第九章
* * *
久しぶりに誰かと試合をした。いや、誰かと一緒にボールを打ち合ったのは久しぶりだ。日本に戻って初めての試合は兄でも旧友でもなく、今日初めて口を利いた歳下の男の子だった。
「強いのね」
1ゲームを終えた私は、後片付けをしながら隣の彼に言葉を投げた。知っていたとはいえ、実際試合をしてみると改めて彼の凄さを認識した。技術があるのはもちろんのこと、何よりもセンスがずば抜けている。
上がった体温を下げようと飲んでいた水を頭から被れば、隣で帰り支度をしていた彼がギョッとしたようにこちらを見た。
「…アンタ、どこの学校?」
「貴方と一緒」
「え」
驚いてる驚いてる。目を大きく見開いて、嘘だろと言わんばかりに私の顔を見ている。だから私も彼を見つめ返せば、幼さは残るしいかにも気の強そうな顔立ちだけど普通にイケメンだな、なんて場違いな感想が湧いてくる。
「テニス部?」
「いいえ、美術部」
「じゃあ何でテニスを?」
「ほんの気紛れよ。昔やってたから、その名残」
本当のことは言わない。貴方たちに感化されてもう一度ラケットを握りたくなったなんて、大好きな兄が声をかけてくれたからなんて、大して親しくもない彼に言えるわけない。
「…ふうん。勿体ないね」
「私はそこそこ上手かった?」
彼は何も答えず、少し拗ねたようにそっぽを向いた。うん、きっとそれが答えだ。自惚れなんかじゃない、私は昔から上手かった。あの兄に教えられて育ったのだ、下手なわけがない。そもそも下手だったら、早いことテニスなど投げ出して違うことに没頭していたはず。
「実はね、見てたんだ。貴方と真田さんの試合」
突然の私の言葉にも大して驚く様子を見せない彼は1年なのに落ち着いている。この落ち着きは彼の自信の現れだと思う。あの日も思ったけど、彼は自分よりも格上とかそんなことは関係なく、対戦相手は皆対等だと認識しているのだ。
「正直、貴方は負けると思っていた」
「あっそ。でも勝ったのは俺だし」
「ええ、そうね。…だからすごく感動した」
意味のない会話だと思う。でも、あの日の光景は未だに脳内にこびり付いている。相手は1年にも関わらず真っ向勝負で叩き潰しに行った弦ちゃんも、その威厳に怯むことなく輝く瞳で立ち向かい見事に勝利を収めた彼も素敵だった。
「全国も観に行くわ。楽しみにしてる」
兄に言われたからというのもあるけど、それを抜きにしても観に行きたい。彼らだけじゃなくて、全国から集められた猛者たちの試合を観てみたい。日本のテニスの実力がどんなものなのか、この目で見てみたい。
「アンタは何でテニスやめたの?」
私の激励を無視して、彼はそんなことを聞いてきた。他人に興味なさそうに見えたけど、意外とそうでもないのだろうか。
「…怪我、かな」
正確には違うけど、兄以外の人にはそれで通してるから問題ない。異国での恐ろしく悲しい出来事を、今日会ったばかりの少年に話す必要はないし話したくない。
そんな私の曖昧な返事は彼にわだかまりを残したようで、彼は微かに眉をひそめた。でも、私たちの間に固く張られている見えない壁を感じたのか、それ以上何も聞いてこなかった。
「テニス部には兄がいるの」
「え?」
「手塚国光。…貴方には期待している、そう言ってた」
自分のことは語りたくない。でも、兄のことなら語りたい。かつてはあんなに嫌っていた兄の話を、こんなにも快くできる日がくるとは思ってなかった。色んな人の優しさに触れて私も少しずつ大人になっている、そう思って良いのだろうか。
「青学の柱、だっけ?」
兄や不二さん、そして大石さんも言っていた。今までは兄がその柱で、ずっと青学を支えていたのだ。彼らのテニスを知らなかった私だけど、意外にも私に話しかけてくれる人はいるもので、関係ないはずの私にもそんな話をしてくれた。
「なりなさいよ、兄に代わって」
正直なところ彼が羨ましい。私がどんなに頑張っても望んでも諦めなくても、彼のポジションには絶対になれない。私が男で、兄の弟として生まれていたらどんなに良かったか。もしかしたら、今とは全然違う世界を生きていたかもしれないのに。兄と共に歩む道を選べていたかもしれないのに。
「言われるまでもないよ。奪い取ってやる」
強い瞳と口調で不毛な思いを消し去ってくれた彼に感謝しよう。後悔ばかりの人生だけど、その中にも光はある。どんなに辛くて苦しくても、いつかは必ず和らぐと、それを昨日知ったばかりじゃないか。
「うん、約束」
未来明るい少年に祝福を。きっと彼は、日本だけじゃなくて世界をも震わせる選手になる。その過程で何度闇に突き落とされても必ず這い上がれる強さがある。
やや下にある彼の頭に手を置くと、私はそのまま公園を後にした。すっかり暗くなった空を見上げながら、明日も晴れますようにと心の中で呟いた。
