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第十章

* * *




 家に着いたら、父も母も兄の帰還に大喜びした。私がドイツから戻ってきた日はここまでじゃなかったのにな、なんて思ってしまうけど決してマイナスな意味ではない。兄が皆から愛されるのは当たり前のことだし、今更羨ましいとも思わない。


『兄さんが帰ってきたよ』


 さっさと風呂を済ませた私は、携帯を取り出すと単調な文を精ちゃんに送ってみる。前はすぐに既読が付いたけど今日は付かないから彼も忙しいのだろう。常に携帯を監視できるほど中学生も暇じゃない。


「優里。夕飯はどうする?」
「あー…私は後にするわ」
「そうか、分かった」


 わざわざ呼びに来てくれた兄には申し訳ないけど、私はどうしても両親と食卓を一緒にしたくない。兄と二人なら全然良いけど、両親と兄がいる空間にいたくない。
 傍から見たら異状だとは思うが、両親は私に興味が無いから何も言わない。兄は私の気持ちを尊重してくれるから何も言わない。そして私も、この現状に満足している。誰も私の決定事項に口を出さない、この環境にだけは心から感謝している。


『そうみたいだね。真田から聞いたよ』


 バイブ音と共に画面に表示されたメッセージを見て、そういえば兄は抽選会に行ってきたんだったと思い出す。そしてこの感じからするに、精ちゃんは会場へは行ってないのだろう。


『調子良さそうだったよ。全国大会が楽しみだね』
『優里は大会見に来るの?』
『そのつもり。精ちゃんたちにも会いに行くね』
『本当!?楽しみが一つ増えたな』


 ふふっ、と声が漏れた。携帯を顔に近付けて目を閉じれば、精ちゃんの嬉しそうな顔が瞼の裏に浮かんで幸せな気持ちになる。彼の純粋な好意が嬉しくて、今日はなんて素敵な日なんだろうと泣きそうになる。


『弦ちゃんにもよろしくね』
『うん。手塚にもよろしく』
『うん。それじゃあおやすみ』
『おやすみ優里』


 まだ寝るには少し早いけど、彼らは2日後大会を控えている。あまり邪魔をしたら悪いから、物足りなくても身を引こう。それが私にできるせめてもの応援だ。
 ベッドに倒れ込んで天井をぼんやりと眺めていたら、コンコンとノックの音がしたので私はゆっくり身を起こす。はーい、とわざわざ気だるそうに返事をするのは家族への牽制でもあった。でも、ドアの先にいる人物は私が唯一牽制しない心を許した相手だった。


「優里」
「…兄さん。もう食べたの?」


 さすがに少し早過ぎないか。さっき別れてから10分も経ってない気がするけど、兄はこんなに食べるスピードが早かっただろうか。
 不思議に思いながらドアを開けた私の目に飛び込んできたのは、お膳を持った兄の姿だった。一瞬何が起きたのか分からなくて眉をしかめてしまったけど、これは兄の好意だと気付くのに時間はかからなかった。


「一緒に食べないか?」
「…あの人たちは?」
「皆もう食事は済ませている。…それに、俺はお前と話がしたい」


 ああ、本当に兄さんはどこまで優しいんだろう。私のことなんて気にしなくて良いのに。明日もきっと忙しいんだろうから、自分のことだけ考えてさっさと寝てしまえば良いのに。でも、こんな風に歩み寄って貰えて嬉しくないわけがない。


「…良いの?」
「ああ。俺の部屋の方が良いか?」
「いえ、ここで良いわ。ちょっと待ってて」


 端の方に折りたたんで置いていた机を組み立てると、私は兄を手招きした。兄はゆっくり机に食事を置き、私の食事も取ってくると背中を向けた。


「良いよ、自分で取りに行く」
「言い残してきたことがあるんだ」
「…そう。悪いね」


 本音を言うと、兄が取ってきてくれるのは助かる。私はあまり両親と顔を合わせたくないから。向こうが私に興味ないのは分かってるけど、それでも顔を見たら無駄な感情が湧いてきそうで怖いんだ。
 机の前に腰を下ろすと、私は何となく外に視線を向けた。網戸越しに見える街の灯りは美しくて心が落ち着く。エアコンを付けているから窓は閉めるべきなんだろうけど、密室というのは息苦しくていつも外から空気を取り入れていた。


「優里」
「わっ…!ごめん気付かなかった。ありがとう」


 いつの間にか戻ってきていた兄にお礼を言う。心配そうに眉を寄せた兄に少し肩身が狭くなって、私は誤魔化すように手を合わせた。


「いただきます」


 昔からの癖だ。私は一人の世界に浸ると周囲が見えなくなってしまう。この世界に私以外の人間がいることを忘れてボーッとしてしまう。兄は何も言わないけど、決して褒められた癖ではないと自覚している。


「大丈夫か?」
「うん大丈夫。ごめん」
「謝ることはない」


 やっぱり兄さんは優しい。絶対に私を否定しないから、彼が何か指摘をしてきた時は相当なんだと思えるから素直に受け止められる。両親から見放されていた代わりに、私は兄に色んなことを教えて貰ってきた。


「…そう思うと何だか異常ね」
「どうした?」
「何でもない」


 今更だけど普通じゃない。兄は今まで私を重荷に感じたことは無いのだろうか。そう思う前に私が彼を遠ざけたからその時期がこなかっただけなのだろうか。
 考えたって仕方ないけど、こんな恐ろしいこと本人に聞けるわけない。それに、仮に思ったことがあったとしても兄は絶対に言わない。


「精ちゃんがね、兄さんによろしくってさ」
「…そうか、そういえば連絡取ってるんだったな」
「そうそう。元気そうだよ、彼」
「それなら良かった」


 兄はあまり表情が豊かな方じゃないけど、私の前では結構分かりやすい。今も少しだけ表情が柔らかくなった。こうやって彼の態度を見ていたら思うけど、存外兄も私に心を許しているのかもしれない。





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