第九章

* * *




 その日の夜、精ちゃんからメッセージが届いた。昨日も私が家に着いた頃に『ちゃんと帰れた?』という気遣いのLINEがきていたから対して驚きは無いけど、今日はとても刺激的な体験をしたから誰かに話したい。本当は誰よりも先に兄に話そうと思っていたけど気が変わった。


『ねえ、電話しても良い?』


 そう送ればすぐに既読が付いた。正直私はこの機能があまり好きじゃないけど、今この瞬間画面の向こうに彼がいると思うと悪くない。


『良いよ、かけて』


 その返事を見た私は、机の上に置いてある紅茶に視線をやると大きく深呼吸した。兄に電話する時と同じはずなのに気持ちの持ち方が全然違うから不思議なものだ。なんせ昨日久しぶりに会ったのだから無理もない。


「もしもし優里?」


 通話のボタンを押したら、少しの間も開けず彼が出た。電話越しでも変わらない穏やかな声が心地良いけど、やっぱり機械を介すとほんの少し物足りないなんて贅沢なことを思ってしまう。


「精ちゃん」


 私の声はどんな風に聞こえているのだろう。普段と変わらないだろうか、それとも緊張で震えているだろうか。平静を装うのは得意だから、私の心の内が彼に伝わることはないだろう。


「昨日ぶりだね」
「うん、昨日ぶり」
「今日は何してたの?」
「よくぞ聞いてくれた」


 彼なら聞いてくれると思っていた。だって昔からそうだったもの。彼は私に会う度に、学校のことや休みの日の私の生活を聞いてきた。まるで保護者みたい、そう思ったのを覚えている。


「え、なになに良いことあったの?」
「そうなの、すごくワクワクしたの」
「えー、なになに?教えてよ」


 このやり取り、昔に戻ったみたい。あの頃の私は捻くれてたからあまり自分のことを語れなかったけど、今は全然違う。今日あった出来事を、最初にできた友達と全て共有したい。


「今日ね、テニスをしに少し遠くの公園に行ったの」
「え、テニスしたの!?」


 そうか、彼には言ってなかった。やめたって話はしたけど、兄と昔みたいに打ち合うために練習してるって話はしてなかった。思えば私、彼とまともに語り合ったことないかもしれない。


「そうなの、どうしても叶えたいことがあって」
「へえ、どんなこと?」
「兄と打ち合いラリーをするの。今あの人、怪我を治すために九州に行ってるんだけど、帰ってきたら打ち合いたいの。…昔みたいにテニスしたいの」


 本当は今までの経緯全て話すべきなんだろうけど、どうか今は見逃して。私はまだ貴方に全てを話せるほど心の準備ができてない。私が兄を僻んでいたことも、ドイツで親友の未来を奪ったことも、今貴方に話すことはできない。だからどうか聞かないで。これ以上は、聞かないで。
 携帯をギュッと握り締める。彼がこの後どんな反応をするか想像できないのが怖い。


「へえ、良いね。手塚は幸せ者だなぁ」


 ホッとため息が出た。彼があまりにも軽く流してくれたから安心した。そういえば彼はむやみやたらに詮索したがる人ではなかった。色々聞いてはきていたけど、私が聞かれたくないことについては無理に聞き出そうとしなかった。だから私は彼らに心を開いたのだ。


「幸せ者は私の方だわ。素敵な兄に恵まれた」
「手塚もそう思ってるよ。可愛い妹に恵まれたって」
「だと良いんだけど」


 私は決して良い妹じゃない。兄は優しいから私を攻めたりしなかったけど、普通は愛想を尽かしているはずだ。私は本当に周りに恵まれていたと今更ながら思い知る。
 過去の自分の振る舞いを思い出しながら小さく首を振ると、私は本題に移ることを決心した。彼の声があまりにも優しくて心地良いからこのままじゃ危ないと思った。でも、こういう時先に話を切り出してくれるのは彼の器量の良さの何よりの証拠だ。


「それで、公園で何があったの?」
「意外な人物に会ったのよ。誰だと思う?」
「えー…それは俺が知ってる人?」
「知ってると思うよ。少なくとも弦ちゃんは絶対知ってる」


 あっ、と彼が呟いた。彼はあの時その場にいなかったから直接会ったことは無いのかもしれないけど、弦ちゃんはきっと彼に伝えている。越前リョーマという青学の1年を知っているはずだ。


「分かった?」
「…真田が負けた子かな?」
「あはっ、手厳しいね」
「正解かい?」


 彼の声が少しだけ低くなったように感じた。今この瞬間だけ、彼は王者立海大付属中テニス部の部長に戻ったのかもしれない。


「うん、正解。…ねえ精ちゃん、弦ちゃんを怒らないであげてね」
「ふふっ、別に怒ってないよ。むしろ感謝してる」
「それなら良いの」


 彼の言葉はきっと嘘じゃない。むしろ彼自身が責任を感じているように思う。彼にとって三連覇はどうしても成し遂げたい目標なはず。そんな時に病気に襲われて倒れた彼の苦しみは計り知れない。


「その子とね、試合したんだ。1ゲームだけ」


 本当は彼に慰めの言葉をかけるべきなのかもしれない。でも、彼が一番辛い時に側にいなかった私の言葉はあまりにも薄っぺらいから何も言えない。そして何より、私は彼らの間にある固い絆に割って入りたくない。


「越前リョーマ。彼は素晴らしい選手だわ」


 きっと貴方の障害になる──その言葉を飲み込んで、今日あった出来事を思い返す。あの少年は恐らく実力の半分程しか出してないんだろうけど、それでもテニスを純粋に楽しむ活き活きとした瞳が私の心を昂らせた。


「忘れかけていたものを取り戻せた気がするの」


 私がまだ兄と純粋にテニスを楽しんでいた日々を、メイディと笑い合って互いを高め合っていた日々を取り戻せた。もう一度、テニスが楽しいと思えたのだ。


「そう、良かったね。…でも、何だか妬けるなぁ」


 最後の彼の言葉はよく分からなかった。でも、当初の目的通り今日の熱りを共有できたことが嬉しくて、彼の気持ちを汲み取ろうと思える程の余裕がなかった。




 
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