久しぶりに誰かと試合をした。いや、誰かと一緒にボールを打ち合ったのは久しぶりだ。日本に戻って初めての試合は兄でも旧友でもなく、今日初めて口を利いた歳下の男の子だった。
「強いのね」
1ゲームを終えた私は、後片付けをしながら隣の彼に言葉を投げた。知っていたとはいえ、実際試合をしてみると改めて彼の凄さを認識した。技術があるのはもちろんのこと、何よりもセンスがずば抜けている。
上がった体温を下げようと飲んでいた水を頭から被れば、隣で帰り支度をしていた彼がギョッとしたようにこちらを見た。
「…アンタ、どこの学校?」
「貴方と一緒」
「え」
驚いてる驚いてる。目を大きく見開いて、嘘だろと言わんばかりに私の顔を見ている。だから私も彼を見つめ返せば、幼さは残るしいかにも気の強そうな顔立ちだけど普通にイケメンだな、なんて場違いな感想が湧いてくる。
「テニス部?」
「いいえ、美術部」
「じゃあ何でテニスを?」
「ほんの気紛れよ。昔やってたから、その名残」
本当のことは言わない。貴方たちに感化されてもう一度ラケットを握りたくなったなんて、大好きな兄が声をかけてくれたからなんて、大して親しくもない彼に言えるわけない。
「…ふうん。勿体ないね」
「私はそこそこ上手かった?」
彼は何も答えず、少し拗ねたようにそっぽを向いた。うん、きっとそれが答えだ。自惚れなんかじゃない、私は昔から上手かった。あの兄に教えられて育ったのだ、下手なわけがない。そもそも下手だったら、早いことテニスなど投げ出して違うことに没頭していたはず。
「実はね、見てたんだ。貴方と真田さんの試合」
突然の私の言葉にも大して驚く様子を見せない彼は1年なのに落ち着いている。この落ち着きは彼の自信の現れだと思う。あの日も思ったけど、彼は自分よりも格上とかそんなことは関係なく、対戦相手は皆対等だと認識しているのだ。
「正直、貴方は負けると思っていた」
「あっそ。でも勝ったのは俺だし」
「ええ、そうね。…だからすごく感動した」
意味のない会話だと思う。でも、あの日の光景は未だに脳内にこびり付いている。相手は1年にも関わらず真っ向勝負で叩き潰しに行った弦ちゃんも、その威厳に怯むことなく輝く瞳で立ち向かい見事に勝利を収めた彼も素敵だった。
「全国も観に行くわ。楽しみにしてる」
兄に言われたからというのもあるけど、それを抜きにしても観に行きたい。彼らだけじゃなくて、全国から集められた猛者たちの試合を観てみたい。日本のテニスの実力がどんなものなのか、この目で見てみたい。
「アンタは何でテニスやめたの?」
私の激励を無視して、彼はそんなことを聞いてきた。他人に興味なさそうに見えたけど、意外とそうでもないのだろうか。
「…怪我、かな」
正確には違うけど、兄以外の人にはそれで通してるから問題ない。異国での恐ろしく悲しい出来事を、今日会ったばかりの少年に話す必要はないし話したくない。
そんな私の曖昧な返事は彼にわだかまりを残したようで、彼は微かに眉をひそめた。でも、私たちの間に固く張られている見えない壁を感じたのか、それ以上何も聞いてこなかった。
「テニス部には兄がいるの」
「え?」
「手塚国光。…貴方には期待している、そう言ってた」
自分のことは語りたくない。でも、兄のことなら語りたい。かつてはあんなに嫌っていた兄の話を、こんなにも快くできる日がくるとは思ってなかった。色んな人の優しさに触れて私も少しずつ大人になっている、そう思って良いのだろうか。
「青学の柱、だっけ?」
兄や不二さん、そして大石さんも言っていた。今までは兄がその柱で、ずっと青学を支えていたのだ。彼らのテニスを知らなかった私だけど、意外にも私に話しかけてくれる人はいるもので、関係ないはずの私にもそんな話をしてくれた。
「なりなさいよ、兄に代わって」
正直なところ彼が羨ましい。私がどんなに頑張っても望んでも諦めなくても、彼のポジションには絶対になれない。私が男で、兄の弟として生まれていたらどんなに良かったか。もしかしたら、今とは全然違う世界を生きていたかもしれないのに。兄と共に歩む道を選べていたかもしれないのに。
「言われるまでもないよ。奪い取ってやる」
強い瞳と口調で不毛な思いを消し去ってくれた彼に感謝しよう。後悔ばかりの人生だけど、その中にも光はある。どんなに辛くて苦しくても、いつかは必ず和らぐと、それを昨日知ったばかりじゃないか。
「うん、約束」
未来明るい少年に祝福を。きっと彼は、日本だけじゃなくて世界をも震わせる選手になる。その過程で何度闇に突き落とされても必ず這い上がれる強さがある。
やや下にある彼の頭に手を置くと、私はそのまま公園を後にした。すっかり暗くなった空を見上げながら、明日も晴れますようにと心の中で呟いた。