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第十章

* * *





 妹の細く小さな体を、折れないように気を付けながらも強く抱き締める。薄暗くなった公園には俺たち以外に誰もいない。電話では完全に暗くなる前には帰っていると言っていたが、実際は微妙なところだ。


「今日帰ってきたの?」


 そう言って俺から体を離した妹は穏やかな表情で微かに首を傾げた。黒髪の隙間から滴る汗は、彼女の美貌によく似合う。ここ数年、妹が運動している姿を見ていなかった俺は少し感慨深くなった。


「ああ。何とか抽選には間に合った」
「良かった。大石さん、びっくりしてたでしょう?」
「そうだな」
「皆喜んでいたでしょう?」
「皆にはまだ会ってない。ひとまず今日は竜崎先生に挨拶をしてきた」


 今日は抽選会だったから練習は休みだが、きっと皆自主連をしている。更なる高みを目指すため、必死に努力しているはずだ。


「じゃあ尚更楽しみね」
「そうだな」


 皆の成長が楽しみだ。俺のいない間、見事に関東大会優勝を決めた仲間たちを誇りに思う。そして同時に、ずっと殻に閉じこもっていた妹の心を揺さぶってくれたことに感謝している。


「もう怪我は大丈夫そう?」
「ああ」
「なら、肩慣らしに少し打たない?」


 そう言って優里はコートを指差した。辛うじて残っている空の赤が彼女の横顔を微かに染めている。少し見ない間に顔付きの変わった妹を見るに、彼女が俺の手元から離れて行く日はきっとそう遠くない。


「良いだろう」


 妹と打ち合うのは何年ぶりだろう。ラケットを手に取りコートに入れば、優里が「じゃあ打つね」と手を上げた。その声に頷いた次の瞬間、優里の手からボールが離れ、次の瞬間には俺の元に飛んできていた。


「今日を楽しみにしていたの」
「ああ、俺もだ」
「昔に戻ったみたい」
「あの頃は楽しかった」
「何を言ってるの。今も楽しいでしょ?」


 優里が笑っている。昔のような笑顔でテニスをしている。九州にいる間、全国大会に間に合うのか不安で頭が一杯だった。そんな中、夜の短い間だけでも聞こえる妹の声に救われていた。


「お前がいてくれて良かった」


 そう言ってネットにボールをかければ、優里は一瞬驚いた顔をしたがすぐに満足げに微笑んだ。いつの間にか空の赤は完全に消えて、コートを明かりが照らしている。


「もう夜だね。…帰ろうか」
「ああ、帰ろう」


 今日は一人じゃない、優里がいる。妹と同じ時間に同じ家に帰れる。当たり前だけど当たり前じゃない、そんな日常がやっと俺にも帰ってきた。


「九州のお話聞きたいな。小さいコーチのこと、もっと教えてよ」
「ああ、そうだな。お前の話も聞かせてくれ」
「私はもう語り尽くしたよ」


 そう言うと、優里は残っていた水を勢いよく頭にかけた。妹にこんな癖があるのは知らなかった。一体どこで身に付けてきたのか。


「優里…さっきも言ったがそれはどうかと思うぞ」
「なぜ?メイディもよくやってたよ」


 なるほど、ドイツの友人から教わったのか。否定するつもりはないが、その頃彼女たちは小学生だったはず。今はもう大人になりかけているのだから状況が違う。


「お前はもう中学生だろう」
「…それが何?」
「変な目で見られるぞ」


 男なら気にする必要はないが女子はそういった心配が出てくる。特に優里は、身内贔屓を抜きにしても優れた容姿をしているから尚更だ。


「そうかなぁ…。変だった?」
「そういう意味ではない」


 眉を寄せて不思議そうにこちらを見てくる妹に少し肩身が狭くなる。優里は決して察しの悪い人間ではないが、こういった類の話題に関してはあまり耐性が無いのかもしれない。


「…ああ、なんか分かったかも」


 優里は苦笑いすると手に持っていたペットボトルをベンチに置いた。そして乱暴に濡れた前髪を掻き上げると視線だけを俺に向けて口角を上げた。


「兄さんもそういうの気にするのね」
「他でもないお前だからだ」
「私が心配?」
「ああ心配だ」


 へーえ、と言って意味ありげに目を細める優里に俺の思いは届いただろうか。俺は今も昔も妹に対しては過保護だった自覚があるから、俺の気持ちは優里に伝わっていると信じたい。例え重いと言われても、彼女に対してはどうしても口煩くなってしまう。


「なら、やめるしかないね」


 でも妹は昔から素直だった。俺が言ったことは素直に飲み込んで行動に移す。それを嬉しく思うこともあれば申し訳なく思うこともあった。


「…行くか」
「うん」


 こうやって二人で夜道を歩けるのも当たり前じゃない。俺たちはそれぞれ外にもコミュニティはあるが、こうやって同じ家に帰れるのは兄妹だからこそだ。疎遠だった時間は巻き戻せないが、こうやって少しずつ空白の時間を取り戻していきたいと強く思う。


「兄さんはね…もっと冷酷でも良いと思うよ」


 何を思ったのか、優里は突然そんなことを呟いた。俺の視線に気付いたのか微かに目線を上に向けた彼女はどこか暗い顔をしている。


「どういう意味だ?」
「そのままよ。兄さんは優し過ぎるの」
「優しいのはお前だろう」
「いいえ、私は自分勝手な人間よ。…私と兄さんを足して2で割ればちょうど良いかもね」


 苦笑いのような表情で投げやりにそう言った妹の心の内を読み取るのは難しい。ただ、彼女が未だに俺の怪我を心配してくれていることだけははっきりと分かった。





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