に何か変化があるのかと言われたらそんなことはない。私に直接的な利益があるわけじゃないけど、大切な人がどんな人と話しているのかを知ることは私にとって結構重要だったりする。私の知らない彼らの姿を知っている人たちと話せたなら、もう少しだけ彼らに近付ける気がするから。
そろそろ日が暮れかけてくる時間だろうか。私が一番好きな時間で、私が一番寂しくなる時間帯。昔、あの二人と離れるのが嫌で嫌で仕方なくて、帰りたくない側にいさせてと言いたかったのに何も言えなかった幼い私を思い出すから寂しい。でも、人が少なくなっていく時間帯でもあるから好きなんだ。何だかミステリアスな雰囲気だから好きなんだ。
「優里」
「…兄さん!おかえりなさい」
今日は珍しく縁側から庭を眺めていたから兄に見付かるのが早かった。きっと帰ってきたばかりなのだろう、テニスバッグを背負ったまま私を見下ろす兄は私の知ってる手塚国光じゃなくて、青学を束ねる部長の手塚国光だ。だから少し近寄り難さも感じてしまうけど、次の瞬間には私の知る兄に戻ったからホッとした。
「まずは一勝だね、おめでとう」
「ああ、ありがとう」
「兄さん、カッコよかった。…私はこんな凄い人を妬んでたんだなって恥ずかしくなった」
自虐のつもりで言ったけど、思いの外兄は深刻に受け止めたようで表情が少し暗くなる。だから私は兄に近付き、彼の手をギュッと握り締めてそのまま甲に口付けた。
「尊敬してるの。私はずっと、兄さんになりたかった」
兄さんのように、強く優しい人になりたかった。でも、そう思えば思うほど苦しくなってどんどん真逆の人間になっていった。自分と周りを憎みまくって目の前が真っ暗になった時、救いの手を差し伸べてくれたのが精ちゃんで、そんな私の必死さを認めてくれたのが精ちゃんと弦ちゃんだった。
「…優里」
「ふふっ…。私って本当、すごい人を兄に持ったのね」
誇らしいことだ。私と兄は別の人間だから私が自慢できることじゃないけど、誇らしいと思うことに罪は無いはず。私が兄ばかり見ていた間、兄はもっと先の未来を見据えていたのだから追いつこうなんて無理な話だった。それに気付いたのは、恥ずかしながら最近だ。
「それなら俺は、こんなに優しくて美しい妹を持ったのだな。本当に幸せ者だ」
「…そんな、気を遣わないで」
「本心だ。…この際だから言ってしまうが、お前の存在を羨ましがられることは多い」
「皆見る目が無いんだわ」
それか、適当なこと言ってるだけ。どちらでも構わないけど、兄が私を良く思ってくれているならそれで充分。彼が私の存在を肯定してくれるなら、これ以上の喜びはない。
軽く握っていた兄の手が動いたかと思うと、私の頬を優しく撫でる。まるでそよ風のように心地良くて、夏にも関わらず温かくて気持ち良いと感じた。
「…優勝、できると良いね」
「ああ」
「応援してるから。負けないでね」
嘘、本当は負けても良い。どうか自分の体を大事にして欲しい。いつも誰かのために戦っている兄を尊敬しているけど心配もしている。また何かの拍子に怪我が再発しやしないか、不安で不安で見ていられない。
でも、例えどんな結果が待っていても最後まで見届けると決めた。兄の姿を、友の姿をこの目に焼き付けて忘れない。その代わりと言ってはなんだけど、少しだけ傷跡を残しても良いだろうか。
「…またあんな事になったら、私は相手を許さないから」
きっと兄にはこれが一番よく効く。試合がきっかけで腕の怪我が再発したなら、兄ではなく相手を恨む。例えそれが兄の選択の結果だとしても、選手生命を脅かすような戦い方は褒められたものじゃないはず。
「地獄に落としてやるからね」
だからどうか忘れないで。貴方が無茶することで得する人はいないってこと。例えチームが勝ったとしても、あの面子が貴方の犠牲を仕方のないことなんて思えるわけないってこと。結局誰も、幸せになんてなれないってこと。
「…心配するな。もう怪我は治っている」
「…それなら良いの」
頬に触れていた兄の手をそっと払うと、私は自室へと足を進めた。これ以上兄の前にいると、普段必死に隠している攻撃的な部分が出てきそうで怖かった。きっと兄は私のそういった一面も知っていると思うけど、少なくとも私はこれ以上誰かを傷付ける人間にはなりたくないのだ。