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第十章

♢♢♢ 第十章 ♢♢♢




 全国大会開幕まで気付けばあと2日になった。3日ほど前、兄は電話で「間に合いそうだ」と言っていた。その声が普段よりも明るく聞こえたから、私も釣られて嬉しくなって大石さんか不二さんに伝えておこうかと聞いた。でも、まだ言わないでくれと言われたから何も言ってない。そして私も、兄が間に合うかもしれないということだけ知っていていつこちらに帰ってくるのかは知らないのだ。
 でもそれ以降連絡は取ってない。一昨日兄に電話をかけようとしたら「すまない、しばらく忙しい」と愛想のないメッセージを受け取り、少しがっかりして精ちゃんに電話しようとしたけど迷惑だろうと踏みとどまった。関東大会が終わってからというもの、ほぼ毎日欠かさず連絡を取り合っており、それは私にとって一日を締め括る楽しみになっていた。


「…今日はくじ引きだっけ」


 昨日、委員会で一緒になった大石さんから聞いた。何でも今日は全国大会の初戦相手を決める抽選日らしい。「緊張するなぁ」と力なく笑いながら頭をかく彼は、兄とは正反対の人だなと日誌を付ける片手間で思っていた。


「…テニスでもしてこようか」


 気付けば日が暮れかけている。夏は明るい時間が長くて助かる。さすがに真っ昼間に体を動かす元気は無いし、それ以上に明るいうちは誰かに姿を見られそうで嫌だった。だから私は太陽が沈みかけた時間を見計らって家を出る。動きやすい服に着替えて、昔使っていたテニスバッグを背負って近くの公園に出かけるのだ。


「行ってきます」


 いつも小さな声でそう言っている。家族に聞こえるくらい大きな声で言ったなら、きっと返事は返ってくる。でも私はやっぱり、兄以外の家族と仲良くする気になれない。昔から放っておかれていたものだから、劣等感も承認欲求もなくなった今両親に期待することは何もない。


「おう、出かけるんか優里」
「…うん」
「気を付けてなぁ」


 縁側で釣り竿の手入れをしていた祖父が私に手を降る。祖父は両親ほど露骨に優劣を付けなかったけど、やっぱり彼も私より兄を可愛がっていた。きっと兄の趣味が祖父と一緒だからなんだろうけど、やっぱり私は求められていないんだなと寂しくなる。


「…まぁ別に良いけど」


 今更そんなことはどうでも良い。私が兄を好きで、兄も私のことが好きという事実さえあればどうだって良い。それさえあれば、私はこの家に生まれてきて良かったと思えるのだから。幸せだと思えるのだから。
 公園に着いた私は、いつものベンチに荷物を置くと大きく伸びをした。オレンジ色に染まった空は絵に描いたように美しくて、キャンバスを持ってこれば良かったなんて思ってしまう。


「…記念撮影」


 キャンバスは無いけど、この綺麗な空は記憶に残しておきたい。パシャッと携帯で夕焼けを撮れば、少し憂鬱だった心が晴れていく。きっと明日も晴れるから、そう思うと頬が緩む。
 ふっと小さく笑った私は、携帯をバッグに押し込むとラケットを手に取った。軽く屈伸をして腕を回し、いつもの要領で壁にボールを打ち付ければ、あの日の少年の顔が頭を過り無意識のうちにスマッシュを打っていた。


「わっ…!!」


 ものすごい勢いで顔面目掛けて飛んできたボールをラケットで受け止め2、3歩後ろに下がった。ちゃんと自分の元に戻ってくるあたり良いショットだったことは分かるが、さすがに壁相手にスマッシュを決めるのは如何なものか。


「ふふっ…。やっぱり一人はつまらないや」


 テニスに関しては、誰かと一緒が良い。壁は私のコピーしかしないからつまらない。一人は嫌いじゃないけど、誰かと打ち合う楽しさを思い出してしまったらもう元には戻れない。


「…今日はもう帰ろ」


 何だか今日は憂鬱だ。今更ながら私は結構情緒不安定なんじゃないかなんて思ってしまう。気持ちが沈んだり昂ぶったりの繰り返しで、あまりの高低差にそのうち心臓が止まってしまうかもしれない。


「そんなわけないでしょ、バァカ」


 本当に私は愚か者。一人が好きなはずなのに、時々堪らなく寂しくなるの。孤独というものは自由で心地良いはずなのに、時々声を上げて泣きたくなる。長い人生の中でこんな思いを何度も繰り返すと考えたら気が遠くなるけど、それでも生きていたいと思える理由があるのだから私は幸せ者だ。
 ラケットを置いてベンチに腰掛けた私は、ペットボトルに入った水を喉に流し入れる。今日はいつもより汗をかかなかったけど、それでも暑いものは暑いから残った水で体温を下げよう──そう思って頭上でペットボトルを傾けた時、誰かに手首を掴まれた。


「年頃の女子がそんなことするな」


 息が止まるかと思った。この声、間違いなくあの人だ。受話器を介さずに聞いた彼の声は久しぶりだ。座ったまま振り向いて彼の顔を見上げれば、こんなにも威厳のある人だったのかと今更ながら心を奪われた。


「…おかえり、兄さん」
「ああ、ただいま」


 兄が微笑む。手首が開放されると同時に立ち上がった私は、ペットボトルを勢いよく置くと大好きな兄を抱き締めた。





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