第十一章

♢♢♢ 第十一章 ♢♢♢




 全国大会1日目、兄を見送った私は少し遅れて出発の準備を始める。今日も清々しい夏晴れで気温も高いから選手たちは大変だろう。でも雨よりかはずっと良いから、きっとお天道様も彼らの晴れ舞台を祝福しているのだろう。


「行ってきます」


 今日も私は小さな声でそう言って家を出る。当然返事は返ってこないけどちっとも寂しくなんてない。これから兄の復活試合を観に行くから、精ちゃんと弦ちゃんに会えるから楽しみで楽しみで仕方ない。だからって訳じゃないけど、お気に入りの黒ワンピを着て出掛けるのがワクワクして気分良い。


「ねえねえ彼女、可愛いね」


 人通りの多い駅で声をかけてくる軽そうな男を盛大に無視してバスに乗れば、ホッと小さなため息が出た。もうすぐ開会式が始まる頃だろうかなんて、まるで小さな子を持つ母親のようにソワソワしている自分がおかしくて笑えてくる。
 今日のトーナメント表は昨晩兄に見せてもらったから把握している。青学は一回戦免除だからひとまずは様子見だと言っていた。同ブロックの六角中は関東大会で対戦した相手で、大会終了後には合同合宿もしたくらいには親しいようだ。
 私は六角中なんて全然知らないから興味ないけど、兄が教えてくれたチームだから把握はしておきたいと思った。
 そうやって色々思いをはせているうちに気付けば目的地付近のバス停に着いていて、危うく乗り過ごしそうになりながらも素早く駆け下りた私は会場内へと足を踏み入れた。


「…なんだ、まだ始まってないんだ」


 てっきり一回戦は始まっているものと思っていたが、どうやら開会式が終わったばかりのようであちらこちらを選手が自由に動き回っている。テニスコートにはアップを始めようとしている選手がちらほら見えるくらいで、予定よりも早く着いたことに今更ながら気付いた。


「早く着き過ぎても暇なんだよなぁ」


 もう少し迷いながら到着するつもりだったから、あまりにもスムーズに事が進み過ぎたみたい。そこは自分の弾取りの良さを褒めるべきなのかもしれないが、今回に関しては暇な時間が増えただけなので褒める気にもなれない。
 でも、せっかく時間に余裕があるなら少しくらい贅沢してもバチは当たらない。兄や友人に会うのは試合が終わってからと決めているから、ひとまず会場内を探索しよう。友の姿を思い出しながら幸せな自分を想像しよう。遠くで眠る愛しいあの子に思いを馳せて、いつか必ず叶えたい光景を思い浮かべるんだ。


「わっ…!」


 心を遠くに飛ばしていたせいか、私は何かにぶつかってしまった。いや、正確には誰かだった。慌てて顔を上げれば、目の前に背の高い不思議な雰囲気の男子が立っていて思わず面食らってしまう。


「ごめんなさい…!」


 びっくりした、何センチあるんだろう。顔を見る限りでは日本人だと思うけど、きっと私が知る日本人の中では一番背が高い。こんなに背の高い男の人に見下ろされて恐怖を抱かない女子はいないだろう。
 ああ今すぐ逃げ出したい、そう思った次の瞬間、彼の纏っていた雰囲気が少しだけゆるくなった。


「気にせんちょよかばい」


 方言だろうか、随分と独特の喋り方をする人だ。ついさっきまで怖いと思っていたのに一気に印象が変わってしまった。


「東京ん女子は美人たいね」


 そんな私の心の内など気にもかけず微笑んだ彼は神秘的だ。褐色の肌が魅力的な彼も今大会の主役だろうか。


「誰か探しよっと?」
「あ…いえお構いなく」
「迷子やなか?」
「違います。一人で来てますから、趣味で」


 趣味って何だ趣味って。あながち間違いでもないけど何か変な人みたいじゃないか。別にテンパってるわけじゃないけど冷静でもない。普段はもう少しまともな返答できてるのに。


「ほうか」


 この人が軽く流してくれる人で良かった。今会ったばかりだから当たり前と言えば当たり前だけど、変に突っかかってくる人じゃなくて良かった。昔はどんな状況でも器用に乗り越えれたはずなのに、いつの間にか私は随分と不器用になってしまった。


「ちなみに俺は迷子ばい」
「…え?」
「はぐれたったい」
「…そうですか」


 方言とは良いものだ。普段標準語しか喋らないし聞かない私にとってはかなり新鮮で、ブルーモードになりかけていた私を光の元へと引き戻してくれる。


「それは困りましたね」
「まあよかばい。ゆたーっとでくるけん」


 この人はきっとマイペースな人なんだろう。この会場は活気付いているのに彼の周りだけ空気が違う。さっきまでは恐怖を抱いていたくせにそんな呑気なことを思ってしまう私もかなりマイペースというか、自己中だ。


「どこの学校ですか?」
「ん〜…どこやて思う?」
「九州とかそこら辺ですかね」


 私はそこまで方言に詳しいわけじゃないけど人並みの知識はある。彼の話し方はきっとそっち方面だ。私は行ったことないけど、少し前まで兄が世話になっていた土地だ。


「残念、はずればい」
「…それは残念。自信あったんですけど」
「ははっ」


 気のせいだろうか、ほんの一瞬彼は寂しそうな顔をしたように思った。軽く笑ってはいるけど、その横顔はどこか無機質で違和感がある。でも、大して親しくもない人間に深入りするほどの好奇心も親切心も持ち合わせていない。


「選手ですよね?学校教えてくれたら探せますよ」


 ぶつかったお詫びだ、それくらいのことはするべきだろう。幸いにも全国大会だから学校数はあまり多くない。そして先ほど入口で会場の地図を頭に入れてきたから選手たちが集っていそうな場所は簡単に目処がつく。


「親切たいね」
「ぶつかったお詫びです」


 私の言葉に、彼は少し困ったように笑った。気にしなくて良いと言ったのに、とでも言いたげなその表情に安堵する。でも同時にお節介だったかもしれないとも思ってしまい、咄嗟に訂正しようと口を開きかけたが彼の方が少し早かった。


「そったらお願いしようかね。あんまし遅くなると白石がうるさいけん」
「…部長さんですか?」
「ほうよ、うちの部長たい。イケメンやけん会ってくと?」
「…いえ結構です」


 何故私が他校の部長に会わなければならないのか。下心があると思われるだけなんだから損しかない。いつだったか、初めて立海を訪ねた時に仁王という男に絡まれた日を思い出して腹ただしくなる。


「ははっ、まあそうばいね」


 彼の声でハッと我に返った私は、心の奥底の声を悟られないよう静かにゆっくりと息を吐いた。
 そして顔を上げてみれば、どこか愉快そうな表情の彼が目に入ってきたものだから思わず眉を寄せてしまう。この人も不二さんと同じで考えが読めないタイプかもしれない。


「アンタ、名前は何ていうと?」
「…手塚です」
「下の名前は?」
「優里」


 むぞらしか名前ばい──彼はそう言うと、私の頭に手を置いた。初対面の人間なのに不思議と嫌な気がしないのは、彼の手が兄と似ていたからだろう。頭を撫でるその手付きが、兄のそれと重なったからだろう。





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